はなこの仏像大好きブログ

奈良、鎌倉、京都、古美術、そして、日常の生活などを取り上げて書いて行きたいと思っています。 よろしくお願いします。 主婦、母ですが、通信制大学院の学生でもある、アラフィフおばさんです。

奈良や古美術が好きな主婦のブログです。

アメブロ『奈良大好き主婦日記』
http://s.ameblo.jp/naranouchi/

と並行して書いています。

よろしくお願いします。

2016年12月




山の辺の道、最終回です

…にしても、半日で歩いた長岳寺から桜井駅までをブログに書くのに1カ月かかるとは!…あの頃「秋たけなわ」だったのに、気づけばもうすぐクリスマスじゃん!



地図で言うと、今回の記事は、大神神社から下方向に桜井駅までのルート





大神神社です


謡曲三輪(前回参照)で衣をかけた杉の木を撮りそびれましたので、
大神神社はあっさり通り抜けてよいでしょうか?(と、いきなり手抜きか)


あ、巳の神杉を特別にどうぞ(それしか撮ってなかった…)





この日は、大神神社の太鼓橋が工事中で、私は思わぬ遠回りをしてしまったのですが、本来、太鼓橋あたりのすぐ脇から神社の南側の外に出ることができます


私は、「山の辺の道」といっても、長岳寺から大神神社までを歩くのが多く、「大神神社から南」は実に久しぶりです



大神神社を出ると平等寺
ここは大神神社の隣なので、あっという間に行くことができます 


このお寺、個人的にドッキリポイントが沢山だったのですが、


その前にまず、お寺の沿革など、桜井市観光協会のページから引用しますね


(ここから引用)

「三輪にある曹洞宗の寺院,平等寺(びょうどうじ)は、三輪別所ともいい本尊は十一面観音です。かつては三輪明神(現・大神神社)の神宮寺でもありました。伝承によれば、聖徳太子の開基、中興の祖、慶円上人(1140~1223年)を迎えるに及び、東西500m、南北330mの境内に、本堂、護摩堂、御影堂、一切経堂、開山堂、赤門、鐘楼堂のほか、12坊舎の大伽藍を有し三輪社奥の院として、由緒ある名刹でありました。

 

 しかし1868年(明治元年)、神仏分離令が出ると、1870年(明治3年)には、大神神社の神宮寺であった平等寺は、ことさらにそのあらしを強く受け、有名な金屋の石仏をはじめ61体にのぼる仏像が他所に運び出され、堂塔は、ことごとく整理を迫られ三輪神社の神官が管理するにいたり、堂舎は破壊され、平等寺は廃寺となってしまいました。」(引用終わり)




大神神社の神宮寺だったために、
明治の神仏分離令でこっぴどく仏像が運びだされたようですね




それでは入ります



開基が聖徳太子なので、
聖徳太子像が入り口すぐのところにありました


で、本堂にネコ
暖かそうで、羨ましいわ〜



本堂は新しいようで、正面がたぶんガラス扉かガラス張りになっていました


内部に人が沢山いらっしゃる気配がしたので、私は中に入らずに、
ガラスに顔をくっつけて、内部を覗く




!(◎_◎;) びっくりぽん!


写真はお寺のHPより


なななんと!
聖林寺の十一面観音がががっ!(O_O)

どうして、ここに聖林寺の十一面観音が?家出か?強奪か?山田寺か?……
((((;゚Д゚)))))))


検索したら、「ノンさんのテラピスト」というブログに、写真がありましたので、お借りします



ね?聖林寺十一面観音にそっくりでしょ?ガラス越しに覗いたレベルでは、
聖林寺十一面観音そのものに見えました

……かつて、私、聖林寺の十一面観音については、あれやこれやと悪口を言ったことがあったので、こんなところで化けて出た! のかと思い、
驚いて腰抜かしそうでした……「彼」についてゴルゴラインくっきりとか(←反省してない)あれこれ言ったことが真っ先に頭に浮かびました…… m(._.)m
(聖林寺の十一面観音について、あれこれと少しこだわった記事は最後に貼っときます……)


この十一面観音は、お前立ちの仏像です
……で、何故こんなに聖林寺もそっくりなのかというと

↓ お寺のHPからその説明を引用します
(ここから引用)
 「明治の廃仏毀釈により平等寺遍照院が聖林寺に移され国宝十一面観世音菩薩像も当寺から移されました。平等寺檀信徒みなさまが、在りし日の威徳を偲んで、昭和の本堂復興の折に復元となりました。」 


私が見た十一面観音は、聖林寺十一面観音の寸法を測ってソックリに模刻したもののようで、だから似ていて当然のようです

だけど、ポイントはそこではなくて、
聖林寺十一面観音は、廃仏棄釈で「平等寺から」聖林寺に移された……というところ


(・Д・)ノあれ?

と疑問に思いませんでしたか?


たしか、聖林寺十一面観音は大御輪寺の十一面観音を移したのでは?



つまり、こういうことです

大神神社の神宮寺は、北に大御輪寺、南に平等寺、その西に浄願寺の3寺があった

明治の廃仏棄釈で、
大御輪寺にあった仏像は散逸し
十一面観音→聖林寺へ
地蔵菩薩→法隆寺へ
増長多聞天→長岳寺へ
不動明王→玄賓庵へ
この後に行く金屋石仏も平等寺にあったものを移した
…などという流れになったのです

つまり、「大御輪寺の十一面観音が聖林寺へ移された」というのが広く知られること

それなのに、なぜ、平等寺のHPでは、
平等寺の十一面観音が聖林寺へという説明がされているのが?大御輪寺の十一面観音の間違いでしょ?( ̄Д ̄)ノもうっ!
…という疑問です



このあたりのことは、せきどよしおの仏像探訪記というブログに詳しく書いてありましたので、
↓ こちらをご覧ください(・ω・)ノ




さてさて、境内には小さな塔がありました
手前の植え込みから、細い道をガサゴソと抜けて塔に行くと、


またもや


( ゚д゚)びっくりぽん!!

な展開に!







いらっしゃ〜い、よく来たね〜



Σ(゚д゚lll)ひっ、ひぇ〜〜





なんと、ぎょぎょぎょっとするおじいさんズが大集合!


みんなで並んで座ってるぅ……


( ̄◇ ̄;)◇ ̄;)


繁みの中にも隠れてるぅ……


( ;´Д`)(=゚ω゚)ノ



ちょ、まてよ!そこのじいさん!



なんだ〜〜い?


(つД`)ノ ぎゃお〜〜!

なんだこのお寺?



時はそろそろ夕方近く
寂しい境内に

聖林寺十一面観音は出るわ!(失礼)
不気味なじいさんズは出るわ!


こわいわ!



……と思ったら、入り口に
万葉歌碑♪

わが衣色に染めなむうまさけのみむろの山はもみぢしにけり
柿本人麻呂  巻7.1094

たしかに、みむろの山はもみじしてましたが、この時の私の心情に近いのはむしろこっちの歌

秋山のもみぢをしげみまといぬる妹を求めむ山路知らずも
柿本人麻呂 巻2.208
秋山のもみじが深くて(じいさんズが沢山いて)、迷ってしまいそうでしたよ!

誰か、この歌の歌碑立ててください



ちなみに、じいさんズは、羅漢さん(十六羅漢かな)ですね(じいさん呼ばわりしてごめんなさい)






で、平等寺を出ると目の前に
廃屋……(涙目)



ここから南に行く山の辺の道がこわい!



荒れ放題の谷……(涙目)



誰もいない林に、小林秀雄「山辺道」




しばらくガマンして歩いていくと、視界が開けます

そこには、「磯城瑞籬宮跡」の表示があるので、


山の辺の道から外れるけど、立ち寄る

もうめんどくさいから(こら)、説明割愛致します





で、山の辺の道に戻り、すぐに

金屋の石仏

弥勒


釈迦
どうしたって、夕陽が射し込んで、格子模様になっちゃうわよ



建物の下に石棺の蓋
あれ?見えない?よく見て!




もう、お疲れモードなのですが、
私にはこの先に行きたい場所があったのです


それは、


海石榴市(つばいち)



奈良県HPから、海石榴市の説明
 「海石榴市(つばいち)は桜井市金屋あたりにあった古代で最も大きな市場です。桜井市金屋は桜井駅から1.2kmほど北側にあり、現在は静かな住宅地ですが、万葉の時代には国内有数の交易の中心地でした。大阪から大和川をさかのぼってくる川船の終着点で、当時の幹線道路である山の辺の道・初瀬街道・磐余の道・竹ノ内街道が交錯する交通の要衝だったのです。市の立つ日はにぎわいを見せ、若い男女が集まって互いに歌を詠み交わす「歌垣」も行われたようです。
 この歌の内容は、男性が海石榴市で出会った女性に名前を尋ねるというだけのことですが、当時は名前を尋ねることはプロポーズを意味し、女性が名前を教えることは結婚OKということでした。解説にもありますように、この歌の場合には名前を教えてもらえなかったようです。」



今の状態から当時の賑わいを想像するのは難しいのですが。
ここは交通の要衝で、若い男女が出会う歌垣の場所だったそうなのです
(現代の合コン会場か?)


合コン会場は、説明板の後ろあたりかしら?
おそらく、ワカモノたちがいろいろと駆け引きしたんでしょうね……






ここに、万葉歌碑♪

むらさきは灰さすものそ つば市の八十のちまたに逢へる児や誰
作者不詳  巻12.3101

この歌がなぜかとても好きです
「むらさきは灰さすもの」という出だしが好きなのかな?

この歌、合コンであった人に「君の名は」と聞いている歌ですね(今ならLINE繋げるのかな)

「君の名」を聞くという求愛は、時代を問いませんね……(*^o^*)





さて、ここから帰路
桜井駅まで、ひたすら歩かなければなりません
景色は広いが、桜井駅がどこだかわからない!


振り返ると、海石榴市あたりの集落に、夕方の日差しで影ができています



間も無く、初瀬川の川岸に着き、川沿いに西方向に歩いていると

また、
万葉歌碑が♪

説明板
こもりくのはつせの山 青はたの忍坂の山は 走出のよろしき山の 出立のくはしき山そ あたらしき山の 荒れまく惜しも
作者不詳 巻12.3331


正直に言うと、この歌碑の下にあった説明板の石(↑上の写真)が今までの歌碑の中で一番キレイかもしれないと思いました)



さて、初瀬川を渡ります

さよなら、山の辺の道。・゜・(ノД`)・゜・。


と、ここで、iPhoneの電池が切れてしまいました

山の辺の道の道標も無くなってしまい(桜井駅まで、詳しく道標立ててほしい!)

ストレンジャーの私はしばらく迷い子、いえ、迷い大人 になりました

コンビニを発見し、電池を買い、iPhone復活までの間に、そこにいた可愛い女子高生に
「桜井駅はどこ?」
と聞いたところ、彼女は困った顔をして、
「えっと、桜井高校わかりますか?」
と切り返されました
(駅がわからんのに、高校がわかるわけがない)

……おばちゃん、笑顔で、ありがとうとお礼を言って、復活iPhoneで調べました


調べたら、説明しづらいということも理解



桜井駅前に着きました




これで、11月18日の山の辺の道フラフラ紀行、ようやく終了です



お付き合いいただきありがとうございました



じゃあな……元気でな……
ひぃ〜〜っ





聖林寺十一面観音について、過去に私がこだわった記事↓
(最近、アメブロ内でもリブログしているのですが、一応ここにも貼りますね)
「聖林寺十一面観音の評価2〜和辻哲郎vs町田甲一」





またまた続き記事です(これで最終回にしようと思ったら無理だった)



桧原神社に到着しました



桧原神社から西を見ると、二上山が正面にあります



二上山、すっごい遠くだけど、説明板もあります



春分、秋分の日には、↓ こんなふうに
二上山に落日するらしい
たぶん、そんなタイミングで桧原神社に行くことは私には無理だろうけど……





万葉歌碑です

古の人の植えけむ杉が枝に霞たなびく春は来濡らし
柿本人麻呂歌集  巻10、1814


先を急ぎますので、桧原神社の詳しいことは省略して(^◇^;)


大神神社方向に、山の辺の道を進みます

この辺、山の辺の道らしい山の辺の道だよね(は?)



で、入江泰吉さんの写真でも超有名な
↓ この場所で、毎回毎回、構図を真似して撮る



このあたり、前回私が通った時は林が荒れていましたが、今回整備されていました


鬱蒼とした山道をくねくね行くとやがてポツンと

万葉歌碑♪

山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
 高市皇子   巻10、1814




そして、間もなく着いたのが、
隠棲の地にふさわしい山の中にある
玄賓庵

玄賓は平安時代の高僧だそうで、
もともとこの庵は三輪山桧原内にあったそうです(どの辺かしら?)


↓ 玄賓ちゃん、何かお悩みごとでも?

「うー、指ぱっちんが上手く出来ないんだよ…」
(写真は




玄賓庵が現在のこの場所に移った時期は案外「最近」で、明治はじめの廃仏棄釈(出た!)の時だそうです
もともと三輪山桧原のどこだったのかわかりませんが、現在のこの地も隠棲の地としてなかなか「素敵な」場所に思えますよ


こんにちは〜


紅葉がひっそりと綺麗でした


お堂は階段上がった左手にありました




お庭の奥には不動明王の石像がありました
その他、庭には砂利で作られた護摩壇があり、結界が張られていました

外で護摩を焚くんですね……


 この玄賓庵は、

世阿弥作と伝える謡曲「三輪」の舞台としても知られるそうです(三輪桧原にあった時代ということになりますけど……)




謡曲「三輪」のあらすじは、こんなふうです


むか〜し、むかし、

三輪山の庵の玄賓の許へ、里の女が通っていました

ある日、女は玄賓に衣を一枚乞いました

玄賓は衣を貸し与え、女の住処について尋ねました

すると、女はこう答えました

「我が庵は三輪の山本 恋しくは訪い来ませ杉立る門」

女はこう言い残して姿を消しました  


 不審に思った玄賓は、後を追い三輪明神の近くまで来ると、二本の杉の木に衣が掛かっていて、その裾に一首の歌が掛けられていました

「三つの輪は清く浄きぞ唐衣くると思ふな取ると思わじ」

この歌を玄賓が読んでいると、杉から声がして(女は三輪明神の化身でした)

そしてこう詠みました

「ちはやふる神も願いのあるゆへに人の知遇に遇ふぞ嬉しき」




玄賓が、姿を見せるように願うと、女神が男性の烏帽子と狩衣を上につけて、現れました


神様(なのに、結婚云々などという生々しい人間チックな)結婚物語は、末世の衆生を救うためのものであることを伝え、「三輪神婚説話」を物語り、神楽を舞い、「天の岩戸」を再現して見せました


http://www.noh-oshima.com/tebiki/tebiki-miwa.html


ここで、引き合いに出された「三輪神婚説話」と「天の岩戸」は、↓このようなものです(上のリンク記事中該当部分をそのまま引用します)
















(引用)
【神婚説話】 大和の国に長年連れ添った夫婦がいた。八千代を経ても心が変わらないことを誓っていたが、夫は夜通ってくるだけで昼は姿を見せない。ある夜、妻が「あなたが何年も夜しか来てくれないのはとても不審なことです。どうせならずっと一緒にいてください」と頼むと、夫は「姿を知られると恥ずかしいので、今宵限り通って来ない」と言う。女は悲しみ、住処を突き止めようと、糸巻きに付けた針を夫の衣に綴じ付けて、糸をたどりついていくと、針は三輪山の神垣のそばの杉の下枝に止まっていた。女はこれが夫の姿かと驚き悲しんだ。その糸巻きに三巻き糸が残っていたので、ここを三輪と呼ぶ。
【天の岩戸の神話】 天照大御神が天岩戸の中に隠れてしまい、世は常闇となった。八百万の神はこれを嘆き、岩戸の前で神楽を奏し舞った。すると大御神が岩戸を開いて外を覗いたので、闇が晴れて人の顔が白々と見えたため、神は「面白や」と妙なる声で言った。これが「面白い」という言葉と、神楽の起源である。


そして、伊勢・三輪の神はもともと一体の神の分身であることを告げる。やがて岩戸が開くように夜も明け、僧都の夢は覚め神の御告げも終わる。(引用終わり)



むむむむ……?むむむむ……?

えぇっ?
「三輪の神婚説話」ってこれかい?

と思いませんでしたか?
上の引用を、も一度みてください?
「長年連れ添った夫婦」が主人公?
それ、三輪の結婚説話なんですか?

私は、断然、三輪の結婚説話といえば、
①大物主神と人間の活玉依姫の結婚、
大物主神と倭迹迹日百襲姫命の結婚、
だと思うんですけど?

「長年連れ添った夫婦」なんて、そんなつまらん話なの?
それじゃつまらん!
やっぱ、倭迹迹日百襲姫命よ!
やまとととひももそひめ!
この、「と」と「も」が圧倒的に多い、マントヒヒにも似たお名前の、あの箸墓古墳(今回は行かなかったけど)の被葬者ではないかと思われるヒメ様が結婚した相手がお箸箱の中のヘビだった!というヘビーな話が三輪神婚説話なんじゃないですかぁ?はぁ?(ちょっとコーフンしないで、落ち着いてください)

もー、しょうがないから(?)
大物主神の結婚話については、「うましうるわし奈良」から引用しますよ、いい?(キレた)
3つ、結婚話がありますよ(大物主神よ、あなた、プレイボーイ?)
(ここから、「」内、引用)
①活玉依毘売
「大物主神を祀る神主となった意富多々泥古(おおたたねこ)の系譜をさかのぼると、大物主神と人間の娘との恋物語にたどりつく。
 『古事記』が語るには、
【活玉依毘売(いくたまよりひめ)という美しい娘のもとに見目麗しい男が夜ごと通っていた。娘は男の正体もわからないままにお腹に子どもを宿す。不審に思った父母は男の正体をつきとめようと、麻糸を針に通して、男の衣の裾に刺すよう娘に指示した。男が帰った翌朝、衣に刺した糸は三輪山の神の社まで続いており、娘のもとに通っていたのは三輪山の神、つまり大物主神だったことを知る。糸巻きには三勾(みわ・三巻)だけが残ったので、この山を「三輪」と名づけたという。】
この話はいわゆる「三輪山伝説」と呼ばれ、『源氏物語』や能楽・文楽など日本の文芸に多くの影響を与えている。
『日本書紀』では少し違うストーリーになっていて 」 

②倭迹迹日百襲姫命
「【大物主神は倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)という女性のもとに夜な夜な正体を隠して通っていた。姫がどうしてもその姿を見たいと言うと、翌朝にこの櫛箱の中にいるから、見ても驚かないように、と言う。朝になって櫛箱を開けると、その中には小さな蛇がとぐろをまいていた。姫が驚いて約束を破ってしまったため、大物主神は怒って空に舞い上がり、三輪山へと去って行ってしまった。】
この話では三輪の神の本体が蛇であることを伝えている。大神神社には今も「巳(み・蛇のこと)の神杉」があり、蛇が好きな卵や御神酒が供えられている。

③勢夜陀多良比売
「『古事記』ではもうひとり、勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)という人間の娘と大物主神が結婚し、その間に生まれた娘のひとり、伊須気余理比売(いすけよりひめ)が神武天皇の皇后となっている。これらの神話から、外部からやってきた天皇の祖先たちが土地の神と縁戚関係になることによって、その霊威を一族の味方につけていった、と考えることができる。」(引用終わり)

こんなに結婚ラッシュだなんて、三輪山には神婚説話なる「説話の一群」があるのでしょうかね?大物主神プレイボーイ説ですね(ちがう)



一つ気になるのは、三輪神婚説話は大物主神という「男性」の神様との結婚話ですけど、
謡曲「三輪」では玄賓さんに通った「女性」が神様なのよね……性別が逆だわ!

うーん、ま、いいか



でもって、もう一つ
大物主神は「祟り神」ですよね(ちゃんと祀らないと、「祟りじゃ〜」となる←若干雑な説明かと…)


……ってことは、下世話な連想ですが、「結婚説話」と「祟り神」、つまり、
「結婚は祟る」  という恐ろしい組み合わせが成り立つようで(?)、
これは、現代にも通じる、身近な
「夫婦喧嘩の神様バージョン」のような気もして面白いですね(下世話、下世話…)



……おっと、玄賓庵で思わぬ長居をしてしまいました 




先を急ぎます


あー!月からのお使いが!
かぐや姫の満月の光みたいなありがたい光に照らされて

進んで行くと


耳成山が見えた!
耳成山だよね?






この辺りに一箇所、茂みが開けるポイントがあります
そこから今度は二上山が覗けます↓




さらに、うねうね行くと左手の少し高いところには、

オカミ神社(おかみは漢字変換できませんが、下の看板のような字です)
看板の字がすでに怖い のですが、この神社は、池をぐるっと回らなければならない場所にあり、なかなか勇気が必要です

ちょっと怖いので、パスしたこともあります
が、今回は頑張って行きました(よく考えてみたら、私の方が「怖さは上」かと考えました)


↓ この池の手前から時計回りに池の周囲を回らねばなりません


池の向こう側には小さな社殿?があり、そこに行くまでの紅葉がとてもきれい



池は、さらに社殿の向こう側にも広がり、鳥居が見えています
この神社、水子がまつってあって、ひとけがなくて、神秘的というか、やっぱりちょっとこわいというか……(^◇^;)




なので、長居は無用 、すぐに山の辺の道に戻りました





山の辺の道の左手、少し高いところに
歌碑〜  草ボーですが、古事記です
茅原のしけしき小屋にすがだたみ
いやさやしきて わがふたりねし
古事記中巻 神武天皇



ここには、大きな万葉歌碑♪
しかも、あの額田王の歌
万葉仮名(漢字)で書かれていますが、仮名交じりにすると、こうなります
「味酒 三輪の山 青丹よし奈良の山の 山のまにい隠るまで 道のくまいさかるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむ山を 心なく雲の 隠さふべしや

三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなも隠さふべしや」
額田王  巻1、16.17


この歌、別の場所にもありましたね




さらに、狭井川のほとりにまた歌碑

狭井河よ雲立ちわたり畝傍山
木の葉騒ぎぬ風吹かむとす
古事記  伊須気余理比売

三人の子どもたちに、急を知らせる歌です
詳しくはこちら↓




おー、やっと、お社が…
ここは、狭井神社

数年前、このお社はボロボロで、屋根の上に雑草が生えていました

意地悪なので 、その頃の写真を載せたりして…↓
ほら、ボロボロ



それが、キレイに改修されて、よかったね(^ー^)ノ



このお社の向こう側には、
コップ、コップ……



コップを一つとり、洗って


あそこで、ご神水を汲んで飲む
美味しい!



大きなペットボトルに入れてる人がたくさんいましたが
私はカラで持っていた、小さなペットボトルに水を汲みました(自販機がないので、助かったー)



大神神社まであと1歩でしたが、ここでいったんおしまい……


桜井駅まで、なかなか進まないなぁ…











更新、遅くなりました

山の辺の道、前回の続きです
(11月18日に行った時の記事です)


兵主神社から戻り、下の拡大図の黄色い矢印のところから
山の辺の道(緑の線)に再び入り、右方向(南方向)に行きます

⇦北



はるか西にはまた二上山が見える……



桧原神社まで1.5キロです



みかん畑の脇の道を進むと


やがてこんもりとした緑に囲まれた下り坂になり、その先は左カーブ



カーブを曲がると、目の前に美しい三輪山がよく見える下り坂となります


…ということで、
ここから三輪山コレクション

ススキと三輪山

朝顔と三輪山

コスモスと三輪山

柿と三輪山
実はこの坂道、そんなに長くはありません
同じような場所でゴソゴソ写真撮っていただけなのです(怪しい人)


それにしても、三輪山が正面にとてもきれいに見える坂です
関東で富士山 が見える坂が富士見坂とよばれるように、
この坂道は「三輪見坂」と名付けたらいかがでしょう?

みわみざか……まあまあかな



その「三輪見坂」を下り切ると、
また鄙びた道が続きます
ここでも三輪山がよく見えてます 

この道は、「三輪見道」ってのはどう?
……みわみみち……「み」率60%…





で、西を見ると、やっぱり二上山!

このあたり
東に三輪山、西に二上山で
またしてもいい場所です




みかん畑の脇には、小林秀雄の筆跡の
山辺道 の石碑
(この場合、辺の字は「邊」?「邉」?)




おっと!またもや三輪山!


やっぱり、みわみみち!(もうやめて)



万葉歌碑がありました
ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音高しもあらしかも疾き
柿本人麻呂歌集  巻7.1101



三輪山、二上山、万葉歌碑……
す、す、すばらしすぎて卒倒しそうです
もう、息も絶え絶えです(そんなこと言ってないで、歩きましょう)





山の辺の道はやがて
東西方向に横切って走る広い道路、県道50号線に出ました

ここは下の地図の、黄色の矢印のところです

⇦北
緑の道が山の辺の道
黄色の矢印のところまで、北から南下してきました
ここからしばらく、東方向(地図の上方向)に県道50号線を進みます

県道50号線は広い道です

この県道50号線の一部が、山の辺の道と重なっているのです


またもや万葉歌碑
わかりやすい石造りの説明板がついています↓
あしひきの山かと高き巻向の岸の小松にみ雪降りけり
柿本人麻呂歌集  巻10、2313






水の音もよく聞こえる場所です


しばらく黙々と登る

また、万葉歌碑(≧∇≦)

巻向の山辺とよみて行く水のみなわのごとし世の人われは
柿本人麻呂歌集  巻7、1269




県道ですが道幅が細くなってきたような……


道の脇では、事務机がみかんの無人店舗として「第二の人生」を送っていました


「ふゆ柿」と書いてありますね〜
富有柿のことでしょうね
冬の意味もあるのかな?柿は秋だけど…




この先、本来は下の地図の青い矢印のところで右折して山の辺の道に入るのですが、
その地点に、この先に「何か」ある表示(たしか神社の名前)だったので、少しだけ県道をこのまま進んでみることにしました

こんな道です
道はこの先、民家がポツリポツリあった後、
暗〜い道になってしまったので、
さすがに怖くなり、引き返しました
そして、先ほどの青い矢印の地点から南へ、山の辺の道に入ります
道路は県道
左に曲がり、山の辺の道に入ります



このあたりの山の辺の道は、山道ですが怖くありません
人が写っていませんが、この日はたくさんの人とすれ違いました


お!二上山!




写真左下に万葉歌碑(わかりますか?)



これです
字が見えなーい!


みわやまの山辺まそゆふ(真蘇木綿)みじか木綿かくのみからに長くと思ひき
高市皇子  巻2、157
入江泰吉さんの筆らしいので、頑張って見てみよう


万葉歌碑の拡大!
「入江泰吉」  と書いてあるのがわかります?




このあたりの風景は、桃源郷♪のようだと私は思います



奈良盆地に向けて、なだらかな斜面が広がります(なんてったって、纒向エリアですからね〜〜)

手前にはみかん畑

民家が増えたようですが、それでもポツリポツリ



案内板には、

大和は国のまほろば
たたなづく青垣
山ごもれる大和し
うるわし
(古事記中巻、倭建命)

やまとはくにのまほろば ♪

なぁんてステキな言葉なんでしょう

もう、動悸息切れ 、血圧上昇 です…



とか言ってるうちに、
桧原神社まであと0.1キロのところまで来ました


次、桧原神社に入ります



ちょっと、動悸息切れ血圧上昇なので(しつこい)、また一旦おしまい





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