以前にも図を取り上げたような気がしますが
というのが取り上げられています
こんなお話です
そしてこのような図が描いてあるのです
↓ 樹上にいる52体の菩薩たち ピヨピヨ
で、 この図をスキャンして娘のパソコンから私のパソコンに送ってもらったのですが
↓ さかさまに送るなよ
さてこの五十二身像
平等院雲中供養菩薩像52体と同じ数なのです
雲中供養菩薩像52体の構成の典拠については、いろいろな議論があります
(たとえば、金剛界曼荼羅の十六大菩薩、八大菩薩、浄土教の二十五菩薩、などなど、・・・)
雲中供養菩薩像の典拠がどこにあれ、
52という数に関して は、『覚禅鈔』のこの記事が裏付けをしている 、
つまり、現状の雲中供養菩薩像が52体であることの裏側からの根拠となっているという説があります
この説に関して、
私はこう思うのです
雲中供養菩薩像 52体という数そのものが、確定数ではない
現状の52体の雲中供養菩薩像は、現在では一括して鳳凰堂創建当初すなわち天喜元年(1053)に制作されたということで「国宝指定」されていますが、
個別に検討すれば、中には、作風から明らかに鎌倉時代の作と思われるものもあり、
さらに、現在にい至るまでに外部に流出したのではないかと思われる 像が外部に存在しています
そもそも中世に平等院のあのあたりは戦場となりました
源平の争乱( 治承4年(1180)の「橋合戦」(以仁王の令旨で平氏打倒の兵をあげた)、承久の変(承久3年(1221))、南北朝の争乱(元弘元年(1331)、後醍醐天皇は平等院で神器を持明院統の光厳天皇に渡すよう求められ断る)、
楠正成の宇治辺放火(建武3年(1336)正月2日)→平等院灰燼に帰す→焼け残ったのは阿弥陀堂(鳳凰堂)、鐘楼、北大門『太平記』)
その後も、山城国一揆などもあり、結果的に
現在では、鳳凰堂以外の堂はすべて後世の建て直しとなりました
半面、鳳凰堂は創建当初から地盤の悪さゆえに不同沈下を起こし
修理を繰り返して現在に至るという面もあるのです
それなのに、頼通さんのころから ずっと同じ52体をキープしてきた なんてそんな奇跡は考えづらいのです
したがって、当初は52体ぐらいだった かもしれませんが、ぴったり52体だったという保証はどこにもなく、
『覚禅鈔』の記事による52体の裏付け説は無理があると考えざるをえません
つまり、雲中供養菩薩像の構成を考える上で、52体という数に 厳格に縛られる必然性はない
ということだと考えます
それにしても、木の上に菩薩が、駅前の木のムクドリみたいに止まってるって
一体どういう発想なのかしらね?
藤沢駅前のうるさいムクドリを思い出しちゃいますよ・・・・
鎌倉駅表側の派出所の前にもムクドリのうるさい木がありましたが、あれは伐り倒されてしまいましたね・・・(おかげで横浜銀行側の木がうるさくなりましたよ)