また定朝関連の話で恐縮ですが、面白い話を見つけました

「定朝様」の阿弥陀如来像たちには平等院の阿弥陀如来像とは違う特徴があるものが多い!という昔の論文を見つけたのです

…これ、どういうことかと言うと
「定朝様のお手本となった定朝仏は平等院阿弥陀じゃなかったんじゃないか?」
ということです

…とするとお手本となったのは
「どこの定朝仏だったの?」
という疑問が湧きます

少なくとも現在残る定朝確定作(と考えられている)阿弥陀仏は、平等院にある一体だけです

違う特徴を持つ定朝様があると言うことは、平等院以外にも同じようなサイズの阿弥陀如来像がどこかにあり、それがお手本とされていたのか?
ということになります

この辺りのことについて、考えてみたいと思います


まず確認です
定朝は「平安時代後期の仏師」で、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像が「唯一の現存 する作品」である
定朝以降の造仏にあたっては定朝作の仏像(=定朝仏)がお手本となり「定朝様」が継承された


(このうち「定朝様の継承について」は、以前こちらにまとめました↓ 
http://naranouchi.blog.jp/archives/72529547.html )




ところで、ここでひとつ問題です
定朝様って何ですか?」 
「定朝様」という言葉自体を辿ってみると、そもそも「定朝様」という言葉が使われ始めたのはどうやら比較的最近のことらしいのです
ということは、当然現存する定朝仏は一体だけだったわけで 、
たった一体しか定朝仏が残っていないのに 、そこから「定朝様」を展開した最初の学者さんはスゴイ!

しかもですね…
その「定朝様」の手本になったはずの平等院阿弥陀と定朝様阿弥陀は違う特徴を持つ?

これ、軽く矛盾してない?

   

そこで、改めて「定朝様」という言葉の定義を探ってみるとはっきりと定義したものは見当たらない(ように思う)のです
 
定義ははっきりしなくても「定朝様」について触れた論文は数多く見つけることができます  それらの論文の中で「定朝様」の扱いは様々です 

例えば、
・丈六サイズの坐像に絞り定朝様を研究するもの
・阿弥陀如来像に限って論ずるもの
・いやいや、阿弥陀如来だけでなく薬師如来や観音菩薩まで広げて論ずるもの
・坐像だけでなく立像まで含めるもの
・定朝やそれ以降の仏師の主な活動地域である京都に限定せず地方の仏像についても言及するもの…
…など枚挙にいとまなく、またこれらの「合わせ技」のような論文もあるのです

「お―い!一体どうなってるのだ!?」
Σ(`□´/)/と思いませんか? 
   
もしかすると「定朝様」は、案外深いドロ沼のような議論の余地があるかもしれませんよ…ヒュードロドロヽ(TдT)ノ逃げろ〜〜!

  
前置きを短くしようと思いながら長くなりましたが(いつものこと )、
ここからようやく懸案の定朝が作成した2つのタイプの阿弥陀如来像についてです

私が読んだ論文は、
2タイプの定朝制作のの定朝仏を
Aタイプ、Bタイプに分けて、どちらがカッコイイか決める
という論文 です…たしか (あれ?ちょっとニュアンスが違うかもしれないけど←論文だからもっと真面目なはず!、でもまあそんな感じです)

後世に多く手本となったのは、Bタイプなので、「Bタイプの方がかっこよかった!」という結論になるんじゃないかと… 

どうです?わくわくしてきましたか?(しないよ )        

定朝仏って一体しかないはずなのに、なんでAB2つにタイプが分かれるんだい?っていう疑問もこれからお答えします
    

 ☆★☆★☆★☆★   
    

まずAタイプからご紹介します
定朝作平等院阿弥陀如来像  

今までにもアメブロ、ライブドアどちらのブログでも何度も書いてきましたが、現存する唯一の定朝仏と考えられています
      
平安後期の定朝の時代になると、それ以前の密教尊を中心とする極端で恐ろし気な表現から脱却し、円満満月のようなお顔をした阿弥陀如来像が現れました   

平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像はその代表例です
   
この像の円満な相好は、目を閉じて阿弥陀如来を観想する際にその姿を思い浮かべやすいように、という意図のもとに作成されています
阿弥陀の観想は、観無量寿経や往生要集に詳しい方法が説かれており、発願者藤原頼通はこの方法にしたがって観想 を行ったと考えられます

像は左肩を納衣が覆い、右肩には衣が少しかかる偏袒右肩で、脚部はゆったりと構えて座っています
このお姿が「仏の本様」として後の造仏の際に模範として引き継がれていったと巷ではいわれています (はたしてこれは正しいのでしょうか?読み進めてください)

阿弥陀像の大きさは、髪際(額の生え際)から下のサイズが、一丈六尺の像が座ったサイズに造られているために一般の丈六仏よりは大きく、「髪際高」による「丈八像」ということになります

定印を結ぶ阿弥陀であることは金剛界曼荼羅や唐将来阿弥陀曼荼羅、経典儀軌などによる印相 と考えられますがここでは話が脱線してしまうのでこの点については省略します    
    


では次
Bタイプ 
じゃーん!
「こんにちは〜〜!」
BlogPaint

「おいお前ふざけとんのか!?」
とお叱りを受けそうですが、これは私が先ほど「お絵かきツール」なるもので遊んで描いたお像です(やっぱりふざけとったわ)

いえいえ違うんです、ちょっと聞いていただけますか?

実はBタイプの定朝仏は現存しない のです 
だから、私が描いてみたのです

「お前やっぱりふざけとるやないけ!」(どこの地方の言葉かいな)

いえいえ決してふざけてなぞおりません!いたって大真面目でございます

本来このBタイプに登壇するべき定朝仏は
西院邦恒朝臣堂 という所にあった定朝作の阿弥陀如来像なのです
  

つまりこういうことです
Aタイプ=平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像
Bタイプ=西院邦恒阿弥陀堂の阿弥陀如来坐像 (現存しない)

平安後期の人気投票の結果(そんなものはない)、仏像の世界で勝った(=お手本とされた)のはBタイプでした 

Bの勝ち!
Bがかっこよかったんだね!?
パチパチパチパチ (この人、まだふざけているわ)


      
    
 納得いかない方へ 🤔

ここから真面目にBタイプが勝った理由を考えたいと思います 

⑴「仏の本様」は西院邦恒堂像
定朝は仏師としての生涯の大半を藤原道長発願の法成寺の造像活動に捧げました 

これは父康尚とともに始めた仕事で、この法成寺の造仏で定朝は鮮烈なデビューをしました 
「仏師定朝のデビュー」↓

(気の毒なことに、丹精込めて作った法成寺の仏像は定朝の死後すぐに火災により灰燼に帰してしまうことになります )

定朝はこの法成寺の造仏の途中で法橋という僧綱位(お坊さんのもらう位)を 仏師として初めて賜り、その後100人超の大仏師・小仏師を抱える工房を仕切りながら、平等院では阿弥陀如来像をはじめとする諸仏の制作を行い(1053年供養)、その翌年(1054年)には西院邦恒朝臣堂阿弥陀如来坐像を供養します 

12世紀にはこの西院邦恒阿弥陀堂の阿弥陀如来像の採寸を行うためにわざわざ現地に行った仏師がいました
『長秋記』長承三年六月十日の記事にそのことが詳しく記録されています
↓下の画像を見ると、院派仏師院朝①仏師院覚⑤西院邦恒朝臣堂②に行ったことが記されています
ここには仏師定朝の造った仏像③がありました
この仏像について、「天下これを以って仏の本様となす」④
と記録されているのです
すなわち仏の本様 とは平等院阿弥陀如来像ではなく、西院邦恒阿弥陀堂の阿弥陀如来像のことだったのです
 ↓『長秋記』の記事  
 
   


















    このように次の世紀にまで評判になるほど上出来な阿弥陀如来だったからでしょうか、院朝と院覚はこの阿弥陀仏の寸法をそれはそれは細かく採寸します↓
(採寸の内容はこの本の次のページまで延々と続く) 

 記録によれば、採寸は続きましたが最後には夕方になってしまい、衣のしわの数や台座の高さが暗くて計測できなくなってしまったために、後日日を改めて計測をすることとなったようです(本当に後日計測したかどうかは記録にありません)

西院邦恒堂の阿弥陀仏は現存しませんが『長秋記』に上記の詳細な寸法の記録があるために、これを図面に書き起こした学者さんが数人いらっしゃいました

それが、下の図です

<西院邦恒堂の阿弥陀如来像の復元図>
   毛利久
源豊宗

太田古朴
(・・?)…はい?

これ、3Dとかそういう技術(どういう技術?)がまだ無い時代だったから仕方ないと思いますが、
はっきり言って私には上の図が平安時代の採寸のデータを活かしきれているかどうか全然わかりません

だって、顔面だけ比較しても、 同じデータで↓こんなに違いますよ
…って、四角が一つ余ったので、私の絵も入れてみましたが、これはこれで全く見劣りしないなぁ…(冗談です)


このように、NHKの技術さんにでもお願いしてCGでも作って貰わなければ、正確に西院邦恒堂の阿弥陀如来像のお顔を再現することは至難の技なのですが、
たとえビジュアル化できなくても、この像は当時高い評価を得ていました
それは、この像が「仏の本様」と謳われたこと、また別の史料では「尊容満月の如し」と謳われたことから充分すぎるほどわかります

「勝負結果」
西院邦恒 = 2ポイント
・仏の本様  1ポイント
・尊容満月の如し 1ポイント
平等院 = 0ポイント

西院邦恒が、2ポイントで圧勝です!
パチパチパチパチ(またふざけとる…)


🌝🌝🌝
  
このことからは、平安時代当時は西院邦恒堂の阿弥陀如来像こそが(平等院の阿弥陀如来像を差し置いて)
定朝様の手本となった仏像なのではないか?
と考えるのが自然だと思われます
 

⑵2種類の衣文のシワ〜平等院像は非主流

西院邦恒堂の阿弥陀は残っていませんが、少なくとも平等院の阿弥陀像ではない別の像が定朝様の手本となったことは、衣文の皺のより方から考えられるそうです

そこで、ここからは衣の皺について見てみたいと思います
(以下、資料にA図B図とあるので、そのように呼びます)

↓A図   
(平等院の阿弥陀如来像の図)


B図(上の方でタイプ分けしたBタイプ、すなわち西院邦恒堂の像がこちらであるとはこの時点では言い切れない)

A.Bを比較すると、
・右肩にかかる衣の皺がAでは一本、Bでは更に折り返しがあります
・左胸から肩に上がる線もBは平行な3本線、Aはあんまり平行じゃないね
・左腕にかかる衣文の線も違うそうなのだけど、私にはこれはよくわからないです


ではここから、
「定朝様」とされ現存する阿弥陀如来像がどちらのタイプか画像で検証
したいと思います

まず、平等院阿弥陀像…A図

法界寺…B図

万寿寺…B図

法金剛院…B図

浄厳院…B図

石馬寺…B図

仏性寺…B図

西教寺…B図


あらら?

B図が圧勝っぽくないですか?


つまり、定朝様の阿弥陀如来坐像の衣文を見ると、
A図の平等院の衣文とは違うB図の衣文が圧倒的に多いということがわかるのです

ということは、
定朝様の手本となったのは、B図の定朝仏であることが圧倒的に多かった
ということになります


⑶衣文のシワの主流派は、西院邦恒堂像を手本としたのか?

次、B図は遡ると西院邦恒堂阿弥陀如来像に当たるのか?ということを考えてみます(きっとそうに違いない!)

西院像についての情報を整理すると
❶院朝達が採寸に行ったのは西院邦恒堂
❷西院邦恒堂阿弥陀如来像は当時「仏の本様」「尊容満月の如し」と言われていた(だめ押しすると、平等院阿弥陀にその様な褒め言葉の記録はない)
❸西院邦恒堂のほうが平等院よりも後に作られたため、平等院の経験を生かし、より出来の良いものが出来た
❹西院邦恒堂は京都の街中にあり、遠く宇治にある平等院よりも手本にしやすかった
❺西院邦恒像が定朝の最後の作品である

…などの理由により、
西院邦恒堂阿弥陀如来像こそは、その後の定朝様を手本となるべき要件を揃えていると考えられます

つまり、
「Aタイプの平等院像ではないBタイプがその後の定朝様の主流となった
それは後発でより評価の高かった西院邦恒堂阿弥陀如来像である」
と考えられるのです


これを、このブログでのギモンに答える形としていえば、
Bタイプがカッコよかった!
という結論となりますが、これでよかったでしょうか?




なおこれはブログ記事です
不正確な部分もあるかもしれませんので、参考になさいませんようお願いいたします
参考資料は以下に列挙いたしますので、直接これらの資料を御覧ください
   
   
参考資料:
毛利久「西院邦恒堂の阿弥陀如来像」(『日本仏教彫刻史の研究』法蔵館、1965)
源豊宗「定朝と長勢」(講義案1980、   『源豊宗著作集 日本美術史論究4』思文閣出版、1982)
大宮康男「定朝様阿弥陀如来像に就いて」(『静岡大学教育学部研究報告 人文社会科学編』42号、1991)

『原色日本の美術6 阿弥陀堂と藤原彫刻』小学館
『院政期の仏像』京都国立博物館 など