仁和寺といえば、まず思い浮かべるのは御室桜  ですね  

今年も春が待ち遠しいです

これは数年前の御室桜

 あの薄いピンクの花の中に迷い込むと幻惑させられ、帰り道がほんの一瞬、わからなくなるような気がします
仁和寺の御室桜の中に迷う感じは、不思議の国のアリスが迷路でトランプに追いかけられて逃げ惑うあの場面に似てると思ったりします

その仁和寺について軽くまとめてみたいと思います
なお、元号表示すると、ややこしくなって幻惑させられてしまうので  西暦で統一して表示します

   
阿弥陀三尊像

なお、この記事を書くにあたっては、
紺野敏文「仁和寺の性格と定印阿弥陀三尊像」を主に参考にしました
(他の参考資料については最後に記します)

こんな順番で書きたいと思います
1.仁和寺の成立
2.はじめは天台系だった
3.真言寺院へ
4.仁和寺阿弥陀如来像
①制作年代
②作風
5.定印の典拠
①定印の由来と説法印から定印をとるようになる思想的背景
②仁和寺阿弥陀像の典拠〜東寺の伝真言院曼荼羅
6.白鳳・奈良の伝統〜三尊形式と天部と建築と
(わりと真面目に取り組んでしまいましたので、長くなってしまいました…)

ではまず、仁和寺の成立から始めます
         
 1.仁和寺の成立
 仁和寺は西暦 886年、光孝天皇(830~887)が発願しましたが、光孝天皇は発願の翌年887年に崩御されてしまいました
そこで、光孝天皇がお亡くなりになった翌年の888年(覚えやすい!)、光孝天皇の追善のため多天皇が光孝天皇の山稜(小松山陵、後田邑陵)を荘厳し、仁和寺が創建されました(ただし、この時のお寺の名前は、西山御願寺と呼ばれていました(『日本紀略』)  )  

886年  光孝天皇発願
887年  光孝天皇崩御
888年8月17日 宇多天皇により仁和寺(西山御願寺)落慶、光孝天皇一周忌供養(導師は真言僧 真然)

なお仁和寺の発願者については、光孝天皇とする説、宇多天皇とする説の両説があるようです(どちらが適切かの判断はしかねます)

888年落慶当初の仁和寺の伽藍は礼堂をともなう五間四面(五間×五間)の金堂、食堂、僧房などでしたが、のちに宇多天皇の本願により円堂院、南御室(観音院)などの院家造営に力がそそがれました

では次に仁和寺の宗派についてです
   
2.はじめは天台系だった
 現在の仁和寺は真言宗のお寺です
しかし創建当初は天台寺院として出発したと考えられていました

その理由は 仁和寺の初代別当幽仙という天台僧だったからです
この幽仙は藤原北家の出身で光孝天皇や藤原基経の「いとこ」であり、宇多天皇の「乳母の子」だったとも伝えられています
このような背景から、光孝天皇の追善供養のため宇多天皇が建てた仁和寺の別当には幽仙が選ばれたと考えられます

幽仙が仁和寺別当になった年月日は不明ですが、890年11月23日の太政官符「応置仁和寺年分度者二人事(「年分度者」二名を仁和寺に置く)」(『類聚三大格』巻二)には、 幽仙の奏状が引かれ、そこに「別当幽仙」と書かれているため、この時点までには仁和寺別当になっていたと考えられています

なおこの太政官符に「仁和寺」という言葉があるために、上記の「西山御願寺」はこの時点までには「仁和寺」と いう名称で呼ばれるようになっていたこともわかります(この太政官符は大事なんですね~)

ここまでをまとめると
(太政官符の)890年11月23日までに
     ・「仁和寺」という名前になった
     ・ 天台僧幽仙が初代別当になった
ということがわかりました

しかしここで一つ疑問がわきます

仁和寺の開創は888年、その時の導師は東寺一長者真然なのです(東寺なので真言系です)
一方、この時の天台座主は円珍です 
もし初めに天台系が企図されていたならば、なぜ円珍を導師としなかったのでしょう?

上述のように、888年創建から幽仙の名が太政官符に出る890年までは最長で2年間のブランクがあります
これを考えると、はたして888年時に天台が企図されていたのかどうか疑問ですよね(ちなみに888年時点では幽仙はまだ延暦寺の所属でした)       
   
ここから言えるのは、888年の時点で天台寺院として企図されていたかどうかは不明ながら、890年までに幽仙が仁和寺別当となってからは天台系寺院としての位置づけを図るために延暦寺との密接なかかわりを持つことを目指した、ということです
    
 他方、開山である宇多天皇は897年7月には譲位して落飾(出家)し、仁和寺第一世となっています(このあと仁和寺は第二世性信親王(三条天皇第四皇子)、第三世覚行法親王(白河天皇第三皇子)…と歴代法親王が継承することになりました(除く第十世))   

その後、幽仙はどうしたか?というと、899年12月14日に今度は延暦寺の別当になり、900年2月27日には西坂本月輪寺で頓死(!)したそうです
これに関しては、延暦寺側の殺害説(°_°)もあるようですが…よくわかりません 

いずれにしても、この幽仙の死を転機として、仁和寺は天台から真言へ転換する ことになるのです    
    

  3 真言寺院へ
幽仙の死後、900年11月29日には真言僧観賢が仁和寺の別当になりました(幽仙の延暦寺別当赴任から観賢の仁和寺別当赴任の間にもブランクがありますが、これに関しては幽仙が亡くなるまでの間は仁和寺と延暦寺の別当を兼務していたという意見もあるようです)

889年12月14日   幽仙延暦寺別当になる
900年  2月27日   幽仙、月輪寺で頓死
(ここまで、仁和寺別当と延暦寺別当 を兼務か?)
900年11月29日   観賢、仁和寺別当になる


これと前後して、899年10月14日には宇多天皇は真言僧益信を戒師として落飾(出家)、901年12月13日には灌頂院で伝法灌頂を受け、902年2月又は3月23日には両部秘契の印信をうけ、有力な真言僧となりました

なお、宇多天皇の戒師をつとめた益信はもともとは奈良元興寺の明詮僧都から法相を学んだようですが、その後入唐八家の一人である宗叡密教を学び、また真言僧源仁から伝法灌頂をうけました(益信はのちに、東寺長者、東大寺別当になります…また、宗叡は東寺で伝真言院曼荼羅を造ります)

仁和寺第一世宇多法皇は益信から法流を受け継ぎ、この流れはのちに広沢流になります(源仁から伝法を継承した聖宝小野流となり、この二つの流派が真言宗の根本流派となります(野沢=やたくと称されました)

こんな感じ…
   宗叡―聖宝(小野流)
          ┗益信(広沢流)

…続きの系図を書こうとしましたが、パソコンで自力で書くのは無理なのでコトバンクにあった系図の一部を拡大して貼ってみます
(よく見えなかったなかったらごめんなさい) https://kotobank.jp/word/真言宗-81788   
   

このように、仁和寺には、天台→真言という変遷があったわけですが、このお寺はそもそも天皇の御願寺であるため、創建期には宇多天皇の意向が反映されたと考えられます
また、当時の宗教界の兼学の傾向も反映されていたと考えられます

ここで宇多天皇ご自身についてまとめてみると、東密(真言)、台密(天台)、そして南都(顕教)にまんべんなく顔をつっこんで接していらっしゃるようです (これが当時の兼学の状況を物語っています)
  
上に書いたことと一部ダブりますが、
宇多天皇についてまとめてみると
東密では、899年10月益信による落飾(出家)、901年伝法灌頂、902年両部秘契の印信、 そして
台密では、904年増命からの菩薩戒、叡山千光院に御堂造作、灌頂、 さらに
南都では、899年11月に東大寺で受戒といった感じです    
    ↓
宇多天皇
899年10月  出家(東密)
          11月  東大寺で授戒(南都)
901年         伝法灌頂(東密)
902年         両部秘契(東密)
904年         菩薩戒(台密)

…これはまあ、重ねて言いますが宇多天皇が「浮気性」とか「気が多い」ということではなく、当時の兼学の傾向の一例ということだと思います…

ここまで、仁和寺の創建と宗教的な背景について、ざっくりまとめてみましたが、
ここからはあの仁和寺阿弥陀三尊像が仏像史の中でどのような位置を占めるのかということについてざっくりと考えてみたいと思います 
   

   
4 仁和寺阿弥陀如来像
         
(今回の東京国立博物館の「仁和寺展」で、この 阿弥陀如来像のかわいらしさ に 心をうたれました) 

このかわいらしい阿弥陀如来像の制作年代、作風などについて整理したいと思います

①制作年代
仁和寺阿弥陀三尊像は元々、三尊で一具と考えられ、その造立年代については、藤原末期説、仁和4年(888年)本尊説、9世紀末説、9世紀末~10世紀説、10世紀前半説、10世紀半ば説・・・と、学者さんたち「言いたい放題」な状況だったようですが、最近では
888年仁和寺の創建当初光孝天皇周忌御齋会の際に金堂に造られた像ということで一致しているようです

上のほうに書いた890年の幽仙の奏状で「年分度者二人」とあるのは、毗盧遮那業と魔訶止観業が各一人ずつですが、この二人が昼は護国経典の金光明経・法華経の転読、夜は光孝天皇の追善のため「阿弥陀真言の念誦」を行いました

この「阿弥陀真言の念誦」が、阿弥陀像の前で行われたと考えられます

また、仁和寺は 1119年と1468年(応仁の乱)の2回火災にあいますが、阿弥陀三尊像はどちらの火災でも無事でした (´▽`)
(特に応仁の乱のときは、堂舎僧房灰燼となったのに、「本尊弥陀三尊はけぶりの中に有りて其炎をまぬがれ給ふ」とあります(『仁和寺再興縁起』)…煙の中で泣いてなかったか 心配です ) 

②作風        
阿弥陀如来像の表現は大変優美です(以前、長門勇に似てるとか言った気がするけど撤回します!)
この優美さは東密系の彫刻の作風を基調にしたといわれています(密教像ってふわふわだったり(?)、色っぽかったりしますよね)
(この阿弥陀は丸ぽちゃかな?)

阿弥陀像の、螺髪・偏袒右肩の像容は後述する現図系曼荼羅に一致することから、東密の様式を表すと考えられます

なおこの像の作者については、真言・天台系、さらに南都系に広く携わった仏師・工人集団、あるいは会理の関与があるなどと言われていましたが、
東京国立博物館「仁和寺展」の 図録解説書によれば、東大寺官営工房の制作と考えられるようです
この頃の仏像は、東寺講堂諸像や観心寺如意輪観音像神護寺五大虚空蔵菩薩像などの真言密教系の像が多いのですが、木屎漆併用の木心乾漆像という制作方法を勘案するとこれらの像は平安時代の東大寺工房の制作と考えられるということです(東大寺官営工房は9世紀末ごろまで確認できるそうです) 


左・神護寺五大虚空蔵菩薩(蓮華虚空蔵)、
右・東寺講堂五智如来像(金剛法)
観心寺マダム如意輪観音像 
(マダムの中でも一番美人だと思うわ…)     
 
      
5 定印の典拠              
  ではここからは、この阿弥陀如来像の最大の問題点である定印の印相の典拠について考えます
この阿弥陀如来像は「浄土教尊でありながら密教の印相である定印(妙観察智印)がとられる初例」として知られています
この印相の変容については、阿弥陀如来が密教尊から浄土教尊に変容した比叡山三塔の常行堂からの流れであると解釈する説がありますが、どうでしょうか?
比叡山三塔の内容も含めて考えてみたいと思います

   …ちなみに「定印」とは 写真のような印相をいいます(親指をくっつけて、人差し指の背中を立ててあわせる)
         

まずは、
①説法印から定印をとるようになる思想的背景と定印の由来について考えます


古く奈良時代の古密教では阿弥陀如来は説法印をとります (法隆寺伝法堂東西の間、奈良興福院、広隆寺講堂の阿弥陀如来像がその例)

法隆寺伝法堂東の間
阿弥陀三尊像
左・奈良興福院阿弥陀像
右・広隆寺講堂阿弥陀如来像

この説法印は『陀羅尼集経』という古い経典に基づいています 

奈良時代の阿弥陀如来像で採用されていた説法印に変わり、平安中期の仁和寺阿弥陀如来像を転機に定印阿弥陀像が広まります

これは9世紀後半から例がみられる「往生人の臨終行儀」で定印 がとられることとリンクしているです 
臨終行儀とは、生身の人間が臨終に臨んで西を向き定印を結んだまま往生することですが、この定印は禅定印(左右の手のひらを重ねる)や縛定印(左右の指を交差させる)などがあり、いわゆる妙観察智印だけに定着する段階には至っていません

この定印往生を行った人は円仁を初例とし、円珍や清和天皇などの記録が残っています
定印往生は限定された階層の人たちですが、各々の宗教的なバックグラウンドは天台(密教、浄土教)系五会念仏、密教系、古密教系、南都浄土系と様々であったため、定印の結び方にもバラつきがあったと考えられます


では、そもそもこの「定印」という印相はどこから来たのでしょうか?

定印はインドを発祥とし、唐を経て空海ら入唐僧が請来した現図曼荼羅などの曼荼羅を媒介にして日本にもたらされました 

ところで、現図曼荼羅って何でしょうか?…ということで、ここで少しだけ寄り道して、現図曼荼羅について整理してみます 

日本の曼荼羅は、空海が胎蔵(界)曼荼羅と金剛界曼荼羅をセットにして、唐の恵果から請来しました(仏教学専攻の方は、胎蔵に界の字がつくのはおかしいとおっしゃられるのですが、美術史では胎蔵にも界をつけ胎蔵界・金剛界と呼ぶのが普通のようなので、私もそうします)
この金胎(金剛界と胎蔵界)がセットになった曼荼羅を「両界(両部)曼荼羅」と呼びます
日本で当たり前のようにセットとして考えられるこの胎蔵界・金剛界の各曼荼羅は元々は別の由来を持つものでした

ブログ紙面の制約上、うまく図にできませんが、下図を参考にしてください

(金剛法)
金剛智(インド)⇒不空 ( インド)⇒恵果へ※
金剛頂経
胎蔵旧図様
金剛界八十一尊

(胎蔵法)
善無畏 ➡︎一行(唐)➡︎恵果へ※
大日経
胎蔵図様
五部心観     
                                              
恵果 (唐)        ⇒空海 
   両部曼荼羅成立        現図曼荼羅

(※で繋げて、家系図のように見てください)

唐の恵果は、それまで関係のなかった、金剛智・不空系の金剛界法と善無畏系の胎蔵界法を併せ、一対の曼荼羅として両部曼荼羅を成立させました

空海は恵果に真言密教の教義を受け、両部曼荼羅を携えて帰国しました
この両部曼荼羅を現図曼荼羅と呼びます

空海請来の現図曼荼羅の原本は現存せず、神護寺に転写された高雄曼荼羅 が最古本として存在します
また東寺に伝存する「甲本」などが同様の図様を伝えています                                                                                    

他方、この現図とは別ですが東寺にある伝真言院曼荼羅(西院本曼荼羅)や、奈良県子島寺にある島曼荼羅も(若干の違いはあるものの)現図系の曼荼羅です

現図曼荼羅については以上
話を戻します

②仁和寺阿弥陀像の典拠〜東寺の伝真言院曼荼羅
仁和寺の阿弥陀像は前述のように、螺髪で偏袒右肩の像容であり、現図曼荼羅の阿弥陀像と一致するために、現図を元にしたと考えられます     

この現図曼荼羅の他にも定印の根拠と考えられるものに次の二つがあります
・恵運請来唐本曼荼羅(仁和寺五仏図像)
これは、848年の安祥寺(上寺)五智如来像の根拠となったと考えられますが、安祥寺像はこれまでの密教寺院と同じように大日如来を中心とする五智如来像です
・円仁請来、金剛界八十一尊曼荼羅(根津美術館蔵)の阿弥陀如来は、冠を被り通肩を特徴としますが、これは比叡山の常行堂の阿弥陀如来像で初めて採用されました

比叡山について少し補足すると、
848年の比叡山東塔常行堂では阿弥陀(着冠、通肩)を中心にした五尊(金剛界四親近=法利因語)構成から始まりますが、西塔常行堂でも東塔と同様な構成をとります
これは密教的構成です

ところが、968年の良源の横川常行堂に至り、ついに阿弥陀は浄土教尊(観音、勢至、地蔵、龍樹)に囲まれる構成に転換しました
この阿弥陀が円仁請来の金剛界八十一尊の阿弥陀の像容を採用した初例です





このように、各種曼荼羅の請来により取り入りれられた定印ですが、仁和寺では
現図系の定印が採用されました

では、仁和寺で現図曼荼羅を採用した背景はなんでしょうか?

仁和寺阿弥陀像は現図系曼荼羅を採用しましたが、さらに、この現図両界曼荼羅は宮中真言院における後七日御修法の本尊として使われる伝真言院曼荼羅(西院本曼荼羅)と(少し違うものの)像容を同じくします

結論を先に言うと、仁和寺阿弥陀如来像はこの伝真言院曼荼羅の図像をもとにして作られたと考えられるのです

宮中真言院における後七日御修法には、東寺一長者が勤仕しました
この東寺一長者を勤めたのは、宗叡真然益信です
宗叡伝真言院曼荼羅(西院本曼荼羅)を制作させた人物です
真然は(はじめの方で出てきたのですが)、888年の仁和寺の供養導師を勤めています
益信は(これもはじめの方で出てきましたが)、宇多天皇の戒師を勤めています
このようなことから、宇多天皇と真言は深い関わりがあり、宇多天皇時に落慶された仁和寺の本尊である阿弥陀如来像は、東密の現図系なかんずく伝真言院曼荼羅の図像を典拠とすることになったと考えられるのです


6 白鳳・奈良の伝統〜三尊形式と天部と建築と 
仁和寺阿弥陀三尊と当時の金堂については、白鳳・奈良時代からの伝統がいかされていました
①三尊の形式と脇侍の並び方
仁和寺阿弥陀三尊像は、阿弥陀が坐像で脇侍が立像です
この形式は、白鳳期の三尊に見られるものです(法隆寺橘夫人念持仏、金堂壁画阿弥陀三尊像、押出仏)

橘夫人念持仏
金堂壁画 
阿弥陀三尊像


これに対して、奈良時代に入ると阿弥陀三尊は三体とも座ってしまいます(広隆寺講堂阿弥陀如来と脇侍)

このことから、仁和寺の阿弥陀三尊像は白鳳の三尊形式を採用したと考えられます

また、脇侍の並び方については、普通と逆であると言われています(時々入れ替わってきたようですが)
この配置は、数本の密教教軌によるものであると言われていますが、この話はまた長くなりそうなので、別の機会に考えたいと思います

②天部について
今は阿弥陀と脇侍の三体ですが、元々は
これに加えて、梵天・帝釈天・四天王
が賑やかにいたようです(『古徳記』)
これはもう、奈良時代の伝統形式ですね(三月堂とかね)

③奈良の伝統形式をとることについては、建築にも同様な点が指摘できるようです
仁和寺金堂は、元々、土間床の内陣(五間四面)と、外陣(礼堂、五間三面)から成る堂でした
礼堂が金堂などの前につくのは平安時代以降の密教建築の特徴だそうですが、土間床の内陣に、礼堂正面一間通りを吹き放しの柱廊とするのは奈良時代以後の形式だそうです(唐招提寺とか)

これらのことから、仁和寺金堂は平安以降の密教建築の特徴と奈良時代以来の形式を併せ持つ建築といえるそうです

従来、阿弥陀如来が密教尊から浄土教尊に変容する根拠については、前述のように、比叡山の東塔→西塔→横川の常行堂に安置される阿弥陀と脇侍四尊の構成が、東塔西塔では阿弥陀+四親近という密教的配置だったのに対し、横川では阿弥陀+四菩薩(観音勢至地蔵龍樹)に変容することを以って、密教的形式から浄土教的配置に変わったと考え、仁和寺阿弥陀三尊もこの流れの延長線上で浄土教的な五尊形式から三尊形式になったとされていました
しかし、この金堂の建築をみると常行堂の変遷との関連だけで考えるのは不十分であるようです

また、比叡山横川では円仁の請来した法照流五会念仏が行われていましたが、仁和寺においても横川の影響を受けて、この法照流の念仏による阿弥陀法が行われたという説がありました

しかし、建築の様式からみて、仁和寺は比叡山の影響だけでは考えられないとすれば、仁和寺阿弥陀像の前で行われたのは天台浄土教の法照念仏ではなく、真言密教の阿弥陀真言誦であった可能性が考えられ、このことと東寺の現図系の伝真言院曼荼羅を典拠として阿弥陀像が作成されたことの間には矛盾がないものと思われます


また、仁和寺が天台系としてスタートしたということについては、疑問が残ると思います
仁和寺阿弥陀像が仁和寺の落慶供養当初に作られた像であり、仁和寺自体は初めは天台系寺院としてスタートしたとすれば、阿弥陀像の典拠を東寺の伝真言院曼荼羅とすることと、天台系寺院としてスタートしたということとの間には矛盾があるように見えるからです

むしろ、真言寺院としてスタートしたものの初代別当に天台僧の幽仙がなったというのは、幽仙と光孝天皇や宇多天皇との関係の深さを背景としたからではないでしょうか
光孝天皇が急にお亡くなりになったために関係の近い幽仙が初代別当に選ばれたと考えるのはどうでしょうか
とすれば、888年の落慶の際の導師真然が真言系の東寺一長者であったことも頷けるという気がします
(最後を「気がする」でくくるという…(^。^))


ここまで長々と読んで頂いた方に感謝します
これは、ブログ記事です

参考資料はあげておきますが、ブログ記事の内容については責任を負いませんので、レポート等の参考になさいませんよう…(間違ってても知らないよ)


参考資料
紺野敏文「仁和寺の性格と定印阿弥陀三尊像」『日本彫刻史の視座』中央公論出版、2004
石田尚豊「恵果・空海系以前の胎蔵曼荼羅」『東京国立博物館紀要』1、1966
頼富本宏『マンダラの仏たち』東京美術、2004)
濱田隆「真言密教と両界曼荼羅」『日本古寺美術全集12、教王護国寺と広隆寺』
『東寺の曼荼羅図』、東寺宝物館、2012