はなこの仏像大好きブログ

奈良、鎌倉、京都、古美術、そして、日常の生活などを取り上げて書いて行きたいと思っています。 よろしくお願いします。 主婦、母ですが、通信制大学院の学生でもある、アラフィフおばさんです。

奈良や古美術が好きな主婦のブログです。

アメブロ『奈良大好き主婦日記』
http://s.ameblo.jp/naranouchi/

と並行して書いています。

よろしくお願いします。


今回は、(いつものように唐突ですが)常行堂についてまとめてみたいと思います

常行堂は多くの場合、ひっそりとした場所に法華堂と仲良くペアになって建てられています
(比叡山西塔では、廊下で結ばれた2つのお堂を「担い堂」という愛称で呼んでいます)


一般的な寺院の伽藍といえば、本尊を祀る金堂やお坊さんの勉強のための講堂、仏舎利を祀る五重塔などの建物を想像しますが、
常行堂はそんなに有名でもなく、世間にあまりなじみがないのではないかと思います

この常行堂というお堂は天台寺院に建てられるもので、
現存が確認されているもの、もしくは遺構となっているものの具体例は、比叡山西塔担い堂を筆頭に、日光輪王寺、毛越寺(現行の常行堂と遺構の常行堂法華堂)、鶴林寺、円教寺、立石寺等国内のいろいろなところにあります

↓比叡山西塔担い堂(常行堂と法華堂)
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↓日光輪王寺常行堂
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↓輪王寺常行堂阿弥陀如来と脇侍4体
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↓法華堂と結ぶ廊下
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↓法華堂
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↓毛越寺常行堂
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↓宝冠阿弥陀
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↓毛越寺常行堂跡と法華堂跡
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また、建物や遺構が現存しなくても、文献上で常行堂の存在が確かめられているものには、
比叡山東塔・横川、園城寺、多武峰妙楽寺、法住寺、法性寺、法成寺、広隆寺、勝尾寺などがあります
このように沢山の常行堂が存在したわけですが、その歴史は比叡山東塔・西塔・横川の三か所に建てられた常行堂から始まります




1 鑑真により 請来された『摩訶止観』

 浄土信仰・法華信仰は、最澄が建てた比叡山延暦寺を中心に平安時代後期以降にさかんになりました

最澄より遥か前、6世紀の中国では天台の祖智顗(ちぎ)が、いわゆる法華三大部(『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』)を説きました

この法華三大部は早い時期に日本に請来されていました
まず『法華玄義』は、初写年代から天平勝宝2年(750)以前に伝わっていたことがわかるそうです
これは、天平勝宝4年(752)東大寺大仏開眼供養より前ということになるので、個人的には少しビックリです

次いで『法華文句』『摩訶止観』は、天平勝宝6年(754)に鑑真が持ってきたんだそうです(『唐大和上東征伝』)
これもビックリ!

↓鑑真
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つまり…法華三大部は
・750より前に『法華玄義』

(752 東大寺大仏開眼供養をはさんで)

・754に『法華文句』『摩訶止観』(by鑑真)

という感じに日本に来たわけですね・・・(並べてどうする?)




2 最澄と法華三昧堂

最澄(一乗院)
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最澄(766/767-822)は、15歳の時に国分寺の僧侶となり、19歳で仏道修行のため比叡山に草庵を結び、日夜『法華経』などの経典 を読誦しました

最澄が籠ったこの草庵は一乗止観院、のちの比叡山根本中堂です

最澄は『法華三大部』をここで学び、和気広世らの帰依と尽力により入唐還学生となりました

延暦23年(804)には中国にわたり、台州龍興寺の道邃から『摩訶止観』の必要を授けられ、また仏隴寺の行満からは『法華疏』『涅槃疏』を受けました
さらに、翌年延暦24年(805)には越府龍興寺の順暁から灌頂を受け、図像等を授けられて帰国しました

最澄の在唐期間はわずか8か月余りと言うことになります
たった8か月の「短期留学」で日本の仏教に多大な影響を残す功績をあげたのだから、やはり最澄はすごいです!
(ふつう初めて海外に行ったら、マゴマゴしているうちに8か月くらいすぐに過ぎてしまうものね…)

最澄が帰朝した翌年の延暦25年(806)には、天台宗開建の勅許が下り、年分度者二人が割り当てられました
年分度者のうち一人は『摩訶止観 』を中心にした止観業(天台法門)、もう一人は遮那業(大日経を中心に密教)を修することが定められました

止観業の一人は毎年毎日法華、金光明、仁王等の大乗護国経を講読し、遮那業の一人は大日経、孔雀、不空羂索等の護国真言を念じることが日課として課されました
またこの2人は、12年の間籠山して就学しますが(ひぇ〜😱ざん)、12年の内訳は前期6年が聞慧を主とし思修を従に行う期間、後期6年が思修を主とし聞慧を従とし、止観業では​四種三昧を修習する期間に分けられていました

帰朝後4年経った大同5年(810)正月には年分者8人が度され、四種三昧(ししゅざんまい)を修する人数が整ったので、
弘仁3年(812)に最澄は法華三昧のための法華(三昧)堂を造立しました
この時の法華堂について詳しいことはよくわからないようですが、場所はおそらく講堂の北の根本法華院地であろうと考えられているようです(私はその場所自体どこなのかよくわかりませんが)


3 四種三昧について
ところで、上に出てきた​四種三昧とはいったい何でしょうか

四種三昧とは、はじめのほうに書いた智顗撰述の法華三大部の一つ『摩訶止観』に説かれる天台僧侶の修行の実践行法です
それは次の四つの行法、➊常坐三昧、❷常行三昧半行半坐三昧、❹非行非坐三昧から成り立ち、それぞれの内容は以下のようになります

➊常坐三昧:「文殊背説般若経」「文殊問般若経」を典拠とし、90日間静室独坐、一仏名号を称え加護を求める行法
常行三昧(仏立三昧):「般舟三昧経」の所説によるもので、浄土信仰に直接関係します
その内容は、つねに道場の周辺を饒旋し(ぐるぐる回る)、休むことなくひたすら行を実践、座らない
口ではつねに阿弥陀仏を称え、心に阿弥陀仏を念ずる
休息なし
❸半行半坐三昧:方等三昧または法華三昧ともいい、方等三昧は「方等三昧行法」により、法華三昧は「法華経」によるものをいう
37日間方等経または法華経によって行と坐を交互に行う
口に呪をとなえたり大乗経典を唱える
❹非行非坐三昧:請観音経により、行坐を定めず随自意に行う行法

最澄ははじめ❶から
❹の各三昧院の建立を意図しましたが、結果的には❸法華三昧のための法華堂だけを造立、他の3つのお堂を造ることはできませんでした
その理由は最澄が大乗戒壇の設立の方に重きを置いていたからです(有名な最澄の『顕戒論』三巻はこの大乗戒壇の設立のために著わされたものだそうです)

最澄は菩薩大戒をひろめるための大乗戒壇の設立を請いましたが、東大寺景深らの阻止にあって勅許を得ることができませんでした
そのため天台宗にて度を受けた者もある程度の人数がいましたが離散してしまいました

このような状態では法華堂以外の四種三昧を行うお堂を建てることももちろん出来ず、大乗戒壇設立の勅許ももらえず、弘仁13年6月4日に五十六歳で亡くなってしまいました
(皮肉なことに最澄が亡くなってからわずか七日後には大乗戒壇の設立の勅許がおりたそうです)




4 円仁、法照流の五会念仏と出会う
最澄没後は、弟子円仁(慈覚大師)の登場です

慈覚大師円仁は大同三年(808)に15歳で叡山に入り最澄に止観を学びました

↓円仁(兵庫・一乗寺、部分)
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https://ja.m.wikipedia.org/wiki/円仁


円仁は弘仁5年に21歳で官試に合格し沙弥戒や具足戒を受け、10年の間籠山しました


ところが40歳の時に病気になってしまったので、叡山北洞(のちの首楞厳院、横川)に草庵を結び死を待ちました🤒


すると、三年後に病が治りました🙄


その後承和五年(838)には遣唐使とともに入唐し、開元寺にて宗叡に梵書、全雅に灌頂を受け、たくさんの経論や曼荼羅、仏舎利などを携えて、唐の開成4年(839)に帰朝しようとしました
しかしこの時は帰朝に失敗してしまい🌊、中国の五台山に登りました

この時、五台山にて円仁は志遠から『摩訶止観』を受けました

また開成5年には五台山竹林寺の般舟道場をを訪れ、法照和尚が修する法照の念仏三昧と出会いました(円仁は、中国で密教も学んでおり、真言に負けないほど密教も重視していました…がそれはさておき)

円仁は法照流の念仏を日本に持ち帰っています

法照は白蓮社の慧遠を慕い廬山を訪ね、五会念仏の法を会得しました
その後法照は五台山に入り、インド王舎城の竹林精舎に擬して竹林寺を創建し念仏のため般舟道場を構えました
円仁はこの五台山竹林寺の般舟道場を訪れ、わずか二週間で法照流の五会念仏を会得したのです


円仁は承和14年に帰朝し、仁寿元年(851)には弟子たちに法照流の念仏を伝えています

この法照流の五会念仏は、慧遠(えおん、324-416)の流れを汲み、 善導の思想などを盛り込んだ浄土教的な念仏行法でした
その特徴は念仏の中心に『阿弥陀経』をすえ、音楽的な曲調
による引声念仏が基本でした


これは最澄が持ち帰った本来の『摩訶止観』所説の般舟三昧経による常行三昧(上記3❷)とは異なるものです(最澄の本来の常行三昧は阿弥陀を正念することに終始する天台の行法)


この経緯を見ると、天台宗から浄土信仰が生まれた ことのいきさつの一端がわかるようです
(歴史の教科書では、密教は天台宗と真言宗と 簡単に分けているけど←「てんさい、しんくう」って覚えるんだよね…しかし、そんなに綺麗さっぱり単純な話でもないってことだね…だって、天台宗って浄土教の始まりなんだから!)


ここまでをまとめると
   智顗によって説かれた摩訶止観は奈良時代に鑑真により日本に請来されていた
→最澄は比叡山で摩訶止観を研学したのち、入唐した
→最澄は、唐で摩訶止観の必要を授けられ、帰朝してからは天台宗を開き摩訶止観の四種三昧のうち法華三昧を行うための法華堂を開いた
→しかし、引き続き他の堂の建築をするよりも大乗戒壇の設立を優先したため、法華堂以外建てることができなかった
→最澄の弟子円仁は、最澄に学んだが病気になり横川で死にそうになった
→しかし病気が治ったので入唐 し、五台山竹林寺で法照流五会念仏を会得した
→法照流の念仏は善導の思想が入る浄土教的なもので、引声念仏である♩
→円仁は法照流の五会念仏を日本に持ち帰った


もし最澄が常行堂の建設までなしえていたとしたら、摩訶止観に基づく(3❷の)常行堂が完成したと思われますが、

実際は円仁が音律を特徴とする五会念仏を持ってきたために、歌声(?)の響く常行堂となったともいえるのでしょうね(むしろ円仁グッジョブだよね✨)


この五会念仏が浄土教の流れを引くことは述べましたが、だからと言ってすぐさま浄土信仰と直接結びつくかというと、そうでもないようです(ややこしくなってきた
…)




5 常行堂の成立

仁寿元年(851)に円仁は法照流の念仏を伝えましたが、ただちに常行堂が建てられたかどうかについては史料に乏しく詳細がわからないようです

初めて常行三昧堂が建てられた場所は虚空蔵尾(一乗止観院のあったところ)ですが(年不詳)、
この建物は、円仁の没後元慶七年(883)に円仁の遺命により弟子の相応講堂の北に移建しました

この移建については、いろいろ疑問があります

そもそも円仁が常行堂を仁寿元年ごろに建てたのかどうか

・なぜ虚空蔵尾の中心地ではダメで講堂北に移されたのか 、また、

・先に最澄が建てた法華堂との位置関係はどうなっているのかなど謎だと思いませんか?


このように様々な謎があるように思えますが、いずれにしても、(一番はじめに書いたように)比叡山以降の多くの天台寺院が「常行堂と法華堂」をセットにして建てたのは、比叡山から引き継がれた伽藍配置の伝統であるといえるようです




さてこの常行堂ですが、比叡山の中で東塔、西塔、横川の三塔全てにおいて建設されました
いずれの建物も「方五間の宝形造り」ですが、中に祀られた阿弥陀と脇侍の4尊の解釈をめぐりこいろいろめんどくさくかち面白い話が展開しますので、どうぞお付き合いください


まず、三塔に置かれた仏像構成について、2つの史料の記述をもとにまとめてみます
❶東塔常行三昧堂
これは上に記述した、元慶元年(883)相応により講堂北に移建された常行堂です
建物は現存しませんが、 『覚禅鈔』によれば内部には金剛界宝冠阿弥陀如来をまつり、阿弥陀の周りには四親近菩薩(金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛因菩薩、金剛語菩薩)を祀るお堂であったそうです(円仁請来金剛界八十一尊曼荼羅の西方諸尊を典拠とする密教尊)

他方、 『山門堂舎記』によれば、阿弥陀を囲んでいたのは、四摂菩薩(観音菩薩・勢至菩薩・地蔵菩薩・龍樹菩薩)であると記されていますが、一般的にはこの『山門堂舎記』の記述は誤り であると考えられています

金剛界八十一尊曼荼羅について

http://naranouchi.blog.jp/archives/49138489.html


❷西塔常行堂
寛平5年(893)、増命により建てられたもので、内部の阿弥陀如来はやはり金剛界宝冠阿弥陀如来、周囲を取り囲んでいたのは四親近で、❶と同じ構成です(『覚禅鈔』)


なお、現在西塔には「担い堂」として、常行堂と法華堂が仲良く並んで立っていますが、担い堂は当時この場所にあったかどうかも不明だそうで、現行の担い堂は信長の焼き討ちの後、文禄四年(1595)再建のものだそうです


❸横川常行堂
横川は円仁が天長10年(833)ごろ病気になって蟄居し草庵を結んだ場所であることは前の方に書きましたが、嘉祥元年(848)に首楞厳院、天暦8年(954)には楞厳三昧院(講堂・法華堂・常行堂)が九条師輔により建てられ、常行三昧・法華三昧は康保5年(968)に慈覚大師良源により始められています

『覚禅鈔』には、やはり❶❷と同様に、宝冠阿弥陀と四親近菩薩があったと記されていますが、他方『山門堂舎記』には、阿弥陀四摂菩薩(観音菩薩・勢至菩薩・地蔵菩薩・龍樹菩薩)が安置されたとあり(なぜか❸に限っては)『山門堂舎記』の記述を信用して、阿弥陀と四摂菩薩の組み合わせが横川で登場したと考えるようです


◉脇侍の変化と解釈

東塔・西塔  四親近菩薩(金剛界の法利因語)

               (『覚禅鈔』による)

       ↓

横川   四摂菩薩(観音勢至地蔵龍樹)

               (『山門堂舎記』による)


この組み合わせの変化の意味するところは、
横川常行堂において密教的五尊像から浄土教的五尊像への移行があったということです


たしかに時代的には、985年に恵心僧都源信が『往生要集』を著すなど世の中が浄土教信仰へ大きく傾く転換期にあり、比叡山三塔において同じ常行堂でも仏像構成や思想的背景が時代の流れとともに尊像構成が変化したと考えられるかもしれません



6 阿弥陀五尊をめぐる解釈

比叡山東塔・西塔と横川に常行堂が建てられた時代は、東塔・西塔の二つが9世紀末であるのに対し、横川は10世紀後半と時間に開きがあります

それぞれの時代背景を考慮すれば、東塔・西塔が密教的五尊構成であるのに対して、横川の時代には(とくに横川には首楞厳院があったり源信や慶滋保胤がいたりした…)浄土教的五尊構成になったという解釈はしっくりくるのです

しかし、そうすると何故東塔と西塔の二つについては『覚禅鈔』に書かれたことを信用して『山門堂舎記』の内容だけを間違いとしているのに対し、

横川に関する記述では正反対に『覚禅鈔』はダメで『山門堂舎記』が信用できてとなるのでしょうか?


史料の信用状況(◯は信用、×は信用しない)        

東塔   『覚禅鈔』 ◯、『山門堂舎記』×

西塔   『覚禅鈔』◯、『山門堂舎記』×

横川    『覚禅鈔』×、『山門堂舎記』◯

(書かれている内容はすべて同じで、阿弥陀五尊の脇侍4体は「四親近」とある)


これではまるで解釈が先にありきの御都合主義なのでは?と思うのは私だけでしょうか?


だって、上二つでは信用したという史料について(そう言った舌もまだ乾かないうちに)最後の一つについては「信用できん」っていう、手のひら返しの解釈ってどういうことよ?って思いませんか?




で、実は、この解釈については違う意見もあるのです
それは、この件につき『覚禅鈔』の記述を全部信用し、三塔とも

「中尊は宝冠阿弥陀如来、脇侍四菩薩は法利因語の四親近菩薩である」

と統一して解釈する意見です…こっちの方がよっぽど合理的で素直な読み方に思われます


でも、そのように解釈すると、今度は横川の時代には浄土教があんなにさかんなのに横川の仏像まで「密教尊の四親近菩薩」と画一的に解釈するのはどういうこと?天台浄土教はどうなるの?という反論が出そうです


🙄どうしましょう?

これについても解決策が準備されています

それは「あまり厳格に文献を解釈しなくてもいい」という方法です

どういうことかというと、一般的に横川の時代すなわち平安時代後期には、すでに「四菩薩の名称」が混乱して使われていることが、他の資料からわかるため、本件についてもコンランして書いちゃった…というように解釈するのだという方法です

(このようなコンランは鎌倉時代になってもあったそう)


だから『覚禅鈔』のワンパターンな記述(阿弥陀+法利因語)も、コンランして書いてあるだけだからオッケー👌ということになるようです


そしてこのような考え方をとる本を読み進めていくと、

従来説が横川常行堂をもって密教的から浄土教的な五尊像に変容したという説具体例として取り上げられる保安寺阿弥陀五尊像については、このように言っています(保安寺と奈良博で保管ですが、最近奈良博で五体揃ったのを見ましたね)


↓保安寺阿弥陀五尊像

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↑中尊は定印、螺髪、偏袒右肩
従来説では、周りに観音勢至、地蔵龍樹が取り囲んでいるのは、横川の常行堂形式によるというか 


この保安寺の五尊像について、上にあげた説をとる論者は、この五尊の作風が阿弥陀・勢至菩薩とその他三体には違いが認められるとから、当初からの組み合わせとは言いがたく従来説のいう阿弥陀+観音勢至地蔵龍樹とは考えられないということになるようです


また、『覚禅鈔』の記述については、信頼性が高いので、(横川とか保安寺とか言うまでもなく)そもそも横川流の「阿弥陀+観音勢至地蔵龍樹」なんて形式は存在しなかったということになります




ん?🧐ちょ待てよ…🤔🤔

平安時代後期には、脇侍の呼び方にコンランがあるのはわかりました

だから、たとえ覚禅鈔で「四親近」と書いてあっても、それはコンランした書き方だったからホントは四親近ではなく「四摂菩薩」すなわち観音勢至地蔵龍樹である!という解釈が成り立つ…ということではなかったの?


覚禅鈔が信用できるということだけ取り上げて、呼び方にコンランがあったことを途中で却下してしまったら、「横川も密教尊」ってことになっちゃうんじゃないのかしら?


😳💦 皆さん、ついてきてますか?




この問題は、さらに

「阿弥陀如来の五尊形式から三尊へ、そして独尊へ…という流れになるという問題」

それに絡めて

「阿弥陀の印相の変遷の問題(転法輪印から定印へという問題)」にも発展します

(あ、阿弥陀の印相について、まだ、「江戸より前の阿弥陀如来の印相も九品に分かれる」とか言ってる人がいるけど、それ間違いですからね!)


阿弥陀如来についてはごちゃごちゃした問題がいろいろあり、どうもスッキリしないので、また「いつか」考えてみたいと思います(「いつか」は、やって来るのだろうか?)


参考文献、図書
濱島正次『図説日本の仏教3 浄土教』新潮社
濱田隆  『極楽への憧憬 浄土教絵画の展開』 美術選書











東大寺と興福寺に行く際の参考資料として、2つの寺の仏像を中心にまとめてみました


人に説明するためのもので、ワードに打ち込んだものをコピペしたために、なんとなく読みづらくて、ブログ仕様に改めようとしましたが、うまくいかず、見苦しい場所が多々あるかと思いますが、少しでもご参考になればと思います




以下↓です



東大寺

◎歴史概要

天平13(741) 聖武天皇、仏教による鎮護国家を目指し全国に国分寺国分尼寺建立の詔を出す

天平15(743) 聖武天皇、大仏造立の詔

          東大寺と本尊盧舎那仏の造立開始

          近江紫香楽宮の近くに甲賀寺を開き大仏造立工事が始められる

天平16(744) 大仏の骨柱立てられる

天平17(745) 都を平常に戻すことに

      大仏造立工事も平城京   の外京東山に

この場所は神亀五年(728)夭折した基王(もといおう)の菩提を弔うた めに建てられた金鐘寺があり、大和国分寺(金光明寺)に定められていた   

⇒大仏造立の地となってからは、東大寺と称されるようになった

      8月  工事着手

天平勝宝4(752)開眼供養(まだ、大仏は鍍金の途中。大仏殿も未完成)

天平宝字元(757)頃、大仏完成

天平宝字4(760)頃まで、主要堂塔の造営終わる

治承4(1180) 平重衡の焼き討ちで堂塔の大部分を焼失、仏像もほとんど救出できず

養和元(1181) 俊乗坊重源、朝廷から造東大寺大勧進職に任ぜられる

           諸国を行脚し勧進。源頼朝の協力な支援を得て復興事業を推進

建治元(1275) 西塔造営(東大寺復興事業完了)

永禄10(1576)兵火で大きな被害

宝永6(1709) 公慶上人勧進、徳川幕府の助成と大衆の協力を得た復興により、

          大仏殿落慶供養

 

◎仏像について

南大門金剛力士像

国宝、南大門、木造、彩色、阿形836.3㎝、吽形842.3㎝、鎌倉時代

ヒノキの寄木造、彩色。瞳には鉛ガラスをはめ込む。

・一般的な配置と左右が逆になっている(法華堂内の金剛力士像と同じ配置)

(向かって右が吽(うん)形、左が阿(あ)形)

・当初は肉身を朱、頭髪を褐色に彩色し、目は胡粉の白眼に墨で瞳を入れ、目尻に朱をさし、裙衣は青系統の繧繝彩色。

 

・制作年代

 『東大寺別当次第』

   治承の兵火後、建仁三年(1203)、運慶と快慶ら20人の仏師により、

   7月24日から10月13日(開眼供養)までの、70日間で造られた。

・作者について

従来、制作者については、吽形がやや無理な姿勢ながら限られた空間に抵抗し、立体感に富んだ迫力のある造形から運慶と考えられ、阿形は限られた空間のなかに自然に収まり、細部まで整理されている造形から快慶の作であると考えられてきた。ところが、平成元年からの解体修理により新たな知見が加えられ、それによれば、吽形像の像内から発見された経巻の奥書に重源他の結縁者の名とともに、大仏師湛慶、定覚の名が記される。他方、阿形像は持物金剛杵内の銘記に「大仏師法眼運慶」、「アン(梵字)阿弥陀仏」(快慶)の名があり、従来の考えとは矛盾する。


 

 

従来の考え

(作風から)

像内銘記

(解体修理により発見)

阿形

快慶

運慶、快慶

吽形

運慶

湛慶、定覚


この矛盾に対して、新しく提唱された解釈

①運慶は惣大仏師として全体を監修、そのため阿形の制作は経験豊かな快慶にまかせた。

②吽形については、運慶が湛慶・定覚を指導した。

③そのため、阿形には快慶の作風が、吽形には運慶の作風が色濃く出た。

 

三月堂(法華堂)

1.執金剛神像(塑像)

1216日(良弁僧正の忌日)のみ公開。

国宝、塑像、彩色、170.4㎝、天平時代

1.制作年代

   ⑴ 耳の形の一致から、戒壇堂四天王像と同一作者と考えられるという説がある。

     これに対しては、「下絵の輪郭線の有無」と「尊格の高低」の矛盾から、同一作者ではなく同一工房の作であるという反対説がある。

   ⑵ 作風などの観点から、制作順は

和銅四年(711)法隆寺五重塔塑像⇒天平六年(734)興福寺十大弟子像・八部衆像

⇒執金剛神像(より細やかな写実表現⇒戒壇堂四天王像(より均斉と調和の取れた表現)

2.『日本霊異記』中巻二十一話との一致

    東大寺建立以前の聖武天皇の時代、奈良の東山に金鷲(こんしゅ)という名の優婆塞(下注)がおり、執金剛神の塑像を祀っていた。その像の脛につけた縄を引いて日夜修行を続けていると、脛から光が放たれて宮中に達し、天皇の知るところとなった。この霊異により、金鷲優婆塞は得度を許されて正式の僧侶となった。この優婆塞ゆかりの像が、今羂索堂(法華堂)の北戸に立つ執金剛神像であるという。

注;東大寺の寺伝によれば、この優婆塞は良弁僧正。本像は良弁の念持仏であるという。

⇒現在、本像の右ふくらはぎには塑土が欠けている箇所があり説話とのかかわりを想像させる。

3.『扶桑略記』などの霊異譚との一致

    平将門の乱(939)に際し、本像に朝敵の調伏を祈願すると、元結紐がたちまち大きな蜂になって、東を目指して飛び去った。その蜂は平将門の軍勢を刺して大敗させた。

   ⇒この伝説に基づき厨子の全面左右の柱火袋に蜂の姿をあしらった灯篭が懸けられている。

 

2.不空羂索観音菩薩立像

国宝、脱活乾漆像、漆箔、362.0㎝、天平時代

雑密経典『不空羂索経』の教説に従い、鹿皮衣(ろくひい)をまとい、三目八臂。

銀製宝冠。連弁型の放射光。六重の蓮華坐上に直立。

後世光背の支柱が切り縮められたため、頭光の中心が肩の位置に下がっている。当初は頭光と頭部が重なっていた。

 制作年代には諸説あり。いずれにしても天平盛期の代表的作例。

 宝冠は、阿弥陀化仏(銀製鍍金)、翡翠・琥珀・水晶・真珠を二万数千個も散りばめた豪華なもの。

 

3.梵天・帝釈天

国宝、脱活乾漆像、彩色、漆箔、梵天402.0㎝、帝釈天403.0㎝、天平時代

法華堂内の梵天・帝釈天・四天王・金剛力士像は、本尊不空羂索観音像に随侍する御法神立像。

梵天・帝釈天は古代インドのヴェーダ神話に登場する神で、のちに仏教に取り入れられ一対の守護神となった。

梵天  バラモン教における世界創造の原理「梵」を人格化した神 

帝釈天 アーリア人の理想の戦士で太陽神とも雷神ともいわれる武勇神。そのため、帝釈天は甲を付けることが多い(法華堂の二像は逆になっている)

どちらも宝冠をつけていたと思われる(頭髪に釘孔がある)

本尊よりも大きいため、本来の脇侍を疑う説もあるが、左右対称の構成や作風からみて一具のものとみて差し支えない。但し、制作時期は本尊よりやや遅れると思われる(大橋)。

4.四天王像

国宝、脱活乾漆、彩色、漆箔、300.0㎝~310.0㎝、天平時代

梵天・帝釈天と同じく、本尊と一具。

5.金剛力士立像

国宝、脱活乾漆、彩色、漆箔、阿形 326.4㎝、吽形 306.0㎝、天平時代

一般的な金剛力士像は上半身裸形で下半身に裳をつけた姿だが、法華堂像は鹿皮の甲をつけた武装形

阿吽が一般的な並びと逆(阿形が左、吽形が右)だが、視線方向からみて当初からこの並び

 

法華堂の本来の安置仏は、梵天、帝釈天、四天王像、金剛力士像の8体と不空羂索観音像とみられる。しかし不空羂索観音像には造形感覚の違いがみられ、制作時期や作者が違うと考えられている。

 

東大寺ミュージアム

伝日光・月光菩薩立像

国宝、旧法華堂所蔵、塑像、彩色、截金、伝日光207.2㎝、伝月光204.8㎝、

天平時代

法華堂では不空羂索観音像の左右に安置されていたが、東大寺ミュージアム建設に伴い移動された。

不空羂索観音像は脱活乾漆だが、伝日光・月光は塑像で材質が異なり、像高のつり合いもとれないことから、三月堂に安置されていた時代も、他堂から移されたものと考えられてきた。像容から、梵天・帝釈天の一対と考えられる。

戒壇堂四天王像と造形感覚が共通するため、同一工房の作品と考えられる(執金剛神像参照)。

 

八角灯籠火袋羽目板音声菩薩像

国宝、奈良時代(8世紀) 

大仏殿正面に立つ八角燈篭の火袋8面のうち4面には音声菩薩が浮き彫りで表現されている。

制作年代については、天平勝宝4年(752)大仏開眼当初とする説、天平宝字以降とする説がある。

東大寺ミュージアム所蔵の音声菩薩はかつて東北面に設置されていた1面であるが、昭和37年2月21日夜に盗難にあい、翌日、上下の縁と右上方を欠損した状態で発見された。

 

 

戒壇堂 

四天王立像

国宝、塑造、160.5㎝~169.9㎝、天平時代

戒壇堂四天王像は、法華堂の塑像(執金剛神像、伝日光・月光菩薩像(現、東大寺ミュージアム所蔵))と、丁寧な塑形、気品のある作風に共通した特徴があるため、同一工房の作かと考えられている(執金剛神像、伝日光・月光参照)。

 

戒壇堂は天平勝宝7年(755)に創建されたが、当初は銅造の四天王像が安置されていた。現在の堂宇は江戸時代の再建、当初の四天王像も失われている。

 

現在の四天王像は天平時代の最高傑作といわれる像であるが、江戸時代に他の堂から移されてきたもの。もとの場所、移された時期は不明。

 

1.配置

前方(南)に持国天、増長天、

後方(北)に広目天、多聞天


 

↑北

 

広目天    多聞天

 

 

   多宝塔

 

 

増長天    持国天

 

↓南

 

 

四天王の見分け方

 東から時計回りに

持国天(東)→増長天(南)→広目天(西)→多聞天(北)

「じ・ぞう・こう・た」とおぼえる。

広目天は巻物と筆を持つ

多聞天は塔を持つ

 多聞天は一体だけ独立すると「毘沙門天」となる。北方を守る。


2.対照表現

⑴体勢

  持国天・増長天  両手を低く構える

  増長天・多聞天  右手を高くかかげる

⑵目の表現

  持国天・増長天  瞋目決眦の忿怒相、持国天は緑色、増長天は黒褐色のガラスを入れる

  広目天・多聞天  眉根を寄せて目をひそめ遠くを見る、目頭切開したようなあり得ない目、

           ロンパリで広い視野を獲得

 ⑶着甲

  持国天・多聞天  花飾りのある丸紐を結ぶ

  増長天・広目天  結び目のある紐

 ⑷邪鬼の向き(左右たすきがけ)

  持国天・広目天  右向き

  増長天・多聞天  左向き

 

開山堂

良弁僧正坐像

 国宝、木造、彩色、92.4㎝、平安時代

 天平勝宝4年(752)大仏開眼供養

  初代東大寺別当

 宝亀4年(773)没 85

 

 ヒノキ、一木造り、内刳りなし

 如意は良弁遺愛の品と伝えられる

 

俊乗堂

重源上人坐像

 国宝、木造、彩色、82.5㎝、鎌倉時代

 南都焼き討ちにあった東大寺の復興のため、61歳で大勧進職についた。

 実際の造寺造仏にもあたり、南大門、大仏殿の建築に大仏様と呼ばれる宋の新様式を採用、

 大仏鋳造には宋の工人陳和卿、諸仏復興に運慶・快慶などの慶派仏師を登用した。

 

 『元亨釈書』に、「源(重源)没して遺像を寺に置く」と記される。鎌倉彫刻の中でも傑出した像は、運慶・快慶などの当代一流の仏師の手になると考えられる。


 

興福寺

◎歴史

興福寺は藤原氏の氏寺。

 

天智8(669) 藤原氏初代鎌足の妻鏡女王が鎌足の発願になる仏像を安置するために建立した山階寺に始まる⇒飛鳥にうつり厩坂寺と称される

和銅3(710) 平安遷都にともない、現在地に移り、興福寺と呼ばれるようになる。

         不比等は中金堂を中心とする伽藍中枢部の造営を行う。

養老4(720) 不比等没。その後、朝廷の力で、諸堂建立。

北円堂(721)、東金堂(726)

天平元(729) 不比等の娘光明子、聖武天皇の皇后となる。光明皇后を仲介に、興福寺と朝廷が強い繋がり。

五重塔(730)、西金堂(734)

藤原四家間の勢力争いを背景に、各家によって諸堂の造営が行われた

弘仁4(813) 南円堂

     ~初期造営、完了~

治承4(1180)平重衡の南都焼き討ちでほぼすべての堂宇を焼失

寛元年間(1243)に再興を終える

明治時代の廃仏毀釈で、鎌倉再建の食堂と細殿が壊され、五重塔(現国宝)も売却、焼かれる寸前。

明治13 公園となり、保存

 

◎仏像

国宝館

1.金剛力士立像

国宝、木造、彩色、阿形154.0㎝、吽形153.7㎝、鎌倉時代

西金堂に安置されていた像は、南都焼き討ちの際に焼失。現存は再興像。

ヒノキの寄木造、玉眼、塑土の上に彩色。慶派。

2.天燈鬼・龍燈鬼立像

国宝、木造、彩色、天燈鬼78.2㎝、龍燈鬼77.8㎝、鎌倉時代

南都焼き討ち後の復興期の作。

西金堂の仏前に置かれた一対。ヒノキの寄木造。内刳り。玉眼。

天燈鬼 肉身は朱、

 

龍燈鬼 肉身は緑。銅版の眉、水晶の牙。

    康弁作(運慶第三子)

3.板彫十二神将像

国宝、木造板彫、彩色、88.9㎝~100.3㎝、平安時代

   当初の場所不明。江戸時代には東金堂にあった。

4.仏頭

国宝、銅造、鍍金、98.3㎝、白鳳時代

旧山田寺仏頭

昭和12年、東金堂の解体修理の際に本尊薬師如来像の台座の下から発見された。

 

1180年の南都焼き討ちで東金堂は焼失したが、元暦2年(1185)に再建された。

   しかし本尊の制作がいっこうに始められなかったために、業を煮やした僧が、山田寺の薬師三尊像を強奪し、東金堂に安置した。山田寺は現在の奈良県桜井市にあった寺で、大化の改新で活躍した孝徳朝の右大臣蘇我倉山田石川麻呂の発願の寺。昭和58年に廻廊部分が発掘された。

石川麻呂は、皇太子(のちの天智天皇)暗殺を企てた罪で大化五年(649)に自殺に追い込まれた。無実の罪が明らかになってから後、寺の造営は天武7年(678)に石川麻呂の孫娘の持統天皇と夫の天武天皇によって継承され、講堂本尊は天武7年(678)鋳造開始、14年に開眼供養。

強奪され、東金堂に移されてのち、応永18年(1411)火災大破し、頭部だけが残り、東金堂再建の後は台座の下に置かれた。

5.十大弟子立像

国宝、脱活乾漆、彩色、天平時代、144.3㎝~152.7㎝

舎利弗・目犍連・須菩提・富楼那・迦旃延・羅睺羅の6体のみ

(西金堂参照)

6.千手観音立像

国宝、木造、漆箔、520.5㎝、鎌倉時代。

もと、食堂の本尊。南都焼き討ちで焼失した食堂の再建の際、1181年に千手観音像は成朝により制作されはじめたが、一時中断し、1217年再開。完成は1229年。

   ヒノキ、寄木造り、玉眼、漆箔。

7.八部衆立像

国宝、脱活乾漆、彩色、148㎝~155.4㎝、天平時代

(西金堂参照)

 

東金堂

神亀3年(726)に、聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒を願って創建。

本尊薬師如来。何度も火災にあい、現在の堂は室町時代の再興。

1.維摩居士・文殊菩薩坐像

国宝、木造、彩色、維摩88.1㎝、文殊94.0㎝、鎌倉時代。

『維摩経』 中インド毘舎離国に維摩と言う長者がいて、在俗の身ながら菩薩行を修め神通力をもっていた。維摩が病気で倒れた時、釈迦の命令で見舞いに来た文殊菩薩との間で、さまざまな法論が戦わされ、その場面を表したもの。

興福寺維摩会(延暦20年~)の本尊として祀られたらしく、弘仁年間(810~824)には東金堂に安置されていた。現在の像は、1196定慶作。

2.十二神将像

国宝、木造、彩色、113.0㎝~126.3㎝、鎌倉時代

かつて、東金堂には、もと新薬師寺にあった十二神将が安置されていたが、治承の兵火で焼失。その後、これを再興したのが現在の像。

3.日光・月光菩薩立像

現国宝館の旧山田寺仏頭と一具といわれるが、制作年代については仏頭より遅れるといわれる。

 

西金堂

  1.十大弟子像

天平5年(733)光明皇后の母橘三千代の菩提を弔うために造営された西金堂の像。

  『興福寺流記』によれば、一周忌にあたる天平6年(734)完成した西金堂内には、丈六釈迦如来像を中心に脇侍菩薩2体、羅漢10体、羅睺羅・梵天・帝釈天・八部神王・獅子形2体からなる釈迦集会像が安置された(このうち現存は、羅漢10体と、八部神王にあたる十大弟子、八部衆のみ)。

十大弟子は、興福寺では『維摩経』弟子品に登場する十弟子の名称にしたがう。

寺に伝わるのは、舎利弗・目犍連・須菩提・富楼那・迦旃延・羅睺羅の6体のみ(残り4体(摩訶迦葉・阿那律・優婆離・阿難)のうち二体は東芸大と某家所蔵、優婆離は焼失、一体は所在不明)。明治時代に10体そろった写真あり。

 

  2.八部衆立像

   十大弟子同様、天平6年(743)の西金堂完成当初から釈迦集会像を後世する仏像群の一部として安置されていたもの。  

様式技法は十大弟子とほぼ同じ。同じグループの仏師による制作。

寺伝(江戸時代)では、阿修羅・五部浄・沙羯羅・乾闥婆・迦楼羅・緊那羅・鳩槃荼・畢婆迦羅とするが、当初とは考えられない。『法華経』『金光明最勝王経』に登場する八部衆は、天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅迦の八尊であり、本来の名称と考えられる。

インド古来の神が仏教に取り入れられ、仏法守護神となったため、興福寺像も阿修羅以外はすべて甲冑をつけた神将像の形となる。

 

・再建された中金堂は、平成30年、落慶供養。

 

参考資料

大橋一章・森野勝『大和路のみ仏たち』グラフ社、2009、1500円

水野敬三郎監修『日本仏像史』美術出版社、2001、2500円

 


京都、白河の地に平安時代後期、天皇や院、女院によって建てられ、「勝」の字がつく6つのお寺がありました

これらのお寺を総称して
六勝寺(ろくしょうじ)
と呼びます


雨ゲリラ雨が降ったり晴れ晴れたり、くもり蒸し暑かったりした10月のある日、この六勝寺のあった場所=京都岡崎界隈を訪ね、往時に思いを馳せてみました


以下、その時の記録です

六勝寺の場所と名称、発願者はおおよそこんな感じ↓(⚠️私が作った地図なので、アテにしないように…)


現存するお寺が一つもないのが残念なのですが、このあたりは現在では平安神宮を中心にして、京都市動物園、京都市美術館、京都国立近代美術館、みやこめっせ、ロームシアターなどが立ち並んでいます

緑が多く、空が広く、京都の中でも開放感があり、好きなエリアです

では、六勝寺を一つずつ見ていきたいと思います


☘️☘️☘️☘️☘️☘️

1.法勝寺

法勝寺は白河天皇の御願で、承保3年(1076)に創建されました

白河天皇(白河院)
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六勝寺の中では一番東の場所に位置しています(赤い印のところです)


今は南隣に京都市動物園がありますが、この動物園も平安の昔は法勝寺の敷地だったそうです(高級な土地に住む動物たち)

白河天皇が堀河天皇に譲位したのち、白河上皇(白河院)として院政を始めたのが1086年なので、法勝寺はそれより10年ほど前の天皇時代に建てられたことになります
とても広大なお寺で、八角九重の塔が建っていたそうです


で、現地に行くと、なんと驚いたことに、その
「白河院」が「営業中」だったのです!
\(゜□゜)/あせるあせる


↑これだけでは「営業中」なのか、ただの遺跡なのがわかりませんが、

↓こちらには、現代の「白河院」の看板(°_°)

そして、門の表札にも「白河院」
あれ?電灯なんかついているけど、平安時代に電灯あったのかしら?


この場所をグーグルマップで調べると、このような案内が出てきます
そう、現在の「白河院」は公共の宿(私学共済)になっているようです
そして住所は「法勝寺町」なんですね


「日本私立振興共済事業団 白河院」とあります


他方、平安の昔を偲ぶ、↓こんな説明板も建てられていました


このお宿「白河院」の場所が、法勝寺跡で間違いないようです

ちなみに白河院の目の前のバス停は、「岡崎法勝寺町」でした↓

では、次に行きまーす!



2.尊勝寺

六勝寺の中では、白河院から一番離れたところにあります
ここは、白河院の子、堀河天皇の御願寺です


1086年、堀河天皇は8歳の時に即位し、そこから父親 白河上皇による院政がはじまりました

堀河天皇の尊勝寺は、康和4年(1102)創建です

その場所は、↓赤い印の位置にあります…六勝寺の中では、父親 白河とは一番離れたところにあるのです(反抗期か?)


では、いざ現地へ!
先程の法勝寺から西方向へ、平安神宮の前を通り、ロームシアターの裏手を琵琶湖疏水に沿って北上します

琵琶湖疎水が西に曲がると、道の左手の現在は府営住宅の入り口となっている場所に「尊勝寺跡」の説明板があります



こちらも大きなお寺だったのでしょうが、上に府営住宅の鉄筋低層団地が建てられ、往時の面影は全くありませんでした


さて、次!

3.円勝寺

次は、円勝寺を目指します

円勝寺は待賢門院璋子(たまこ)の勅願寺で、大治3年(1128)の創建です

待賢門院璋子
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待賢門院璋子はとても美しい女性だったそうで、若い頃から白河天皇の「寵愛」を受けていました

これはなんとなく、『源氏物語』の若紫→紫の上のリアルバージョンみたいな感じで、
白河はまだ幼いたまこちゃんを気に入り、成長を待ち男女の仲になったらしいのです…おえ〜

白河は子の堀河天皇が亡くなると、今度は鳥羽を5歳で天皇にしました

そして、なんということでしょう!
白河院は、自分が寵愛した待賢門院璋子を、孫の鳥羽の嫁にしたのです!😤ゲボ〜ッ

当然、鳥羽からみれば待賢門院璋子はじいちゃんの寵愛を受けた、年上の女性なのです!
そんな方を嫁にしろだなんて!
…でも、たまこちゃんは美しい女性だったようなので、鳥羽もまんざらでもなかったようです


http://history.kaisetsuvoice.com/Toba-Sutoku.htmlから一部お借りしました



大治4年(1129)には、白河院が崩御

その翌年に、待賢門院璋子は法金剛院を建てました
法金剛院には阿弥陀如来像が安置され、たまこちゃんの半生をジッと見下ろしていたとかいなかったとか…

法金剛院と阿弥陀如来像(院覚作)
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六勝寺の中で待賢門院御願の円勝寺は、地図では赤い印のところ↓

法勝寺(白河院)から西へ数百メートルの位置です…近いわ…!



では、実際の場所に行きましょう!

スタスタ…

あら?😮

あらら??😧😵

現地は…




↓↓こうなってました!(゚ω゚)

ジャジャーン!
ザ・工事中!ヽ(゚◇゚ )ノ
でした〜!

これ、京都市美術館の工事のようです


建設現場の北東の角がアクリル板になっていたので、そこからなんとか内部を覗いてみたのですが目、鉄壁の内部ギリギリまで地面が掘り下げてあって、とても石碑など見えませんでした

おそらく、今は石碑はどこか別の場所に保管してあるんだと思います

そうは言っても、折角行ったのですからそのまま引き下がるわけにはいきません!

建築計画が掲示してあるのを見つけたので、それを撮りました↓

地番に「円勝寺」と書いてあります(^ ^)…まあ、これで円勝寺は「よし」としよう


はい、次!


4.最勝寺

次は、鳥羽天皇の御願、最勝寺を探しましょう!

鳥羽天皇はお父さんの堀河天皇が亡くなると、5歳で即位しました(ご、ご、ご、5歳です!)

鳥羽天皇
IMG_3140


最勝寺は元永元年(1118)創建のお寺なんだそうですが、

…これ、現地では一番わかりづらく、結局石碑の類は探せなかったです


グーグルマップで「最勝寺」を調べると、何故か「全国水平社創立の地」がヒットするのです…↓赤い印のところです…なんで?


で、グーグルマップには、このように説明が出てきます


「岡崎最勝寺町」という住所が出てくるので、この辺りに最勝寺があったことに間違いはなさそうですが、なぜ、水平社創立なんでしょうね?奈良県じゃなかったかしら?
(しかも、グーグルさん、「3時間29分」って計算してくれていますが、まさか鎌倉起点の計算?)


これでよし、としようかと思いましたが、なんだか釈然としません

石碑はないのか?

この点が気になり、諦めきれずに、結局、付近をぐるぐるすることになりました

で、
現地の様子です↓

水平社の碑には気づかなかったのですが、グーグルマップが示す地点のすぐ近くには、京都市美術館別館がありました
このあたりだろうと思って撮っている写真…

ここは、ロームシアターの裏側です

周囲をウロウロしているうちに、琵琶湖疏水を渡ってしまい、「最勝寺町」という地名の場所まで行ってしまいましたあせる(ピンク線引いたところ↓)

このあたり、細見美術館の裏手になりますが(もちろん細見美術館にも寄り道しました)、住宅地が広がります
細い袋小路にはまったりしながらも、
府営住宅のゴミ捨て場付近に「最勝寺町」の文字を発見!


これでよし! としよう…



はい、次、次!

5.成勝寺
さて、次は白河と待賢門院の「疑惑の子」
崇徳天皇の御願寺を探してみましょう!

崇徳院
IMG_3143


上にも書きましたが、
崇徳天皇は、一応、鳥羽待賢門院璋子の子なのですが、、
待賢門院璋子はそもそも鳥羽のおじいちゃんである白河の寵愛を受けていました…

そのため、崇徳は白河と待賢門院の間に出来た疑惑の子と世間では評価され、
父であるはずの鳥羽天皇からは叔父子(おじこ)と呼ばれ、疎んじられていました(子どもに罪はないのにね)

白河、待賢門院、鳥羽の関係性は、上に引用した系図を見てね



で、「叔父子」崇徳天皇御願の成勝寺は保延5年(1139)の創建です

…グーグルマップで見ると成勝寺は赤い印のところ↓
自分を疎んじた「父 」鳥羽天皇の最勝寺がすぐ北隣、母待賢門院の円勝寺がすぐ東隣、実の父(かもしれない)じいちゃんの法勝寺が東の向こう側…

なんと濃い立地なんだ…(絶句)



現地に行った時、ちょうど雨上がりで背後からものすごく西陽の後光がさしていました
写真は、光っちゃってどうにもならなかった↓

この場所は特に人の流れの多い通りに面しています
なのに、石碑は「半分、緑」くらいに下草が伸びてしまっています
崇徳は生まれも不幸でしたが、その後も不幸が続きます(詳しくは、上のリンクで)

現代の人々にも忘れ去られている「成勝寺」の「半分、緑」の石碑は、崇徳天皇が今でも不遇な扱いを受け続けているように、私には思えました


しかしまあ、この立地
崇徳天皇もよく寺を建てたものだと思います



次は、ラスト!

6.延勝寺
六勝寺の最後は延勝寺です
延勝寺は、久安5年(1149)、近衛天皇御願の寺です


近衛の母は鳥羽天皇の皇后 美福門院


ん?

鳥羽天皇の皇后だって?
ちょっと待った〜!

待賢門院璋子ちゃんはどうした〜!?

 …と思いませんか?


待賢門院と美福門院の二人、かなりの年齢差があります

待賢門院は鳥羽からみると年上の女性(しかもおじいちゃんの白河からあてがわれた←しつこい)でしたが、
美福門院は若くて美しい女性だった👩‍⚖️らしいのです

そりゃ、若い方がいいわね…


白河院が崩御した、大治4年(1129)以降、
待賢門院の勢力はだんだん凋落し、若い美福門院に鳥羽の愛情も移っていくのです(*´ω`*)

その美福門院が生んだのが体仁(なりひと)親王、のちの近衛天皇です


鳥羽は崇徳天皇を叔父子として嫌っていましたので、
美福門院との間に出来た体仁親王を、崇徳天皇の皇太子にしたのです…体仁親王と崇徳は親子関係ではないのですが(表向きは腹違いの兄弟だよね)、体仁は「崇徳の中宮」と「養子関係」にあったために、「皇太子」ということになったのです
しかし、譲位の宣命には崇徳は「皇太弟」と書かれたため、体仁が天皇になっても崇徳による院政は不可能(弟の院政はできない)となってしまいました(崇徳、可哀想…)
こうして体仁親王は、たったの3歳👶🏻で即位し、近衛天皇となりました
当然、鳥羽院が院政を行いました
(…その後も、あれこれあれこれあって、崇徳は讃岐に配流され「祟りじゃ〜」👹👻となるのです(←説明がテキトー)が長いので割愛)


ところで、近衛天皇はというと、病弱だったようで(崇徳の祟りかしら?)、17歳で崩御してしまいます

近衛天皇の崩御ののち、鳥羽法皇も崩御し、
政治情勢は悪化し、やがて保元の乱に展開してゆくのです(崇徳vs後白河)
興味のあるかたは
こちら↓



近衛天皇御願の延勝寺は、何故か石碑が二ヶ所にありました(赤い印のところ↓)



1つは疎水沿いです


説明板が外れて落ちていたのが、不気味です

説明板落下は、崇徳の祟りでしょうか?それとも、役所の怠慢でしょうか?


もう一つの石碑は、みやこめっせの駐車場の入り口のところ


腕を伸ばしても、石碑は「半分、みどり」でした

こちらの「半分、みどり」も、崇徳の祟り?役所の怠慢?

折角二つも石碑があるのに、これでは若くしてお亡くなりになった近衛天皇が浮かばれませんね…

ここも、平安時代に敬意をはらって、石碑が見えるように草刈りをしてほしいな〜と思ったりしました



🍁🍁🍁

あとがき


🍁今回は「六勝寺を探して」、岡崎界隈を歩きましたが、実はその前に泉屋(せんおく)博古館に行ったのでした

ここは、私が見る限りいつも閉館していましたが、今回は珍しく展覧会開催中でした
「イズミヤ」かと思ったら「せんおく」という名前なんですね…知らなかったわ〜


🍁それから、動物園の入り口?にあるビュッフェにも入りました

ここは、コスパ良し!です

直前に大雨が上がり、二重の虹が見えました🌈


🍁京都国立西洋美術館では、東山魁夷展が開催中でした

私はこの展覧会に、とーっても行きたかったのですが、旦那が「もう見た」とか言うので(今更ですが、旦那登場…)、
私は東京会場で見ようと思っています


🍁平安神宮は、今回はこの一枚だけです


みやこめっせ は大混雑

向かいのロームシアター





記事では、効率的に六勝寺を回っているように書いていますが、実際は右往左往で、同じ道を行ったり来たり…とても歩きました

人出もすごく、活気があるエリアでしたが、六勝寺の石碑に関心があった人はおそらく私と、引き摺り回された旦那だけだったと思います

この日は、私の誕生日🎂だったので、旦那もグーグルマップとにらめっこしながら、付き合ってくれました(てか、誕生日に六勝寺を探す必要はないのだけど)












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