はなこの仏像大好きブログ

奈良、鎌倉、京都、古美術、そして、日常の生活などを取り上げて書いて行きたいと思っています。 よろしくお願いします。 主婦、母ですが、通信制大学院の学生でもある、アラフィフおばさんです。

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唐招提寺


唐招提寺に行くと、入り口から真正面には金堂が見えますね

蓮の花の季節、朝一番に見る金堂、
秋の短い日の、暮れようとする時間の金堂、
…金堂の落ち着いた佇まいは、いつ見ても心を癒してくれるように思います

↑これは、昨年の初夏、朝イチで蓮の花を見に行ったときの金堂


その金堂には、毘盧舎那仏や千手観音など、「有名な仏像」がおられますね



でも今回は、金堂ではなく、鑑真の来日の頃に忽然と現れた唐招提寺の木彫群のお話です
これらは現在、新法蔵で観ることができます
ちょっとコワいお顔ですけどね…

この木彫群が現れたのは鑑真の来日のころ、8世紀後半です


時代は天平彫刻の優れた作品が次々と輩出された時期
しかしこのころの仏像は、(木彫像ではなく)乾漆像、塑像などの捻塑像が全盛期でした   


木彫というのは、木材をcarve,cutしていくもので(鎌倉彫も同じ)、一旦切り落としてしまった箇所は復元できません(それが時々悲劇を呼ぶ)引き算のような造り方です

それに対し、乾漆像や塑像などの「捻塑像」はmold、つまり粘土や木糞漆を盛り上げていく、いわば足し算の造型です


捻塑像の天平期の作例は、乾漆像のうち脱活乾漆像では東大寺三月堂不空羂索観音像、興福寺阿修羅像、唐招提寺鑑真像など、木心乾漆像では聖林寺のあの十一面観音像などがあります

一方、塑像で有名なのは、東大寺三月堂執金剛神像、伝日光・月光菩薩像、戒壇堂四天王像…などです

このように天平時代は捻塑像の全盛期なのです




ところが 
この唐招提寺で、木彫像は突然復活するのです(上の写真の面々など)


 では木彫像が復活したのは何故か?その契機は何か?
……について考えてみます

まず、考えられるのは 

①719年  「檀像一具、唐より請坐」という記事が『法隆寺資材帳』にあることです
 
つまり、法隆寺に唐から 檀像一具を 請来したという記録で、この檀像一具   というのは法隆寺九面観音を指すと考えられています

これが契機となり、木彫像が復活したと考えられるか?

しかし、この719年という年と相前後するように、
711年には法隆寺五重塔塔本塑像が造られ、734年には興福寺西金堂に乾漆像(阿修羅など八部衆、十大弟子)、740年には東大寺執金剛神、日光月光などの塑像が造られています

こんなに捻塑像が造られているタイミングで、唐から九面観音が来たことが木彫復活の契機となると考えるのはちょっと難しいと思われますね


次に考えられる契機は
②754年 鑑真渡来です

『唐大和上東征伝』(779、淡海三船撰)によれば、鑑真が将来したもののリストの中に白栴檀千手像」とあり、唐から白檀の木彫像がもたらされたことがわかります

①よりちょっと後の、八世紀半ばのこのころは捻塑像は成熟期を迎えており、これに代わる新たな表現方法が模索されていたと考えられています
そこに鑑真が唐から木彫像をもちこんだ!

次なる流行は木彫だ!ビンゴ!

という感じだったんでしょうね


木彫の成立については、このほかにも、山林仏教を担っていた私度僧が造像したという説、都と地方を結ぶ 聖僧の介在説などもあり、結局、どれがいいのかは、私にはなんとも言いようがありません

また、唐招提寺と同様に木彫像が出現した異国風な奈良の寺院には大安寺があります
唐招提寺は鑑真とそれに従う僧たち、大安寺は(東大寺大仏開眼 の導師として有名な)インド僧菩提遷那らにより国際性あふれる寺院となりました


 ではこの唐招提寺木彫群の作風や技法の特徴は?

鑑真が唐から将来した像の影響を受けて、唐で流行していた精緻な鏤刻風(細かな刻出)を作風の特徴としています
唐の檀像彫刻に似た表現をしていることは、法隆寺九面観音や山口神福寺十一面観音などの唐から将来された 像の例と比較してもわかります

もう一つの特徴は、量感の強調(デブ)です
これも唐代彫塑と同様の傾向です(ダイエットしなさい)



 次にこの木彫の用材がカヤ材であることの根拠について

唐招提寺木彫群は、すべてカヤ材で作られています

これはなぜか?

まず考えられるのは
①『十一面神呪心経義疏』(八世紀初め)(『大正蔵』39、1010a,b)
を根拠としたと考える説

この経典はインド発『十一面神呪心経』を中国で慧昭が訳したもので、翻訳段階で中国で流行していた陰陽五行説の影響を受けているそうです

経典中には
「問、此行法中、何故白色為法如日月設礼白檀作像、白牙上出、白味為供、面向西方耶。」という部分があり、
つまり観音を白檀で作れ!とかいてあるのです

しかーし、ここで問題が!
何しろ中国には白檀の木なんてない のです(白檀は、もっと暑い東南アジアのほうにしか生えていない木のようです)

経典にはこのような問答もあります
「問 若無白檀之国者為何木作像也。」(じゃあ、白檀がない国は、なんの木で作ったらいいの?はなこ訳)
「答 若依方法者。必求白檀而作像也。若以義門而推者。若求而不得者亦以柏 木作像也。」(もし方法があれば必ず白檀を以て作像すべきです。でももし「義門」でいくなら柏木で作像するのがいい、云々)

この「義門」というのは陰陽五行説のことで、陰陽五行説では観音のいる西 方向を白色とすることから、「白」の付く「白檀」「柏木」を使うとよい、といわば語呂合わせ的に説かれているのではないか という疑問があるようです

語呂合わせ じゃマズイ・・・しかもこの『経典』が日本にとってそんなに大きな意味があるのか?

日本でカヤ材が白檀の代用材に選ばれたことは、この義疏による影響すなわち唐からの影響と考えるべきなのか?それとも別の解釈があるのではないのか?

・・・ということで、別の解釈があるようです

それは
②檀像の日本化 (檀像そのものではないけど)

日本でも檀像の用材となる白檀などの木は育ちません
つまり代用するしかないのです

その時、①のような経典によって代用材を探すのではなく、日本で手に入る材料の中から鏤刻に向いているものを選び出した結果、カヤ材が選択されたと考えるのが良いようです

これより前の時代、正倉院でも同じように国産の代用材が使われていた例もあります
たとえば、琵琶や碁盤の材料紫檀を、国産品では黒柿蘇芳染で代用する例、如意に使われる玳瑁(べっこう)の代用材として仮玳瑁として木地に金箔、茶色樹脂を使う 例など(日本人は器用なんだね)


ここまでをまとめると
唐招提寺木彫群は、成立が8世紀後半から9世紀と考えられ、檀像様で、徹底した一木造、カヤ材を用いた鏤刻風の精緻な彫技であるということです
そして、その 制作にあたっては、渡来した工人の指導、参加などの関与が推定されています
そして、結局、詳細は不明なのであります







ここからは、ひとつずつ、どんなお像が見ていきたいと思います

伝衆宝菩薩立像

お顔部分のアップ
   
像高173.2㎝
カヤ材、台座、心棒まで通して一木造
内ぐりなし
鹿皮をまとい、よく見るとおでこにタテに目が入る三目の顔です
不空羂索観音像と考えられます
藤原清河が生前に施入した「羂索堂」の像にあたると見られています

『唐招提寺縁起 』には羂索堂に藤原清河が不空羂索観音像と八部衆を施入したという記述があり、この像がそれにあたるそうです

藤原清河という人は、752年唐に渡り、そのまま帰れずに773年に唐で没したと推定されています
この像は奥方が施入したと伝えられています



この像は、

↓山口県 神福寺十一面観音立像や   
   

   


↓香川県 正花寺菩薩立像

これらの像との類似性が指摘されています(似てるかな?)





伝獅子吼菩薩立像

角度を変えて……
   
像高165.0㎝
「獅子吼」という名前は近世につけられたそうです
二十五菩薩の中にいる名前ですね  

こちらもカヤの一木造で、台座・葺軸まで通しています
三目で、もともとは四臂(手が四本)、鹿革 を腹前で むすんで、腰に素敵な石帯(バックル)をしめています( おしゃれ)

↓ 腹前に結んだ鹿皮と石帯


こちらも伝衆宝王菩薩と同様に、不空羂索観音像であると考えらえています
やはり、羂索堂に あったか?とも考えられているのです
→→このことは、伝衆宝のところで言及した『招提寺建立縁起』(835)の中には
 「羂索堂一宇。安置不空羂索観音菩薩像躯金色。・・・・」とあり、
「一(いち)」のところが、醍醐寺本では抜けていて、護国寺本では「 一(いち)」となっているそうなのです(確認してませんが)
だから、必ずしも「一体」で確定ではなく「二体」だった可能性もあって、それなら、伝衆宝、伝獅子吼の二体が羂索堂の不空羂索観音であったと解釈できるわけです
(原典を確認していないし、詳しすぎてどうでもいいかもしれません)




   
伝薬師如来立像
       

お顔部分アップ

像高165㎝
カヤ、台座の蓮肉、心棒まで一木造
内ぐりなく、木心こめない
頭のブツブツ は別材の螺髪のあと
おデブ、締まりがない

なんだか気の毒な像ですが、日本工人の作かと考えられているそうです




十一面観音立像

お顔部分アップ
像高166.2㎝
乾漆併用
8世紀後半
伝衆宝王菩薩像を模したか?と言われているそうです(どうでしょうね)
和様化が進みつつある作風


伝大自在 王菩薩立像

169.4㎝
カヤ材、台座心棒まで一木造
柔らかい表現で、こちらは天平様式をそのまま継承したような、保守的な感じ
(ここまで、こわい顔ばかりだったから、これはホッとしますね )




如来像(トルソー)

実は、唐招提寺で鑑真像や金堂像に次いで有名なのが、このトルソーではないでしょうか?
入江泰吉さんの写真集に、このトルソーが登場しましたよね
お顔を欠くその姿が、若い頃は理解できず、でも「トルソーだトルソーだ!」と騒いでいた気がする……
「見よ!この切れ味の良い彫り!張った腿!美しい胸部!流れる衣文線!なんと美しい平安初期!」などと真面目に考えてましたが、
これ、中世の作品らしいですよ……

皆さん、騙されないように気をつけましょう(私だけか……? )



このほかにも、唐招提寺の木彫は、
講堂に肥満体でずんぐりむっくりの伝増長天、伝持国天がおられますね
どちらも130㎝くらいのお像で、針葉樹の一木造、内刳り無しです
ずんぐりむっくりですが、とてもおしゃれな服装ですので、よく見て差し上げてくださいね

講堂 伝増長天像


同、伝持国天像

この二体、もう少し背が高かったらよかったのにね……






唐招提寺の木彫群を見て思うのは、

鼻って欠けやすいんだね

ってことですかね?



唐招提寺木彫群について、以上です






さて、唐招提寺では、瓊花をみるのを忘れてしまいました


新宝蔵が開いていたので、中の仏像たちを見ているうちに、閉館時間がせまり、
慌てて出てしまったのです


唐招提寺木彫群と呼ばれるメンメン↓

左上、唐招提寺のトルソー
右上、十一面観音
左下、伝衆宝王菩薩立像
真ん中下、薬師如来立像
右下、伝獅子吼菩薩立像
(この木彫群、色々難しいので、じっとり見てました……機会があれば、唐招提寺木彫群について、あちらのブログで書く…かなあ……←消極的 )


それで、お寺を出てから瓊花を見忘れたことに気づき、
ふと近鉄の線路沿いを見たら、似てる花が!

それがこれ↓なんだけど、瓊花とは違うわね……

瓊花を忘れてしまったのは、痛恨の一撃だけど、
その代わり、ツツジは綺麗だったので、これでチャラということにしましょうかね…(*_*)







で、唐招提寺から出る前に、売店がまだ閉まっていなかったので、
新宝蔵にあった、この冊子↓と




招提みそを買いました

由来が書いてあります(拡大すると読めるよ)


包んでいたのは、伽藍図

この伽藍図、いつの時代に描かれたのか知りませんが

↓拡大してみると、中心線は今も同じ


現在の伽藍、上と同じ場所↓
にしむろは現存しないのがわかりますね〜



伽藍の右奥の方は、
やっぱり開山廟があって、
今もおんなじ~~≧(´▽`)≦
(重ねて言えば、そもそもこの地図がいつの時代だかわからないけどね)

↓現在の伽藍では、御影堂とか新宝蔵があるわ!(少なくとも新宝蔵は、鉄筋コンクリートだわね)
こうやって比べてみると面白いですね(*^o^*)





……Σ( ̄。 ̄ノ)ノあれ!?



みその話が、横道にそれたわ~~



そうそう、肝心のみそは、

蓋をあけると



じゃーん



みその、いい香りがしています

私はこれを、まず舐めました

そして、ご飯にのせました(写真無し)

小さな野菜片が入っていて
かみごたえがあり

奈良漬けのようでもあり……

うまく言えませんが、まいうーな味噌でした


ご飯にのせても、
きゅうりなどの野菜につけても良さそう

これを舐めながら、お酒飲んでも良さそうよ







唐招提寺にも技術革新の波が!
こんなんありましたけど、
充電が切れそうで、とてもじゃないけど、そんな余裕なし!





おまけ(おまけというには、畏れ多い)


西ノ京に行くと必ず脇を通る

垂仁天皇陵





垂仁天皇陵、箸墓古墳、崇神天皇陵、応神天皇陵、ウワナベコナベ古墳……みんな美しくて、とても好きな古墳です



…あ、また、味噌から話がそれちゃった!

招提みそは、唐招提寺の売店で売ってましたよ




そういえば、今日は母の日ですね

昔、コマーシャルで「おかーさーん」って女の子が叫ぶ、「おかあさんみそ」 ってのがあったけど、あの子のおかあさんは蒸発でもしたのかしら?


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