はなこの仏像大好きブログ

奈良、鎌倉、京都、古美術、そして、日常の生活などを取り上げて書いて行きたいと思っています。 よろしくお願いします。 主婦、母ですが、通信制大学院の学生でもある、アラフィフおばさんです。

奈良や古美術が好きな主婦のブログです。

アメブロ『奈良大好き主婦日記』
http://s.ameblo.jp/naranouchi/

と並行して書いています。

よろしくお願いします。

2016年08月





鞍馬天狗じゃ!







今日は、主人がお休みでしたので
鞍馬貴船方面に
涼を求めて風鈴行ってみました

これが、私にとってはけっこうな登山となってしまいました





出町柳駅で叡山電車に乗ります…


出町柳駅構内
↑ ゆっくりしすぎて電車を一本逃した瞬間をパチリ(てか、急いで乗ればよかった)



叡山電車からの車窓風景
電車は住宅地からだんだん山の中に進みました
私が叡山電車に乗るのは実に大学生時代以来……



鞍馬寺駅に降り立ちました




鞍馬寺駅構内

天狗があちこちにいました




山小屋のような駅舎でした




駅の外では大きな天狗もお迎えしてくれました


売店にはこんなディスプレーも…
烏天狗 with 天狗たち



そして、売店では、牛若餅が美味しそうに私に微笑んでいましたので、エネルギーチャージしました(美味、美味!)

さて、鞍馬寺 へ行くよ



もちろん、ケーブルカーを使いショートカットします( ´ ▽ ` )ノ
(ふふふ、これ、大正解でした!)

ケーブルカーが着いた先には、多宝塔がありました

ここから暫くは山の尾根をだらだらと登ります



本堂に着きました

↓本堂には、毘沙門天がおられますが、60年に一度の公開だそうで、
「次回は30年後なので、よろしかったらその時どうぞ」だって……はい、そうさせていただきますわよ(化けて来るかもよ)



本堂のあたりからは、周りが一望できます……向こうには比叡山が見えます




ここからしばらく行くと、
3階建ての霊宝殿がありました

毘沙門天が数体おられました


国宝 毘沙門天、吉祥天、善に童子




肥後定慶作
聖観音立像



 
先週、横浜の金沢文庫で肥後定慶の仏像に会ったばかりですが、
また鞍馬で肥後定慶作の仏像にお会いしました
お顔立ちが美しく、衣文が流れるように美しい(そして少しくどい)


毘沙門天だらけの展示場の端っこで
スッと立つ聖観音は美しさが際立っていました

毘沙門天もみなさん「原則的にイケメン」で、
とくに無指定の、部屋の左端に立つ毘沙門天がイケメンでした(*^.^*)

(国宝の毘沙門天が一番ブサかったのは何故なんでしょうね〜 )


鞍馬寺に毘沙門天が多いのは、
鞍馬が都の北にあり、
毘沙門天が北を守護するためでしょう





さて、この階段の先からは、ハイキングコースのようになります


ここ、「結界」のように見えました



「女の一人歩きはやめろ」とか
「クマが出る」とか
少し前にも注意書きがありましたが
↓ 手前にあった看板


この「結界」で、再度、
恐ろしいことがたくさん注意書きしてありました(ビビりました)



この先も、しばらく登り坂です


こんな根っこだらけのところなど通り





美しい北山杉を見て



屏風坂の不動堂


背比べ石
こんなところを通りながら、



膝が笑い出さないように願いながら山を降りると






貴船 
に到着です


貴船では、出来ることなら

川床料理を食べてみたい

と以前から思っていました


川床料理は、決して安くはないので、
私一人なら入りませんが、
今日は主人がいたので、「一度くらい」と思いお店に入りました


……しかし、ここでは残念なことをがありました




入ったのは、貴船神社よりも奥の川床料理のお店です




お店の床の下には川の水、足をつけると冷たい


お店のお姉さんも感じよく、
お茶とおしぼりをすぐに持って来てくれたのですが
そこから、私達は完璧に忘れ去られたらしいのです(._.)

40分待っても、テーブルに敷く紙すら敷きに来ないのです

周りはどんどんお料理が出ているので、さすがにおかしいと思って聞いてみたところ……

しばらくしてから、

注文はなんだったのか聞きに来た(°_°)


それ、はじめに言ったじゃん!


せっかく雰囲気は良かったのに……気分は悪くなりました


そこから注文して、お料理が出るまでまた待つのもイヤだったので、お店を出ました(お店の女将さんのような方の謝り方もなんだか心がこもっているようにはみえなかったなぁ……)




もう、お腹が空いてるのかどうかわからなくなりながら、
貴船神社に立ち寄り






さっきのお店よりはずっとリーズナブルなこちらの川床料理のお店に入りました

初めのお店で散財しなかったし
こちらはお得感あり、お料理もお腹いっぱいになったので、まあいいかな…いいとしよう



その後、貴船駅まで、だらだら下り坂を歩きながら帰る途中には、
他にも川床料理のお店がありました
例えばこんな感じのお店とか(ここはとてもステキに見えた)




歩いているうちに、北山杉の林も夕方に近づいてきました 


かなり遅いお昼ごはんだったことがわかりました




奈良公園界隈では、みんみんゼミの声が全く聞こえませんでしたが、
鞍馬貴船では、みんみんぜみ、そしてひぐらしの声が降り注いでいました

……みんみんぜみの生息域の限界は、京都と奈良の間にあるのかしらね?







最後に、鞍馬寺にあった
与謝野晶子の歌碑
何となく君にまたるるここちしていでし花野の夕月夜かな



与謝野晶子さんの京都を詠んだ、みずみずしい短歌をまた読みたくなりました







終戦記念日に寄せて、数年前に私の母がつづった「戦災の記憶」を再再掲します
これは、アメブロ記事にて過去に二回掲載しています
最後に、昨年の終戦記念日のアメブロ記事をリンクします
この文章を載せる前に、少しばかり経緯が書いてあります
よろしかったらそちらもどうぞ


(去年も、その前も読んだわ~、というかた、何回も掲載してごめんなさいね )



「戦災 の記憶」

   昭和二十年七月十九日、木曜日、この夜のことは八十歳になった今も、鮮明に覚えている。翌日の金曜日は、五年生になって始まった裁縫の授業のある日、新しく買ってもらったセルロイドの裁縫箱がとても気に入って、裁縫のある金曜日が嬉しく、待ち遠しく、前の晩は、枕元に置いて寝たので、七月十九日が木曜日だったと云うことは、しっかりと記憶にあった。 ( 近年、孫にインターネットで調べてもらったら、間違ってなかった! )  

   その夜、寝てまもなくだったと思う。いつもの様に、敵機襲来の警戒警報、当時はいつでも逃げ出せる様に、服を着たまま寝ていた。すぐに空襲警報のサイレン ( 警戒警報より間かくが短く、けたたましい )   しかし、なれっこになっていて、特にあわてもしなかった。しばらくたった頃、「今晩はいつもと様子が違う。逃げる用意をしよう。」と云う母の声。当時、父親は応召していて、家にはいない。母は四十才、十八才の兄は秋田の学校にいっていて、これも家にはいない。家には、女学校四年の長姉 ( 十五才 ) 、女学校二年の次姉 ( 十三才 ) 、五年生   の私 ( 十才 ) 、二年生の妹 ( 七才 ) 、四才の妹、二歳の弟。寝ていた部屋から玄関の方向を見ると、その方向の空が赤い。逃げる時には、一番上等な革靴をはいていこうと玄関に揃えてあったのに、怖くて玄関へ行けない。寝室の廊下から、庭下駄をはいて逃げることになった。

   逃げる時の役割は、日ごろから決めてあった。
私は、位牌のはいったリュックを背負って逃げた。裁縫箱は持ち出せなかった。次姉は四才の妹を背負い、母は乳飲み児の弟を背負った。長姉は気丈に箪笥の引き出しを庭の防空ごうにほうり込んだり、全員の指揮をした。たった十五才の少女が!

   駄目かも知れないが、出来るだけ衣類等を防空ごうに入れ、家が焼けても残る様にと云う気持からだった。その作業に少し時間   がかかり、母は私達にお隣の一家と先に逃げなさいと云った。が、私達はそうする気にならなかった。無意識のうちに血のつながった家族一緒に行動したかったのか、しかもこれが私達家族の幸運につながった。逃げる途中、隣家の人達は曲がり角をまがった。私達   の一家は直進した。隣家のおばさんは、焼夷弾で   のど   を破られ重傷、娘二人は焼夷弾の破片で、身体に傷を負った。 ( しかし、おばさんは戦後かなり高齢まで生きられた。のどの傷はいたいたしかったけれど )   直進した私達にも焼夷弾はおそいかかった。

    長さ四、五十センチ、直径七、八十センチで、六角形の物を、三十五、六ケ束ねたものが空中でさく裂、降ってくるさまは花火のようだった。その夜、敵はまず銚子の市街地をかこむ様に円形に焼夷弾や爆弾をおとした。私達は、その中に入ってしまったのだ。いつも家族で、いざという時は西の方向に逃げようと決めていた。西の方向にはヤマサ ( 注、醤油会社 ) の第五工場があり、周りは畑や空地だったからだ。しかし、門を出て西の方向を見た時、そこはすでに火の海だった。北も東も火がせまっている。南は少し離れた所に丘陵があった。しかし、丘陵の上には、飛行場があり、敵に一番ねらわれる所であり、一番逃げていってはいけない所であった。しかし、火に追われ、私達はそちらに行かざるを得なかった。近所   の数家族が一緒だった。お隣の家族と別れて直進した直後、登記所の前の道で焼夷弾   が降ってきた。道は、直径十センチ位、高さ三十センチ位、五十センチ位の間隔で火柱が続いている。あれは何だったのか。後に敵は、はじめにガソリンをまいていたのだと云ううわさが流れた。私達は泣き声をあげながら、ピョンピョン火柱を飛びこえて行った。そこに上から焼夷弾の嵐。とっさに、私は道の左側のやぶに身をかくした。身体の右側すれすれに焼夷弾が落ちた。その時は夢中で気がつかなかったが、翌朝、落ち着いてから頭を手でなでると、頭の右側の髪の毛がこげてなくなっていた。防空頭巾のすき間から火がはいったと思われる。あと五センチずれていたら、今の私はなかっただろう。

   火の海を走っているうちに、はきものは脱げ、はだし、位牌を入れたリュックの上に首に巻く様にしていた掛布団は、すでにどこかに失っていた。市街地の火の海をやっと脱した私達は丘陵地帯の裾を廻り込んだ。そこに防空ごうがあった。ほっとしてそのごうに入った。母は三才の弟に乳を含ませた。二年生の妹が別のごうに入ってしまい、泣き声をあげている。その上   は飛行場ですでに火の海になっている。まだ少年の兵隊さんが妹をこちらのごうに連れてきてくれた。そして云った。上はもう火の海だ。ここにいては危ない。別の所に云った方がいい。

 

   火はいたる所でくすぶっていたし、水は当時は水道ではなく、井戸だったので、問題なかった。ヤマサ関係の人が醤油をもってきて醤油の味だけのすいとんを食べた。とてもおいしかった。三軒先に銚子市長の加瀬道之助さんの屋敷があったが、それも全焼。普段はこわいおじさんと思っていた市長も、みんな一緒にすいとんを食べた。一晩中寝ていなかったので眠気がおそってきた。

   七月二十日は、強烈な夏の陽が降りそそいでいた。日陰はない。機銃掃射ですき間のないほど穴のあいたトタン板の上で深く眠った。

 

    近所の行方不明者の捜索が始まった。近所の私より二つ年上のみどりちゃんがいなかった。やがて男の人達が戸板にみどりちゃんを乗せて帰ってきた。その後をみどりちゃんのお母さんがふりしぼる様な声で「みどりーーー!みどりーーー!」と泣き叫びながらついてきた。その時の光景、お母さんの声を思い出すと今でも涙が出る。

 

   東の方向に、小さな小川が流れていた。そこに火に追われて逃げこんだ人達が機銃掃射で死んでいるといううわさが流れてきた。母が 見に行くな、と云ったので、私は見にいかなかった。よかった。一生、その光景を思い出さなくてすんだ。同じ様に、利根川の岸壁にとび込んだ人たちも機銃掃射で死んだと云う話が伝わった。

後年、飛行機に乗る機会があるようになり、飛行機からは川が光ってよく見え、敵の飛行機のターゲットになったことが納得出来た。

 

   その夜は、清川町一丁目の母の知り合いの大木さんの家に泊めてもらった。(燃えたのは、清川町では二丁目、三丁目、四丁目で、一丁目の一部は焼け残った)

 

   夕食の時刻迄には、多分、市によると思われる炊き出しが始まっていた。もらってきたのは、もち米のおにぎりだった。真夏にいたみ易い、もち米で作ったおにぎりは案の定、いたんでいた。子供だったので気付かずに食べてしまった。夜中、吐き気におそわれ、大木さんの家の廊下から庭へ全部吐いてしまった。

   翌日、父、母の故郷茨城の神栖へ汽車で向かった。銚子駅での姿の、なんとみじめなこと!

焼け残った鉄びん、なべ等を持ち、大木さんからもらった占いげたをはき、着のみ着のままの姿、昨今、外国の紛争地帯で逃げまどう孤児達の姿さながらである。


   その時から、二年八か月余りの、神栖村字賀での、本家の庭先に祖母の為に建てられた隠居所での生活が始まった。

   以降は、後に機会があれば後述するものとする。

以上、十才の少女の見たもの、感じたものを書いてみた。


平成二十六年 秋

 





昨年のアメブロ記事







神奈川県立金沢文庫

企画展『 国宝でよみとく神仏のすがた』
(平成28年8月5日(金)~10月2日(日))

に行ってきました







こちらは図録の表紙の写真です
 
この美しい仏像に一目会うために、

炎天下

電車 を乗り継ぎ行ってきました

(金沢文庫は鎌倉から遠くないはずなのですが、何しろアクセスが面倒な場所で、おまけに金沢文庫には駐車場がないので、運動をかねて(でた!)、電車と徒歩で行きました←相変わらずの修行状態です)


金沢文庫には、隣接する称名寺から寄託をうけて、多数の国宝、重文が保管されており、

その中でも、2万点を上回る「称名寺聖教・金沢文庫文書」と呼ばれる資料群が、今年三月に国宝指定の答申を受け、まもなく国宝指定されるそうです(すごい!)

これは、鎌倉時代を中心とした、中世史、仏教史、仏教美術史などの資料だそうです


今回の展覧会の目的は、この資料群から「神仏のすがた」を読み解いていくということだそうで

展覧会は四部構成となっていました



その中からごく一部、構成の順番に面白そうなもの(´∀`*) を拾ってみたいと思います



第一章  神々のすがた

金沢文庫には多くの神道関係の資料があるそうですが、その中に春日信仰にかかわるものがあるそうです


多くは解脱上人貞慶の著作として伝来したものだそうで、春日明神の本地説についての言及があり、

それによれば、春日明神の本地は

一宮=釈迦、二宮=薬師、三宮=地蔵、四宮=十一面、若宮=文殊

だそうです



文殊菩薩懸仏(平安時代)
 

懸仏というのは、神仏習合の信仰から生まれたもので、鎌倉長谷寺などにもありますが、

↑ こちらは、文殊菩薩を銅板に打ち出し、鏡に取り付けたもの です


文殊菩薩像は、南都奈良を中心に春日若宮信仰に基づき多数制作された そうです


・・・直接関係ないですが、文殊菩薩のレリーフの細かさを見て、興福寺国宝館にある半肉彫りの十二神将を連想しました(興福寺のレリーフは木彫で、もう少し厚みもあるので、もっと繊細だけどね)






第二章   慈悲救済の仏のすがた


阿弥陀如来坐像(平安時代)
      

こちらは、来迎印を結ぶ安定の定朝様の阿弥陀如来で、穏やかなお顔、浅めの彫りの衣文(そうでもないなぁ)ですが、側面観はやや厚みがあるようで、(中央の同時代のお像は奥行が薄いのに対して)そのあたりが地方仏だということだそうです

顔つきを見ても、平等院の阿弥陀如来がもっと柔らかく(ボーっとしている)のに対して、こちらは少し表情がきつく(ボーっとせず、少し考えている風)、
衣文も、中央のものに比べると、少し硬いし、膝まわりとか脚の上など、流れるような衣文線には見えませんねぇ・・・




如来立像(金泥塗、鎌倉時代)
 


こちら60センチに満たない立像で、かわいいお像でした
珍しく金泥塗りだそうで(金箔を貼るのがふつう)、やわらかな雰囲気はこのためでしょうか

印相は、普通の仏像と右左逆になっていて(以前に書いた浄土寺浄土堂の阿弥陀如来もこの仏像と同じ、左右逆の印相でしたよ!)、衣文の彫も細かくて、そのあたり舶載仏画を参考に制作された可能性が考えられるようです


↓ 斜め横からのお顔では、二重ぱっちり
 
とても整ったリアルなお顔立ち・・・イケメンだわ!






ところで、

称名寺聖教には、弥勒信仰関連のものが多いそうです

その理由は、
①称名寺の御本尊が弥勒菩薩立像であること(金沢文庫一階に美しいレプリカがあります)、
②称名寺は大和西大寺の末寺だったため、南都で鎌倉時代初期に解脱上人貞慶が春日信仰とともに弥勒信仰を鼓舞した影響を受けた こと
が考えられるようです


↓ こちらは、今回の展覧会の「代表」をつとめる
弥勒菩薩立像(鎌倉時代)
 

とても、お顔立ちの美しいお像です
↑(こちらの弥勒菩薩立像は個人蔵のため、絵葉書やポスターは作られていないようで、チラシで我慢するか、図録を買うしかありません(; ̄Д ̄))

像高約80センチのお像はとてもお美しく、なんとまあ、金銅製の光背や宝冠、胸飾りは当初のものだそうですよ

高髻、衣文のにぎやか(ってか衣文はちょっとくどい)な表現は、肥後定慶の作風に近い そうです

天文12年(1543)には、興福寺の子院に伝来し、宿院仏師によって修理されているそうです




第三章 密教修法の仏のすがた

大日如来坐像 行順作 文永7年(1270)
 

高さは31センチ
定印を結んでいますが、こちらは阿弥陀ではなく、胎蔵界大日如来像です
(平等院のように定印を結んでいる阿弥陀とどう区別しましょうか?
・・・頭部を見ればわかります 定印阿弥陀は螺髪、胎蔵界大日は髻を結ってます)

この像は胎内に墨書銘があり、

文永7年、静快大願主、仏師行順により制作ということがわかる基準作だそうです
(中世あたりから、制作した仏師の名前などを残すようになりますが、この「習慣」、止利仏師の時代から初めてほしかったよね )






金胎仏画帖 平安時代


両手で耳栓をしているわけではありません
この絵は、右上のお名前をみると、金剛界曼荼羅の「金剛笑菩薩」であることがわかります

金胎仏画帖は、金剛界の諸尊像を一尊ずつ描いた図像集(胎蔵界はどこに行った?)
絵仏師宅磨為遠の伝承ありだそう





普賢延命菩薩像  鎌倉時代 龍華寺
 

 
普賢菩薩は、
真言系 ⇒ 二十臂(腕が20本)、4頭の白象にのる
天台系 ⇒ 二臂(腕2本)、一身三頭の白象に乗り、その
下に群象
が特徴だそうですがらこの像を見てみると

菩薩本体と象は、↓ 二十臂、四頭の白象


その下の部分は、群象

つまり、この像は真言系に天台系がミックスされていることになるのですね(まさか、間違えちゃった!というわけではないだろうね)




『覚禅鈔』  鎌倉時代 請雨教法

称名寺には『覚禅鈔』があるんですね~(*´∇`*)(覚禅鈔関係の図録は売り切れてましたけど)

こちらの絵は、雨乞いのときに使う曼荼羅のお手本の図像です
昔は雨乞いは切実なものでしたものね

(直接関係ないけど)鎌倉にも、忍性と日蓮の雨乞いの勝負の話がありました→忍性の負け )
そのお話は、↓ こちら
http://kamakura-guide.jp/nichiren-amagoinoike





話を戻して、


『覚禅鈔』の「請雨経法」には、道場に懸曼荼羅、敷曼荼羅が用意されたことが記され、実際に使われた曼荼羅は修法後破却されたそうです

↓ この曼荼羅は実際の修法で使われる懸曼荼羅の白描(彩色のない絵) の貴重な例です
『覚禅鈔』の図によく似ていますね




第四章 仏法守護の仏のすがた

古代インドの神々は、仏教成立後、仏教を保護する神として仏教に取り入れられ、日本では天部の神々とされました
例えば、四天王(持国天、増長天、・・)、吉祥天、弁才天などなど、「~天」という名前のものが天部ね(エビ天はちがうからね)

・・・でそんな、ナントカ天は置いておくとして



こちらは

迦陵頻伽像     漆箔 室町時代

私は迦陵頻伽が好きなんです(えこひいき)


この迦陵頻伽、像高43.5センチだそうですが、

鎌倉覚園寺の薬師三尊像の月光菩薩像の光背についている迦陵頻伽に酷似するそうです
(覚園寺の薬師三尊は、仏師朝祐の作で、とてもお美しい三体です)

日光菩薩の光背の迦陵頻伽が亡失しているそうで、それがこれなんじゃない?という一体


背面はこんな感じ



ちなみに、鎌倉覚園寺の阿弥陀三尊はこちら↓
(三尊並んだ写真が難しいので、一体ずつ分けて載せますね) 

阿弥陀如来坐像


日光菩薩坐像
 
東慶寺の水月観音を連想させる雰囲気がありますが(大きさは全然違うけど)、
私は水月観音の男前の表情よりは、むしろ覚園寺の日光菩薩の凛とした表情の方が好みです



こちらは、月光菩薩坐像
(覚園寺の三体の画像は、『鎌倉仏像めぐり』(学研)から)

写真うつりの良し悪し の問題が大いにありますが、
日光も月光も、目の表情がとてもよく、これは実際に現地に是非行ってご覧になってくださいまし~
と、宣伝したくなります

上の写真、月光菩薩の光背に迦陵頻伽が懸けられているのがわかりますよね?
ちょうど右の手のひらの脇あたりです


小さいけどより鮮明な画像をお借りしてみます
 


確かに、目を転じて、日光菩薩の光背を見てみると、「そのあたり」には何も懸っていません
月光の実際の迦陵頻伽と、金沢文庫の迦陵頻伽は、両手を広げて、あは~ん、みたいな恰好も似ている 

これは、やはり、覚園寺の日光の迦陵頻伽が脱走して金沢文庫に飛んで行ったとしか考えられませんね(ちょっとちがう…?)

残念なのは、覚園寺の迦陵頻伽の拡大写真が入手できなくて、表情がわからないことです・・図書館に行けばあるかしら?




・・・・と、こんな感じの展覧会でした( ´∀`)つ






帰りに称名寺にも寄りました
(金沢文庫に裏口から入ったので、帰りは表から出てお寺に行きました……)



金沢文庫の表側玄関から出ました





すぐにトンネルになります





トンネルを出ると銅像……さて、誰でしょう?
 
こたえ


北条実朝です
 
ぱっと見、近世の誰かかと思ってしまいました!






称名寺は、浄土式庭園で大きな池があります
     
なかなか美しい景色です

平等院などと比べると、野趣あふれますが……


橋のたもとに鷺のような鳥もいます





その橋の上から池を覗くと……
亀の熱い視線を感じました





はるかかなたから、私の方に急いで泳いでくる



周りが、亀だらけ!(気持ち悪い!)
餌付けされているためだと思いますが、
鯉数匹に対し、亀ウジャウジャ


おえ〜〜( ̄◇ ̄;)

気持ち悪い!。゜゜(´□`。)°゜。



中には、「我関せず」で、甲羅干しにいそしむ亀も↓




亀たちの熱い視線をかわし、称名寺を離れます



門には、北条氏のミツウロコ



このミツウロコは、この門の扉にありました



もう一つ、門を抜け称名寺の境内から出ました
本来は、ここから入るわけです




門の脇にある掲示板には、
ついに指定へ、国宝、2万点!



関東地方にお住まいの方、

金沢文庫に専用駐車場はないけれど(/TДT)/
駅からも歩くけど(/TДT)/

ぜひとも頑張って、行ってくださいね(。・ω・)ノ゙



 

https://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/bunko/tenji.html








小浜の続きです



羽賀寺を出て、妙楽寺と円照寺をめざします







(もう午後だし、自転車なので、行き先は絞らざるを得ないのでした)




田んぼの中のまっすぐな道を、自転車を漕いで進む
これ、画像だと爽やかだと思うでしょ?

ぜっんぜん爽やかではありませんよ







ひたすら暑いだけ(>人<;)






なにしろ、炎天下 の自転車漕ぎですから




景色は大きく、気温は高く♪ 



したたる汗と紫外線対策のため首に巻いたタオルを
この田んぼのどこかに落としてしまいましたが、暑さで頭が沸騰していて、気づきませんでした




熱風を顔にうけながら自転車漕ぎを続けている時

ふと前方をみると道の駅が!
  



クーラーと水分を求めて、道の駅に吸い込まれるように入りました



すると……



オバマ大統領が待っていてくれました\(^o^)/






WELCOME TO OBAMA
 

これにはびっくりしました



そこで、オバマスムージーを飲むことにしました


イチヂク味のオバマスムージーを飲み干し(イチヂクとオバマの関係は不明)

オバマ大統領の任期がもうすぐ終了してしまうのを惜しみつつ (こちら無関係)

再び自転車を漕ぎ出します





     




ここからが長かった(道に迷っただけですが)

線路を渡り、橋を越え、住宅地をぬけ、小学校の脇をぬけ、再び田んぼの中を行き山沿いの道を行き……


ひたすら南下を続け、最後は坂道となったので、坂道の下でチャリ子を置いて、あとは徒歩




妙楽寺に到着!



お寺の受付を済ませ、
こんな道を進みます

いい感じ……紅葉の季節には相当綺麗だと思われます



赤い橋の向こうに門があります

赤い橋から下の小川を見ると、べつの橋がかかっています



門の手前にようやく案内板がありました
養老3年(719)行基開創
延暦17年(797)空海再興のお寺だそうです




門をくぐると更に奥へ 道が続く
この立派な杉を見て、昔行ったヨセミテ国立公園のメタセコイアを思い出してしまいました





石仏が  わちゃわちゃといますね〜
 






お堂が見えてきましたね



重文 妙楽寺本堂(こちらは↓絵葉書)






このお堂のなかにいらっしゃったのが

千手観音立像
 
http://wakasa-obama.jp/sp/TouristAttract/TouristAttractDetail.php?27 

ヒノキの一木彫成像


横顔(絵葉書)


以下は、この千手観音立像についての、wikiの説明
平安時代中期の作、の一木造。長く秘仏であったため、現在も金箔に覆われている。
本面(正面の顔)の左右に両脇面を表し、頭上の21の小面と合わせて計24面を有する。千手観音像は42本の手で「千手」を代表させるのが一般的だが、本像は42本の大手の間に多数の小手を表した「真数千手」像の一例である。[2]

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/妙楽寺_(小浜市)





聖観音菩薩立像(平安後期)




衣文が くるんくるんしていて面白い









地蔵堂には、お地蔵さまがいらっしゃいました

地蔵菩薩坐像(平安後期)

 


こちらのお地蔵さまは、左手に錫杖、右手に宝珠をもち、左足を垂下する地蔵菩薩坐像です
背後には千体仏
像高は165.4㎝

寄木造




同じ平安後期の作例で、腹帯をしているところ、千体仏を擁しているところ、伏し目がちなところ……なんとなく、最近京都で出会ったこちらの方に似ています


恵福寺 地蔵菩薩

 

 
どちらも、平安後期の穏やかなお顔立ちです






先を急がねばならなくなってきました



妙楽寺から、さらに南下すると

円照寺 があります







大日如来をご本尊とするお寺です




鎌倉にありそうな規模のお寺

 



こちら、庫裏入口に入って呼び鈴を押しても、声をかけても、一向に応答がありません

レンタサイクルを四時半までに駅のインフォーメーションに返さなければならないのに、この場所でもう四時近くになってしまっています



応答はないけど、人の気配はするのです


しばらく待ってみました



するとお寺の奥様がご不浄の掃除をなさっていたそうで、ビニール手袋のいでたちで出ていらっしゃいました

もちろんビニール手袋は外して、そのままお寺を見せていただくことになりました





庫裏裏手には、池があります



この池は、モリアオガエルで有名なようです
池の上方にモリアオガエルの卵がありました




池の中を覗き込むと・・・

イモリ!!   (やじるしのところ)



これはこれで、バランスのとれた世界のようですが、池の中はイモリだらけでした(´・ω・`)

口を開けて、モリアオガエルの卵からおたまじゃくしが落ちてくるのを待ってる感じ






この円照寺は、はじめ真言宗のお寺として建立され、遠松寺という名称だったそうです


その後、文安元年(1444)に現在の地に移転

臨済宗のお寺に改宗され、円照寺と改められたそうです





大日如来坐像

 

http://wakasa-obama.jp/sp/TouristAttract/TouristAttractDetail.php?28 



平安後期といわれるこのお像は、おそらく真言宗のお寺だったころからの本尊なのでしょう

やはり、平安後期の穏やかな顔立ちで・・・・ 似てるのです!(誰と?)





実際に、近寄って、下から肉眼で見上げると

http://kagimago.co.jp/hpgen/HPB/entries/5.html






平等院の阿弥陀如来におどろくほどそっくりなんです!!
(何年も平等院をテーマにして、ウンウン考え続けている私がいうのだから、ほんとですこれ!お願い信じて!)


こちらは↑、夜の平等院




定朝様と呼ばれる阿弥陀仏ってあちこちにいらっしゃいますけど、
とりわけ浄瑠璃寺の中尊の阿弥陀仏は平等院にそっくりだと思いますけど 
浄瑠璃寺中尊阿弥陀如来





円照寺の大日如来は、お顔を見る限り、
「入れ替え疑惑」を持たれるほどにそっくり!
「一卵性」かもしれませんよ
違うのは、「金ピカ度」(金箔の残り方)くらいです・・

一度こっそり顔だけ入れ替えたいくらい!


と、一人で大コーフン(こわーい)




この時点で、時刻は4時10分か20分くらい

・・小浜駅に4時半に自転車を返すのは無理

なので、駅のインフォーメーションに電話をいれたら、返却は5時までで大丈夫と言われ、必死に駅に向かいました (もう自転車に乗りなれなくて、終始一貫大変でした)





小浜駅インフォーメーション近くの人魚像 (人魚伝説でもあるのでしょうか)

 


そういえば、昨日BSで再放送されていた、太川陽介とえびすさんのバス旅番組に、小浜駅のインフォーメーションが出ていました (バスがなくて旅が強制終了してたみたいでした・・・自転車旅ならできるのにねぇ)






小浜にたった半日の滞在で、3か所しか回れなかったけど







ありがとう!OBAMA!





そうそう、こっちよ


ありがとう、小浜!





オバマといえば、

こんなのもみつけちゃった(≧∇≦)

安倍首相がオバマみたいになっててカワイイ(「Navarまとめ」の記事)





喜光寺外観


いつからそう呼ぶようになったのか、「ロータスロード」と呼ばれる
薬師寺、唐招提寺、喜光寺の3寺に、
今年も蓮を見に行きました


昨年は時間の制約があって行かれなかった喜光寺について、とりあえず記事にあげたいと思います


喜光寺は、養老5年(721)、行基菩薩によって開かれ、当初は菅原寺というお名前だったそうです 

菅原の里は、菅原道真公の誕生の地で、合格祈願の寺としても信仰されているそうですよ



天平20年(748)、聖武天皇参詣の際に、ご本尊(今の本尊ではない)から光明が放たれたため、喜んだ聖武天皇により、喜光寺という寺号が贈られたんだそうです
東大寺の大仏開眼の少し前ですから、聖武天皇もさぞやお喜びだったんでしょうね





仏像もなかなか雰囲気の良い感じでした

本堂の建物については、後述しますが、本堂内に安置されている仏像についてまずとりあげてみます

阿弥陀如来坐像
(重文、平安時代)
丈六の寄木造りだそうです

お顔の部分のアップ
お顔の表情がよく見えませんが、穏やかな顔立ちでした

平等院の阿弥陀如来になんとなく似ているようです
定印を結んでいるところ、寄木造りであるところも、平等院と同じですね






脇侍2体

この脇侍は本尊とは時代が違い、南北朝時代のものだそうです
本尊の阿弥陀とどのようないきさつで三尊になったのか、調べてみないとわかりませんが、
それにしても実にかわいらしいお顔立ちなのです

観音菩薩坐像

 

可愛いらしいお顔のアップ
(⌒▽⌒) 




勢至菩薩坐像



こちらもお顔のアップ
(^∇^)


おっとりした二人組という感じですよね







本堂裏手の弁天堂では、宇賀神が公開期間中でした



奥の白いヘビが宇賀神
手前が弁天様







本堂 (重文、室町時代、天文13年(1544))

行基菩薩が東大寺造営にあたり、喜光寺の本堂を参考にしたという伝承から、 「試みの大仏殿」として有名ですが、その本堂自体は明応8年(1499)に焼失、現在の本堂は天文13年に再建されたものです
二階建てではなくて、下の屋根に見えるものは裳階(もこし)です(薬師寺東塔・金堂とか、法隆寺金堂にもついてますね)
この本堂の向かって左手にたくさんの蓮が、鉢植えで並べられています

この蓮の管理は比較的最近、始められたそうですが
管理が行き届いていて、とても綺麗な花が咲いていました


で、こんなふうに蓮と本堂を一緒に撮ろうと頑張っていましたが……



「気合いの入ったカメラマン」が多くて、私が彼らの風景にはいりこんでしまい、
思いっきり邪魔 をしていたようでしたので、後ろに回りカメラマンを込みで撮ってみました
 
三脚たてて本格的なカメラマンさん
どこの蓮がきれいに咲いているか、情報交換に余念がないようでしたよ


蓮の葉に蓮の花がひらりと載っています







こちら↓、仏足石釈尊転法輪像

平成8年にご住職がインドのブッダガヤの仏足石を前正覚山の石に写し請来したのだそうです

釈尊像もインドを思わせるお顔立ちです


光背脇のこのお像の姿勢に釘づけ
 







こちら、別の角度から撮った蓮もきれいです
この蓮の遠景に石仏がたくさん見えますよね

私はこういう石仏の群像を見るのが好きなので近寄ってみましたよ


すると、石仏たちは整然と並んでいました




互い違いに全員のお顔が見えるので、じっと見ているとそれぞれ面白いんです



ほら、つまらなそうなおのお方とか




びっくりしている不動明王





こちらもびっくり不動明王



ニヤけるお地蔵様



瞑想するお地蔵様



よそ見?



超よそ見!







喜光寺へのアクセスは、

近鉄線尼ヶ辻駅を降りる、もしくは、垂仁天皇陵脇の歴史の道から尼ヶ辻駅前の道に出て

西へ、こんな道標を見ながら直進


三叉路を右折


菅原神社方向です


まっすぐ進む




高速道路が見えてきて(ここが苦手で喜光寺にはあまり行かないのだけど)




ほら、向こうに喜光寺が見えています
このお寺の立地は気の毒な気がしますね
まわりが殺風景なんだもん



でも、お寺についてしまえば、もうそこは別世界



あ!お寺でいただいたパンフを見たら地図がありました

 







喜光寺を訪ねたあと、西大寺駅を目指して北上を続けましたが、わりと普通の道でした

あそこも歴史の道なんだよね?



そうそう、それから
このブログ、少し前まで、ランキングに参加していたのですが、
パスワードを忘れてしまって、入れなくなってしまいましたので
現在参加できません
ま、べつにそれでもいいかななんて、思ってます



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