前回の続きです
今回は、壁と扉に描かれた九品来迎図についてです
2. 観経の表現と 鳳凰堂九品来迎図との「くいちがい 」
掲題のとおり、観経と鳳凰堂の九品来迎図は、内容に「くいちがい」があります
その「くいちがい」を見る前に、観経に基づいて、くいちがい無く描かれている当麻曼荼羅を先に見てみます
(なお、
観無量寿経九品往生段の文書については
↓ こちら
①観経と当麻曼荼羅
奈良県当麻寺にある当麻曼荼羅は、
奈良時代の観経変(観経に基づいた絵画)です
当麻曼荼羅図 (貞享本)
この当麻曼荼羅の下辺には観経の九品往生段に基づいてえがかれた、九品来迎図が描かれています
↓ 下辺の九品来迎図
部分的にアップ↓
当麻曼荼羅の九品来迎図では、観経の内容と同様に、往生の格が下がるにつれ、来迎の人数が減ってゆきます
→上品上生の来迎では阿弥陀三尊とともに たくさんの菩薩 が来迎しますが
当麻曼荼羅図 (貞享本)
この当麻曼荼羅の下辺には観経の九品往生段に基づいてえがかれた、九品来迎図が描かれています
↓ 下辺の九品来迎図
部分的にアップ↓
当麻曼荼羅の九品来迎図では、観経の内容と同様に、往生の格が下がるにつれ、来迎の人数が減ってゆきます
→上品上生の来迎では阿弥陀三尊とともに たくさんの菩薩 が来迎しますが
下品下生では誰も来ずに蓮台がゴロゴロ来るだけ
ひぇ~
というシビアな展開になります(それでも極楽に行けるだけありがたいわけだ)
おもしろいので、観経の文と当麻曼荼羅を比較しながら見ていきますね
1.上品上生
…
観経(抜粋しながら、少し現代語にします)
観経(抜粋しながら、少し現代語にします)
「阿弥陀如来、観世音、大勢至、無数の化仏、百千の比丘・声聞の大衆、無数の諸天
が、七宝の宮殿とともに現前する。
観世音菩薩は、金剛の台
(うてな)を執り、大勢至とともに行者(往生する人)の前に至る。
阿弥陀如来は、大光明を放ち、行者の身を照らし、諸々の菩薩とともに、手を授けて迎接する(阿弥陀が往生する人の手をとって迎える)……」
当麻曼荼羅
↓ 阿弥陀とともに観音勢至、たくさんの菩薩、化仏(上でふわふわしてる小さいやつ)が来迎
2.上品中生…
観経
「阿弥陀仏、観世音・大勢至・無数の大衆眷属とともに囲繞せられて(囲まれて)、紫金の台 (←この色でいいのかしら?)を持って、行者の前に至る。
「あなたを迎えに来た」と言われ、千の仏とともに、一時に手を行者に授けた…」
当麻曼荼羅
上品上生より少ない が、阿弥陀、観音・勢至とともに、菩薩たちが来迎
3.上品下生…
観経
「阿弥陀仏および観世音・大勢至、もろもろの眷属とともに、金蓮華
を持ち、五百の化仏を化作して来る。
五百の化仏が一時に手を授け、迎えに来たと言う……」
当麻曼荼羅
阿弥陀と観音・勢至、そして菩薩、化仏が来迎
4. 中品上生…
観経
「阿弥陀仏、もろもろの比丘とともに、眷属に囲繞せられ、金色の光を放って来る
」
当麻曼荼羅
ここは、阿弥陀、比丘二体が来迎する様子と帰る様子(帰り来迎…こちらは観音勢至かな?)が同時に(異時同図法)描かれる
5. 中品中生…
観経
「阿弥陀仏、もろもろの眷属とともに金色の品を放って、七宝の蓮華を持って、行者の前に至る
」
当麻曼荼羅
阿弥陀、観音・勢至の帰り来迎
6. 中品下生 …
観経
ここは、少し様子が違う!
来迎の記述がない!
のですよ
うーん、なぜだ?
観経
観経
観経
さて本題の、鳳凰堂の扉と壁の九品来迎図 です
ここは先述のとおり、観経の内容と くいちがう絵が描かれています
上品上生
来迎部分アップ
ただしこれは、江戸時代1671年の図
↑ 往生者に向って、阿弥陀のおでこからビームが出ている
書き起こし図
観経や当麻曼荼羅では、来迎者は減っていました
しかし、鳳凰堂の場合、
(`・д・´)うーーーむ
♪なんでだろ〜う、なんでだろ〜?
つまり、こういうこと?
そんなことはありません!
私は次のように考えています
「だってほら、人数多い方が いけてるじゃん! 」↓ (頼通の声)
みなさんはどう思いますか?
お父さんが、「この世をば〜わが世ととぞ思ふ〜」の道長さんなんだから、
そりゃ、頼通は大金持ちのボンボンだよね〜
当麻曼荼羅
来迎、平常運転中⁉︎
観経には記述がらないのに、当麻曼荼羅では帰来迎が描かれてるのですよ……
7. 下品上生
…
観経
「仏が、化仏と化観音、化大勢至を遣わして、行者の前に至る」
当麻曼荼羅
阿弥陀が、化観音・化勢至と来ている(という絵の解釈でよいのかな?)
帰り来迎も描かれていますね
8. 下品中生
…
観経
「地獄の衆火が至るが、善知識が阿弥陀仏の威徳を説くのを聞いて、地獄の火が清涼の風となり、もろもろの天華を吹く
華の上に化仏、化菩薩がいて、迎える」
当麻曼荼羅
観経の「地獄の衆火」が、松の木の脇の炎
9. 下品下生
…
観経
「念ずることができなければ、無量寿仏(阿弥陀)の名を称えなさいと言われ、南無阿弥陀と称えると、金蓮華
が日輪のようにその人の前に来た」
当麻曼荼羅
誰も来迎しませんが、建物の中に、ゴロゴロと蓮華台だけが来ました(/TДT)/
以上、画像でとりあげた当麻曼荼羅は、貞享本で、奈良時代の原本ではないのですが、観経の内容を反映して来迎の聖衆の人数が減るのがよくわかりましたよね
②観経と鳳凰堂九品来迎図
さて本題の、鳳凰堂の扉と壁の九品来迎図 です
ここは先述のとおり、観経の内容と くいちがう絵が描かれています
くいちがい の内容は、九品の区別がないということです
どのレベルの往生であれ、来迎の人数が減らず、全部、豪華フルメンバーによるお迎えが表現されているのです
(ほんとにもう、viva
頼通!)
どのレベルの往生であれ、来迎の人数が減らず、全部、豪華フルメンバーによるお迎えが表現されているのです
以下、鳳凰堂の画像が入手困難なため、不完全ですが、可能な限り画像を集めてみました(統一感に欠けてしまいます
)
上品上生
観経の内容のとおり、豪華メンバー
来迎部分アップ
ただしこれは、江戸時代1671年の図
上品下生図
豪華メンバー
(創建当初の図あり ↓これはその模写)
(田口栄一『鳳凰堂扉絵における来迎表現と観経九品往生観について』)
豪華メンバー表↓
中品上生
豪華メンバーキープ
復元模写、部分(この絵のオリジナルは、鎌倉前期のもの)
↑ 往生者に向って、阿弥陀のおでこからビームが出ている
下品上生図
やっぱり豪華メンバー
復元模写左扉、部分(この絵のオリジナルは創建当初のもの)
メンバー表↓
下品中生
見にくいけど…やっぱり豪華メンバー!
(北が固く、南が柔らかい地盤らしい)
そのため、つねに建物を補強する必要があり、鳳凰堂の歴史は修理の歴史でした
南北の側壁は、創建当初土壁だったものが後に板壁になる改変をうけ、
次の記事で取り上げる仏後壁は土壁から板壁にされたり、筋交いを入れられたりと、傷だらけ歴史を経てきたのです
つまり、現在残っている壁画の制作はそもそも一斉に行われたわけではなく、
時代をまたがる制作の結果です
時代をまたがる制作の結果です
そこに、制作当初の願主藤原頼通の意図がどのくらい残り、反映されているのか、考えると甚だ心もとない気もしますが、代々の修復をした人々が頼通の構想がキチンと継続したと考えます
その上で、
来迎図の各段階の来迎者数を調べてみますと
上品中生 20、 上品下生 21、 中品上生 21、 中品中生 20、 下品上生 21、下品中生 23
上品中生 20、 上品下生 21、 中品上生 21、 中品中生 20、 下品上生 21、下品中生 23
……だいたい同じじゃない?
観経や当麻曼荼羅では、来迎者は減っていました
しかし、鳳凰堂の場合、
来迎の「格」は違っても、来迎メンバーの人数に殆ど差が認められないのです
(`・д・´)うーーーむ
♪なんでだろ〜う、なんでだろ〜?
なんでだなんだだろ〜う?♪
あっ!(*゚∀゚)っ
つまり、こういうこと?
これ、九品来迎図じゃないんじゃないの?
前回も書きましたが、これらの絵の上部には、色紙型に観経の九品往生段の文章が書き抜いてあります
だから、確かに九品来迎図なのです
だから、確かに九品来迎図なのです
色紙型の例
↓ 上品下生 「上品下生……」と観経の書き抜きがある
…他の絵も同様です
(中品下生だけは、絵自体がどこにあるかわからないので、色紙型もあるのかないのかすら不明)
③九品来迎図と観経の条文が「かみあわない」(全部フルメンバーである)理由
平等院の創始者藤原頼通は
お父さん道長の別荘を貰って平等院を建てたのですが
その際、浄土教に基づいて鳳凰堂を造った というのが大方の理解ですよね
その際、浄土教に基づいて鳳凰堂を造った というのが大方の理解ですよね
それなら何故、観経の記述に従わない来迎表現をしたのか?
この点については、「こうだ! 」という定説はないのです
私は次のように考えています
頼通の性格は、真面目人間だった父道長(病気になってしまったこともあって、大へん真面目にに造寺造仏に励んだ)に比べ、
やや「風流好み」の性格だったようです
お父さんの道長の切実な造寺造仏に比べれば、
頼通の造地造仏の態度は、信仰心よりも「見た目重視」だったのではないでしょうか
だから鳳凰堂の九品来迎図に関しても
「だんだん人数が減っていくより、見た目が豪華なほうが、いいじゃん!」
……的な美的センスで、このような表現をとったのではないか?と考えます
「だってほら、人数多い方が いけてるじゃん! 」↓ (頼通の声)
東北面(格子なし)
みなさんはどう思いますか?
次は、阿弥陀如来の仏後壁に描かれたものは何か?について、ザザッと書いてみます
(これも全然解決されてないんだよね )
(これも全然解決されてないんだよね )
参考文献
田口栄一「鳳凰堂扉絵における来迎表現と観経九品往生観について」(美術史97.98、1976)
参考図書
『平等院大観』絵画編
『平安色彩美への旅〜よみがえる鳳凰堂の美〜』平等院
『平安色彩美への旅〜よみがえる鳳凰堂の美〜』平等院
『浄土の美術 極楽往生への願いが生んだ救いの美』内田啓一 監修 東京美術
お父さんが、「この世をば〜わが世ととぞ思ふ〜」の道長さんなんだから、
そりゃ、頼通は大金持ちのボンボンだよね〜
コメント
コメント一覧 (2)
そうなると、やはり内部の扉壁画は、上品上生であろうが下品下生であろうが、豪華な方がいいでしょうね。(^^ゞ
これを作った頼道の時代は、道長を頂点とすれば、あきらかに下り坂の時代だったと思います。頼道がそれをどう受けとめていたのか・・・
やっぱり、栄華を極めての極楽往生を、鳳凰堂に求めてたんじゃないでしょうか(*^_^*)
おっしゃる通りです。
まさに末法元年に当たる1052年に平等院の本堂が、そして翌年には鳳凰堂が造られました。極楽浄土に往生することを願うのがこの時代に大流行する「浄土教」で、その根本経典が観経などの浄土三部経なんです。堂内荘厳で「極楽浄土を体現する」というのは、観経に描かれた世界を再現することです。平等院もそうですし、道長が創建した法成寺や、東北の無量光院などもみな同じです。(残っていませんが)
ただし、この浄土教を中心に考える考え方は、「浄土経中心史観」などと最近になって批判する人も出てきていて、今後は、密教による影響も同様に考えあわせる必要があるんじゃないかと思っているところです。(この批判する人に対して、また批判する人も出てきて、なんかもう論文じゃなくて悪口なんじゃないの?なんてのもあります)
なかなか難しくて、「極楽」とは程遠い気分です・・・