はなこの仏像大好きブログ

奈良、鎌倉、京都、古美術、そして、日常の生活などを取り上げて書いて行きたいと思っています。 よろしくお願いします。 主婦、母ですが、通信制大学院の学生でもある、アラフィフおばさんです。

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2017年03月




国宝 法華寺十一面観音立像
   
像高1メートル
カヤの一木造


なんと美しい十一面観音さまでしょう!


私が法華寺に初めて行ったのは、高校2年の修学旅行でした(もちろん、20世紀の出来事)
台風直撃の奈良で、初めの計画が中止になり、急遽組まれたコースに法華寺が入っていました


法華寺の場所は、もともと藤原不比等の屋敷のあったところです
不比等亡きあと邸宅跡は不比等の娘光明皇后の皇后宮職となり、不比等没後25年に官寺に改められました

光明皇后といえば、お父さん不比等を敬愛し、署名にも「藤三娘」(不比等の三女)と書いたことでも有名 

その筆跡が↓ 私は好きです


   




この方の書のテキトーさ加減について、私はかねてより、恐れながらとても共感するものがありました

現代なら、彼女は「ノートがきたない子」でしょうか?(^◇^;)


話がしょっぱなから脱線してしまいますが、wikiにも光明皇后の筆跡について、面白いことが書いてあったので、ちょっと引用しちゃいます
「筆力は雄健であるが、文字構成の軽視が目立つ。紙には縦線があるので気をつければ文字列を整えるのは容易なはずだが、表題の「楽毅論」からいきなり右にずれ、その後も真っ直ぐ書くのを二の次とし、行間も不揃いである。文字の間隔や大きさも不均一で、行末で文字が小さく扁平になってしまう誤りを何度も繰り返す。文字単体を見ても、毛筆の状態が良くなかったのか、筆先が2つに割れたりかすれている箇所がしばしば見られ、均衡を欠いた結字も散見する。しかし、流した文字が一切なく、日本の書道史上殆ど類例のない強く深い起筆、強い送筆、そして強く深い終筆のもつ表現力が、構成の杜撰さを覆い隠し、光明皇后の強い決意と決断を感じさせる魅力的な作品に仕上がっている。」書家石川九楊は『楽毅論』を以上のように読み解き(後略)       https://ja.m.wikipedia.org/wiki/光明皇后


そんな憎めないテキトーさの垣間見られる光明皇后ですが、ナント美人で知られた方だったようです
そしてその美人さんの光明皇后のお姿を写した と伝えらえるのが、この十一面観音像なのです 
なんでも、十一面観音は、光明皇后が蓮池を散歩する様子を写したのだとか・・ そうやって見てみると、右足は一歩踏み出して蓮台からはみ出しそうだし、右足の親指は少し上に反り動きがあります 
これが(よく言われるように)歩いている表現なのかしら?私には「休め」の足にも見えてしまいますけどね…(^◇^;)


風動表現と制作年代

横からこの像を見ると、前に一歩出した右足の表現とともに、裙や条帛、天衣などが身に圧着し、裙の裾が後方になびく様子から、歩行中の像があゆみを止めた瞬間をとらえた、「風動表現」をとると解釈する説があります
image

この「風動表現」の説をさらに進めたのが井上正氏です
氏によれば、右足が少し前に出ているとはいえ踏割蓮華に左右の足がそれぞれ載せられておらず一つの蓮台に乗るこの像に「歩行感」を読み取ることは「やや無理」であること、足と蓮台との密着感が強いこと、髪や天衣の動きが歩行によって生まれる風にしては強すぎることから、この十一面の表現は、観音の「神変」すなわち観音自らがその神力を衆生に示すために吹かしめた霊風を表現した「風動表現」であると言っておられます

↓風になびく髪の毛
確かに風が吹いているようにも見える……これが「神変」の表現か?


井上氏によれば、この風動表現の起源は、8世紀前半中国盛唐期の画家呉道玄の影響であると言います
そのころの中国の画風には対照的な2つのものがあり、「呉帯当風 曹衣出水」(北宋・郭若虚『図画見聞誌』所引)と呼ばれ、「呉家(呉道元)の描く帯は風に当たって舞い翻り、曹家(北宋・曹仲達)の描く衣は水から出たばかりのように、衣が肉身にぴったりと密着している」という意味を表すそうです
この呉道元の画境の中核は、中国古来の「気 」の表現の復活であり、髪・天衣・裳・帯などを風に動くように表現することで、内在する気を表現したということだそうです

井上氏は、法華寺十一面観音像の風動表現の卓抜さなどから、唐人の作であることを推定し、制作年代については法華寺開創の天平7年(745)と解釈しています(井上正『7-9世紀の美術 伝来と開花』岩波書店)

この井上氏の説は、制作年代に関する説としては一番早い時期のもので、 このほかには、8世紀第2四半期説、9世紀第3四半期説などがあり、ずいぶんと幅があるものだと思います   

つまり、制作年代
①9世紀第2四半期説 
②8世紀第2四半期、唐工制作説 
③9世紀第3四半期説
の3つがあります
①~③のどれが妥当かって?……そんなこと、私にはわかりませんよ (②はいかにも早すぎるんじゃないかとも思いますけどね)

このお像は、髪の毛や装身具(花冠、臂釧など)に銅板を使っていますが、一木造で木地仕上げです
このような木彫像は平安時代9世紀に行われたもので、これより後になると乾漆併用(木屎漆併用)となっていくそうです(渡岸寺、室生寺)

じゃあ、いつ作られたのか?・・・そんなこと、私にはやっぱりわかりませんけど、いつの生まれであれ、お美しいことに変わりはないので、それでいいじゃないですか?(*´∇`*)




十一面の作り方」について

ところで、十一面観音の表現方法については、2種類の経典に依ると考えられます   

それは、
①654年アジクッタ訳『十一面観世音神呪経』(大正蔵18、824b)、
②656年玄奘訳『十一面神呪心経』(大正蔵20、154a)
の2つで、どちらもサンスクリット原典の漢訳です

どちらも似たような表現ですが、これがばっちり法華寺十一面の表現に反映されています

まずは、経典の内容から 見てみますね   

②玄奘訳
のほうが短いのでそちらから、該当箇所を引っ張り出します
(太字が原文、カッコ内は はなこテキトー訳) 

   「応当先以堅好無隙白栴檀香。刻作観自在菩薩像。」 (白檀をつかって、観音像を彫る←テキトー訳) 
(中略)
   左手執紅蓮華軍持。展右臂以掛数珠。及作施無畏手。」(左手には紅蓮華を持ち、右手には数珠を垂らして掛ける。施無畏手を作る。)    
  「其像作十一面。当前三面作慈悲相。左辺三面作瞋怒相。右辺三面白牙上出相。当後一面暴悪大笑相。頂上一面作仏面像。諸頭冠中皆作仏身。其観自在菩薩身上、具瓔珞等種々荘厳」(その像は十一面で、 前の三面は慈悲相(優しい相)、左三面は瞋怒相(怒った相)、右三面は白牙上出相(白いキバが出た相)、後ろ一面は暴悪大笑相、頂上の一面は仏面像。頭にそれぞれ仏(仮仏)をあらわし、瓔珞などの荘厳で飾る)

①アジクッタ訳で②と違うおもな所は、
玄奘訳「前三面慈悲相」→アジクッタ訳「右三面菩薩面」、
「左辺三面瞋怒相」→「左廂三面瞋面」、
「右辺三面白牙上出相」→「右廂三面以菩薩面。狗牙上出」、
「後一面暴悪大笑相」→「後有一面当作笑面」、
「頂上一面作仏面像」→「其頂上面当作仏面」

というところで、内容はよく似るかと思われます

つまり、十一面の作り方は
前三面が優しい菩薩顔、左三面が怒った顔、右三面は白いキバ、後ろ一面は暴悪大笑面、頂上に仏面(②では像)


↑このようになります


これを、上から見たら↓こんな感じ


実に賑やかな頭です(うるさいだろうね)
 

法華寺の場合、頭上面だけで、合計十一面になってしまい、
本面を加えると12面になってしまいます 

これに対し、渡岸寺十一面観音は本面含めて11面となるそうです
まあ、渡岸寺十一面の場合は、左右の面も一体ずつ耳の所まで降りてきてますけどね 

   
渡岸寺十一面観音頭上面配置図

(毎日新聞『滋賀向源寺十一面観音』)
   
渡岸寺の話はここまで~



話を 経典にに戻しますが
①アジクッタ訳の方を見ると、
其十一面各載華冠。其花冠中。各各安一阿弥陀仏」(十一面のそれぞれに、華冠をいただき、花冠の中にそれぞれ阿弥陀仏をおく)と続いています    
   
ええ?頭の上の十一面のその上に冠をかぶせるんですって??花をかたどった冠なら かわいいこと間違いなしですけど、これを現実にやってみると、「超細かい作業」となること間違いなし! でもありますね

それも含めて頭上の 十一面をみていきましょうか?



  頭上面
・・・・ということで、ここから法華寺十一面観音の頭上面を具体的に見ていきます   
 
・前三面(菩薩面)    まずは、正面の菩薩面三面です



どれどれ、もっと拡大してみますね
 
うわ、3体こっち向いていますね


↓なんと、『千と千尋 の神隠し』に出てくる頭だけの3おじさんを思い出してしまったわ (゚∇゚ ;)エッ!?  

・・とかいうことはどうでもよくて、上の菩薩面3面をよく見ると、それぞれに花冠をかふり小さな阿弥陀仏まで彫られていますね(いくらなんでも頭上面は別材だそうですし、小さな 化仏はすべて後世のものだそうですけどね)   


次に左三面(瞋面) を見てみます


はい、もっと拡大↓
ぎょぎょぎょ!
眼を見開いて、怒ってますね~(近寄らないようにしましょう)


さて次は右三面(狗牙上出面)


はい拡大↓

ほんとだ、牙を下から上に向きだしていて、こちらも怖いですね

このキバの3面の顔の表情は、聖林寺など古い時代のものは優しい表現のようですが(画像ないです)、
時代 が下ると牙をむきかつ怖い表情となるそうで、このあたり、制作年代を考える材料になるかもしれませんね

ちなみに①アジクッタ訳では「菩薩面。狗牙上出」となっていたので、この 3面は アジクッタ訳とはちょっと違いますね
       


・後の一面


すいません大きな画像がありませんが、後頭部全体こんな感じのようです

大体、法華寺十一面観音自体が、公開期間中でないとお厨子がしまっていて拝することができないくらいで、
後頭部 をこの目で直接見る機会なんてたぶんやってこないんじゃないかという意味で貴重な後頭部ですね(´∀`*)

 

・頂上部 仏面・・ 最後はてっぺんの一面です 
   
ここは、頭だけではなくて肩まで彫り出されている ようで、②玄奘訳のほうに「仏面」と あったものの表現のようです
    


    
その他の表現

 ・右手はどうなっているの?

 十一面観音の右手の表現については、先ほどの
①アジクッタ訳では
右臂垂下。展其右手。以串瓔珞施無畏手。」(右手は下げて瓔珞を施無畏手が串(つらぬく))
②玄奘訳では
展右臂以掛数珠。及作施無畏手。」(右手に数珠を掛けて、施無畏手を作る)

① ②で微妙に表現が違います

法華寺十一はどうなってる?

ううむ、指がぷにぷにしていてかわいいということしかわかりませんけど?


今度は脇から見てみます


  これはどうなっているかというと、前から天衣が回り込み、後ろに向かって出ている状態
①では瓔珞がつらぬく、②ではj数珠を掛けるとなっていてどっちでもないですね~



もしかしたら元々は瓔珞か数珠を執っていて、なくしちゃったのかもしれませんね・・・

   

・三屈法

改めて正面から全身を見ると



 腰をひねり、片方の膝を遊ばせる三屈法をとっています

うまくバランスの取れた姿勢は大変に美しいです


 
 この像を彫った工人は幸せだったでしょうね
ほかにはどんな仏様 を彫ったのでしょうか?
現代にまで伝わっていないであろうことが、 残念ですね
   







   
こちらからの続き記事です(先にどうぞ)



2月某日の蟹満寺


   
蟹満寺はカニ と金堂仏で有名ですが


まずはカニの話

蟹満寺の由来について、お寺で購入した本から絵 をお借りして見てみます
(文は私が短く書き直しました ・・・が、『日本霊異記』『今昔物語集』等々に載せられるこのお話、かなり荒唐無稽ですからね)

  蟹満寺縁起
 1枚目


昔このあたりに住む信心深い一家の一人娘さんが外出すると、村人がカニ を捕まえていじめていました
娘さんは自分の食べ物とカニを交換し、カニを逃がしてあげました

↓上の絵のカニの拡大図(ズワイガニ疑惑)



2枚目


別の日、娘の父が田んぼで仕事をしていると、蛇がガマを呑み込もうとしていました
お父さんは蛇に、ガマを助けるなら自分の娘を嫁にやると言いました(ひどい)
蛇はガマを逃がし、どちらもどこかへ行ってしまいました
家に帰って父はこのことを娘に話しました
娘は父をなぐさめ、観世音菩薩に救いを求めて観音経をとなえました


↓ 蛇の顔
「うっしっし、ガマを助けて娘をもらおう・・」(なんちゅう取引!)

 「助かったぜ、ベイベー」



3枚目

日没に近づくころ、衣冠を付けた紳士が現れ、田んぼでの約束を迫りました
父は困り嫁入りの支度 を理由に後日に約束を遅らせました
その日が来ると父は雨戸を固く閉ざしました
紳士は大蛇に姿を変えて、家の周りをぐるぐる回り怒り狂い、しっぽで雨戸をたたきます
(どちらの気持ちもわかるなあ、裁判にしたら父が負けるかもねえ)


4枚目
家族皆で一心に観音経をとなえていると、観音様が眼前に現れ、日ごろの善行をほめて、危難を除くことを告げました
一家は合掌し「南無観世音菩薩」と何度も願い続けました


5枚目

外で先ほどまで蛇が雨戸を売っていた音が消え、急に静まり返りました
夜明けの白みかかるころ、父がおそるおそる雨戸を少し開けてみると、ばらばらに切られた蛇と、数万の蟹の亡骸がありました


↓カニの拡大
 


6枚目

父は妻と娘を呼び寄せ、観音の守護に感謝し、カニと蛇の為に合掌し「南無観世音菩薩」となんども念誦し、カニと蛇を集め、丁寧に葬りその上にお堂を立てて聖観音菩薩を まつり、 カニと蛇の菩提を弔いました

この寺は蟹満寺と名付けられました

観音様の功徳ですね~~
よかったですね~~


でもって、蟹満寺の本尊は、(縁起とは違い) 釈迦如来(聖観音どこ行った疑惑)    
       
   
    
    
   


はい、面白いお話の次は、釈迦如来のことについてです


国宝 蟹満寺釈迦如来


   

金銅製の坐像で、八尺八寸(丈六仏よりはやや小ぶりなんでしょうかね)
螺髪、白毫をつけません   

お寺のパンフレットによれば、この仏像は今まで来歴がはっきりしなかったそうですが、平成二年に本堂西側の庫裏の建て替えに伴う発掘調査によって、白鳳期の巨大な瓦積基壇建物跡の一部が検出され、白鳳創建期の蟹満寺本尊(七世紀末ごろ)であることがほぼ明らかになったということです
(「蟹満寺縁起」の聖観音どこ行った疑惑再燃)

この釈迦像が白鳳期創建の旧仏であることは、平成十七年の再調査によっても確認されたようです

つまり、台座とそれにのる釈迦如来坐像は創建以来約1300年、その場を動いていない と考えられるそうです(動いてないからといって、かならずしも制作年代に直結 しないという意見もあるようですが、それはどういうことなんでしょうか?)    
    
    
   
このお像の造立過程の詳しいことがわからないのですが、 
体の各所には鋳造時についてしまったであろう傷跡が残っていました

 

 おしりのところには笄の跡?や  ひび割れ   
   

写真がありませんが、左ひざのあたりにも、鋳造時についた傷跡がくっきり残っているのがわかりました
  
この像の鋳造を行った仏工の技術力はどのくらいだったのか?気になりました






お顔も厳しい表情をしていらっしゃいますが、頬の部分はすべすべしたお肌、とはいかないようです


   

話が変わりますが
奈良薬師寺金堂の薬師三尊像について、移坐説(藤原京に作られた薬師寺の本尊を平城京に持ってきたとする説)をとる立場の根拠のひとつとして、七世紀末ごろに制作年代がほぼ確定した蟹満寺釈迦如来と作風が近いことを あげるようです

でも、見てください↓   
   
薬師寺薬師如来像のお顔のつるつるピカピカの美肌
このお像が、移坐説の主張するように藤原京からおいでになったのか、それとも平城京で新鋳されたのか(とすると奈良時代8世紀の作になるけど)、    どちらが正しいのか知りませんけど、私としては、昔、白鳳と習ったので白鳳時代と考えたい
けど、この薬師如来のつるぴか美肌を見るとやっぱり蟹満寺より あと、奈良時代の作品なのかしら~?
制作環境の違いがあるにしても(なにしろ薬師寺薬師如来は、ボンボンだから)、ちょっとぶつぶつの残る蟹満寺釈迦如来のほうが薬師寺よりは前なんだろうと思います


あ、そうでした、山田寺仏頭くんのことも触れなくちゃいけません

山田寺仏頭くんは、天武14年(685))作なので、薬師寺、蟹満寺よりも古いのね(^.^)


「あ、僕、制作年代も、その他もいろいろハッキリしてますから!」


つまり、山田寺仏頭→蟹満寺釈迦如来像→薬師寺金堂薬師三尊像
という制作年代の順番になる、ということでしょうね
    

    
  このあたりの時代の他の仏像も含めた制作順序は↓こんな感じのようです

↑この年表だと、蟹満寺釈迦が8世紀初めの制作になってるけど・・・薬師寺の方も新鋳説みたいだから、順番的にはモンダイないわけだわね・・・・
(年表は、朝日出版『国宝の美』彫刻3、白鳳・天平の金銅仏からとりました)

  
1番
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2番
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3番
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美肌度がアップしてますな(そればっかり・・)



旧山田寺仏頭くんの悲劇については、過去記事のこちらへどーぞ(長いよ)


唐招提寺に行くと、入り口から真正面には金堂が見えますね

蓮の花の季節、朝一番に見る金堂、
秋の短い日の、暮れようとする時間の金堂、
…金堂の落ち着いた佇まいは、いつ見ても心を癒してくれるように思います

↑これは、昨年の初夏、朝イチで蓮の花を見に行ったときの金堂


その金堂には、毘盧舎那仏や千手観音など、「有名な仏像」がおられますね



でも今回は、金堂ではなく、鑑真の来日の頃に忽然と現れた唐招提寺の木彫群のお話です
これらは現在、新法蔵で観ることができます
ちょっとコワいお顔ですけどね…

この木彫群が現れたのは鑑真の来日のころ、8世紀後半です


時代は天平彫刻の優れた作品が次々と輩出された時期
しかしこのころの仏像は、(木彫像ではなく)乾漆像、塑像などの捻塑像が全盛期でした   


木彫というのは、木材をcarve,cutしていくもので(鎌倉彫も同じ)、一旦切り落としてしまった箇所は復元できません(それが時々悲劇を呼ぶ)引き算のような造り方です

それに対し、乾漆像や塑像などの「捻塑像」はmold、つまり粘土や木糞漆を盛り上げていく、いわば足し算の造型です


捻塑像の天平期の作例は、乾漆像のうち脱活乾漆像では東大寺三月堂不空羂索観音像、興福寺阿修羅像、唐招提寺鑑真像など、木心乾漆像では聖林寺のあの十一面観音像などがあります

一方、塑像で有名なのは、東大寺三月堂執金剛神像、伝日光・月光菩薩像、戒壇堂四天王像…などです

このように天平時代は捻塑像の全盛期なのです




ところが 
この唐招提寺で、木彫像は突然復活するのです(上の写真の面々など)


 では木彫像が復活したのは何故か?その契機は何か?
……について考えてみます

まず、考えられるのは 

①719年  「檀像一具、唐より請坐」という記事が『法隆寺資材帳』にあることです
 
つまり、法隆寺に唐から 檀像一具を 請来したという記録で、この檀像一具   というのは法隆寺九面観音を指すと考えられています

これが契機となり、木彫像が復活したと考えられるか?

しかし、この719年という年と相前後するように、
711年には法隆寺五重塔塔本塑像が造られ、734年には興福寺西金堂に乾漆像(阿修羅など八部衆、十大弟子)、740年には東大寺執金剛神、日光月光などの塑像が造られています

こんなに捻塑像が造られているタイミングで、唐から九面観音が来たことが木彫復活の契機となると考えるのはちょっと難しいと思われますね


次に考えられる契機は
②754年 鑑真渡来です

『唐大和上東征伝』(779、淡海三船撰)によれば、鑑真が将来したもののリストの中に白栴檀千手像」とあり、唐から白檀の木彫像がもたらされたことがわかります

①よりちょっと後の、八世紀半ばのこのころは捻塑像は成熟期を迎えており、これに代わる新たな表現方法が模索されていたと考えられています
そこに鑑真が唐から木彫像をもちこんだ!

次なる流行は木彫だ!ビンゴ!

という感じだったんでしょうね


木彫の成立については、このほかにも、山林仏教を担っていた私度僧が造像したという説、都と地方を結ぶ 聖僧の介在説などもあり、結局、どれがいいのかは、私にはなんとも言いようがありません

また、唐招提寺と同様に木彫像が出現した異国風な奈良の寺院には大安寺があります
唐招提寺は鑑真とそれに従う僧たち、大安寺は(東大寺大仏開眼 の導師として有名な)インド僧菩提遷那らにより国際性あふれる寺院となりました


 ではこの唐招提寺木彫群の作風や技法の特徴は?

鑑真が唐から将来した像の影響を受けて、唐で流行していた精緻な鏤刻風(細かな刻出)を作風の特徴としています
唐の檀像彫刻に似た表現をしていることは、法隆寺九面観音や山口神福寺十一面観音などの唐から将来された 像の例と比較してもわかります

もう一つの特徴は、量感の強調(デブ)です
これも唐代彫塑と同様の傾向です(ダイエットしなさい)



 次にこの木彫の用材がカヤ材であることの根拠について

唐招提寺木彫群は、すべてカヤ材で作られています

これはなぜか?

まず考えられるのは
①『十一面神呪心経義疏』(八世紀初め)(『大正蔵』39、1010a,b)
を根拠としたと考える説

この経典はインド発『十一面神呪心経』を中国で慧昭が訳したもので、翻訳段階で中国で流行していた陰陽五行説の影響を受けているそうです

経典中には
「問、此行法中、何故白色為法如日月設礼白檀作像、白牙上出、白味為供、面向西方耶。」という部分があり、
つまり観音を白檀で作れ!とかいてあるのです

しかーし、ここで問題が!
何しろ中国には白檀の木なんてない のです(白檀は、もっと暑い東南アジアのほうにしか生えていない木のようです)

経典にはこのような問答もあります
「問 若無白檀之国者為何木作像也。」(じゃあ、白檀がない国は、なんの木で作ったらいいの?はなこ訳)
「答 若依方法者。必求白檀而作像也。若以義門而推者。若求而不得者亦以柏 木作像也。」(もし方法があれば必ず白檀を以て作像すべきです。でももし「義門」でいくなら柏木で作像するのがいい、云々)

この「義門」というのは陰陽五行説のことで、陰陽五行説では観音のいる西 方向を白色とすることから、「白」の付く「白檀」「柏木」を使うとよい、といわば語呂合わせ的に説かれているのではないか という疑問があるようです

語呂合わせ じゃマズイ・・・しかもこの『経典』が日本にとってそんなに大きな意味があるのか?

日本でカヤ材が白檀の代用材に選ばれたことは、この義疏による影響すなわち唐からの影響と考えるべきなのか?それとも別の解釈があるのではないのか?

・・・ということで、別の解釈があるようです

それは
②檀像の日本化 (檀像そのものではないけど)

日本でも檀像の用材となる白檀などの木は育ちません
つまり代用するしかないのです

その時、①のような経典によって代用材を探すのではなく、日本で手に入る材料の中から鏤刻に向いているものを選び出した結果、カヤ材が選択されたと考えるのが良いようです

これより前の時代、正倉院でも同じように国産の代用材が使われていた例もあります
たとえば、琵琶や碁盤の材料紫檀を、国産品では黒柿蘇芳染で代用する例、如意に使われる玳瑁(べっこう)の代用材として仮玳瑁として木地に金箔、茶色樹脂を使う 例など(日本人は器用なんだね)


ここまでをまとめると
唐招提寺木彫群は、成立が8世紀後半から9世紀と考えられ、檀像様で、徹底した一木造、カヤ材を用いた鏤刻風の精緻な彫技であるということです
そして、その 制作にあたっては、渡来した工人の指導、参加などの関与が推定されています
そして、結局、詳細は不明なのであります







ここからは、ひとつずつ、どんなお像が見ていきたいと思います

伝衆宝菩薩立像

お顔部分のアップ
   
像高173.2㎝
カヤ材、台座、心棒まで通して一木造
内ぐりなし
鹿皮をまとい、よく見るとおでこにタテに目が入る三目の顔です
不空羂索観音像と考えられます
藤原清河が生前に施入した「羂索堂」の像にあたると見られています

『唐招提寺縁起 』には羂索堂に藤原清河が不空羂索観音像と八部衆を施入したという記述があり、この像がそれにあたるそうです

藤原清河という人は、752年唐に渡り、そのまま帰れずに773年に唐で没したと推定されています
この像は奥方が施入したと伝えられています



この像は、

↓山口県 神福寺十一面観音立像や   
   

   


↓香川県 正花寺菩薩立像

これらの像との類似性が指摘されています(似てるかな?)





伝獅子吼菩薩立像

角度を変えて……
   
像高165.0㎝
「獅子吼」という名前は近世につけられたそうです
二十五菩薩の中にいる名前ですね  

こちらもカヤの一木造で、台座・葺軸まで通しています
三目で、もともとは四臂(手が四本)、鹿革 を腹前で むすんで、腰に素敵な石帯(バックル)をしめています( おしゃれ)

↓ 腹前に結んだ鹿皮と石帯


こちらも伝衆宝王菩薩と同様に、不空羂索観音像であると考えらえています
やはり、羂索堂に あったか?とも考えられているのです
→→このことは、伝衆宝のところで言及した『招提寺建立縁起』(835)の中には
 「羂索堂一宇。安置不空羂索観音菩薩像躯金色。・・・・」とあり、
「一(いち)」のところが、醍醐寺本では抜けていて、護国寺本では「 一(いち)」となっているそうなのです(確認してませんが)
だから、必ずしも「一体」で確定ではなく「二体」だった可能性もあって、それなら、伝衆宝、伝獅子吼の二体が羂索堂の不空羂索観音であったと解釈できるわけです
(原典を確認していないし、詳しすぎてどうでもいいかもしれません)




   
伝薬師如来立像
       

お顔部分アップ

像高165㎝
カヤ、台座の蓮肉、心棒まで一木造
内ぐりなく、木心こめない
頭のブツブツ は別材の螺髪のあと
おデブ、締まりがない

なんだか気の毒な像ですが、日本工人の作かと考えられているそうです




十一面観音立像

お顔部分アップ
像高166.2㎝
乾漆併用
8世紀後半
伝衆宝王菩薩像を模したか?と言われているそうです(どうでしょうね)
和様化が進みつつある作風


伝大自在 王菩薩立像

169.4㎝
カヤ材、台座心棒まで一木造
柔らかい表現で、こちらは天平様式をそのまま継承したような、保守的な感じ
(ここまで、こわい顔ばかりだったから、これはホッとしますね )




如来像(トルソー)

実は、唐招提寺で鑑真像や金堂像に次いで有名なのが、このトルソーではないでしょうか?
入江泰吉さんの写真集に、このトルソーが登場しましたよね
お顔を欠くその姿が、若い頃は理解できず、でも「トルソーだトルソーだ!」と騒いでいた気がする……
「見よ!この切れ味の良い彫り!張った腿!美しい胸部!流れる衣文線!なんと美しい平安初期!」などと真面目に考えてましたが、
これ、中世の作品らしいですよ……

皆さん、騙されないように気をつけましょう(私だけか……? )



このほかにも、唐招提寺の木彫は、
講堂に肥満体でずんぐりむっくりの伝増長天、伝持国天がおられますね
どちらも130㎝くらいのお像で、針葉樹の一木造、内刳り無しです
ずんぐりむっくりですが、とてもおしゃれな服装ですので、よく見て差し上げてくださいね

講堂 伝増長天像


同、伝持国天像

この二体、もう少し背が高かったらよかったのにね……






唐招提寺の木彫群を見て思うのは、

鼻って欠けやすいんだね

ってことですかね?



唐招提寺木彫群について、以上です



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