はなこの仏像大好きブログ

奈良、鎌倉、京都、古美術、そして、日常の生活などを取り上げて書いて行きたいと思っています。 よろしくお願いします。 主婦、母ですが、通信制大学院の学生でもある、アラフィフおばさんです。

奈良や古美術が好きな主婦のブログです。

アメブロ『奈良大好き主婦日記』
http://s.ameblo.jp/naranouchi/

と並行して書いています。

よろしくお願いします。

比叡山


テレビで厚切りなんとか言う人が言ってたんだけど……
「七転び八起き」って、よく考えたら、
「七転び」したら「七起き」で足りるって!

ホントだ!目からウロコ!
どうして、今まで気づかなかったんだろう?






比叡山の東塔西塔、そして青龍寺に行ったところまで書きましたが

ようやく横川です

もう、この、横川って響きが好きで、ここまで絶対辿り着きたかったんです

西塔から四キロ北にあるそうです


青龍寺で時間を消費していたので、
急ぎたい!急いでみなさん!


……と思ってたのに、みんな、横川入り口で お祭り に引っかかっちゃった……(^◇^;)
みんな、クジ引きに並び始めちゃった……

関西に住むみなさんは、いつでも来られるけど、鎌倉から初めて比叡山に来ている私は三塔全部1日で全部見たい!先に進みたい!クジ引きはどーでもよい!


と、ここで、おじさんズもせっかちのようで、また私と3人で、若い衆をおいて先行します
ちなみに、クジ引きでは、苗木を当てた人が2名もいました!
(一人の男の子は、下宿なので、かえって困っていました)




冬期はお寺は4時閉門が多いですよね


この時すでに、3時20分くらいだったと思うんです

気分は焦る!



横川について

横川を開いたのは円仁で、後に良源により整備されました

円仁は、15歳で最澄に弟子入り、二十年余の籠山ののち、関東に巡行し、再び叡山に戻りました

そのころ、円仁は体が衰弱し、死を予感したため、横川に隠棲して草庵を建てました

その後、お薬が劇的に効いて 、円仁は回復しました!

これを機に法華経写経を始め、一宇を建立しました これが、横川首楞厳院(しゅりょうごんいん)です

その後、円仁は、入唐します(どんだけ、回復したんだか!)






横川中堂~荒波に浮かぶ遣唐使船の形
 


このお堂は円仁帰朝後、848年に開創されました

円仁が入唐の際に遭難しそうになった船中で観音を祈ったところ、毘沙門天が現れ嵐がおさまったので、帰朝後自作の聖観音を本尊にすえ、脇に毘沙門天を置いたそうです(円仁は、病気にも、嵐にも打ち勝つ、強運の持ち主なんですね)

後に良源が不動明王を加えたそうです



その後、建物は、信長の焼き討ちで焼失(信長ったらもう・・)
慶長年間に再建、昭和17年の雷で焼失、昭和46年に伝教大師1150年大遠忌を記念して復元されたそうです



建物は、創建当時の様式を踏襲し、屋根の形は遣唐使船の形になぞらえ、荒波に浮かぶ船形で、舞台造りです


円仁作といわれる本尊聖観音は、写真撮影できませんでしたが、腰を左に曲げて立つ、優美な観音様でした

この聖観音は戦火をまぬがれ、四季講堂に仮奉安されていましたが、昭和46年に横川中堂に戻されたそうです




お堂内部には、ミニ西国観音霊場もあり、篤く信仰されてきたお寺だけあって、雰囲気が濃い






さて次、

恵心院(華台院)~拝観可能になっていました!(o^∇^o)ノ(うれしい)

 

↑説明板を抜き書きすると・・
「恵心僧都の旧跡で、藤原兼家が元三慈恵大師(良源)のために建立した寺です。……
恵心僧都は恵心院に篭り、仏道修行と多くの著述に専念され、有名な「往生要集」や「二十五三昧式」……を著し、浄土教の基礎を築かれました。……」

と、あります



そうです!
恵心院といえば、恵心僧都源信
 


源信については



ここ恵心院は、源信が初めて念仏三昧行を修したお堂です


入口には、
南無阿弥陀仏 の石柱        ➡︎こっちだよの看板も
石柱には、「南無阿弥陀仏」の六字名号と、側面には源信の命日「六月十日」が刻まれているそうです(ピントがあまくて良く見えないのが残念)




簡素なお堂が見えてきました



中には阿弥陀如来立像
よっこらしょ (´∀`*)


お堂公開期間中は、バイト?のおばあさんが中を守っておられました

堂内のスペースが狭くて、みんな入るとギュウギュウになりました



そういえば、源氏物語にも、横川僧都という名前は時々出てきましたよね


恵心僧都について、各種の文章や、『往生要集』だけでなく
実際の恵心院を訪れたり、
源氏物語の中にもその名前を確認できるということは、

「その人が本当にその時代にこの場所にいたんだ」ということを実感して再確認することになり

こういうことが、学んでいることの喜びにつながるのだと思うのです!




恵心院のバイト?のおばあさんの話が意外にながくて、

時計を見ると15時50分!ひゃ~ 急げ急げ!




四季講堂
 

慈恵大師良源(元三大師)の住房、定心房と呼ばれていた場所です

良源についてはこちら

良源は毎年春夏秋冬ここで、大乗経典を講じ、横川の学徒をあつめて論議を行いました
そのため、ここは四季講堂と呼ばれました

始めは弥勒菩薩を本尊としていましたが、現在は元三大師を本尊にしているため、元三大師堂、「横川のお大師ささん」と呼ばれているそうです

良源は、角大師、おみくじ創始者として、知られています


角大師
 
これを、玄関の、外から見える場所に貼っておくと、いいそうですよ
(小さいサイズを一枚買いました)

角大師についてはこちら





このあたり、すっかり落葉の風景
なんとなく、心寂しい感じがしますね







そして、もう一息頑張る!


比叡山四大魔所の一つ

元三大師御廟(良源のお墓)
良源は霊力が強く、別名「降魔大師」というそうです

その良源のお墓は横川の一番奥にありました

ここは、鳥居があるんですよね~なんでだろう?



くぐりま~す




こわい~




すでに四時をまわっていましたが、 このあたりだけで
「ぐえっ、ぐえっ」という鳥の声が降ってきて
変な雰囲気・・・Σ(゚д゚;)


さすが、四大魔所と呼ばれるだけのことはあると
妙に納得してしまいました





急いで、駐車場に戻ります







横川駐車場で、日は暮れてしまいました



このあと、京都に戻る途中に見えた大津の町は明かりがちらほら


ここから、鎌倉まで帰るのは、私だけ


まるで、子供のころ、遠くの公園までいって日が暮れそうになって
あわてて家路についた時のような心持になりました





・・・・が、京都駅の新幹線乗り場はそんな郷愁をふっ飛ばす人出


お土産売り場もお弁当売り場も、見たことのないほどの長蛇の列


大きなカブまで並べて売られていました(買おうかと思ったけど、たいそうな荷物になってしまうのでやめました)






苦労して買ったお弁当はこれ↓



 

帰りの新幹線の中で、いただきましたよ




京都駅で買うお弁当は、楽しいですね

家には、定番「柿の葉寿司」を買いました



日帰りで参加した比叡山行きは
自力では回り切れないような盛りだくさんのコースでした


今まで、しり込みして行ったことがなかったのですが
思い切って参加して、大変に勉強になりました


特に、密教的な観点からというよりは
浄土教が起こる起点になった場所という意味で
私には感慨深いものでした

やっぱり、こってりした密教よりも、
あっさりした浄土教のほうが、好みかも!?






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ここがもしかしたら、本当のヒェ~山

でした


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青龍寺のある谷底(ひぇ~ )は、黒谷と呼ばれていました

良源により開創、開眼供養の日に大黒天が出現したため、「大黒谷」と呼ばれ、後に黒谷と呼ばれるようになりました(金戒光明寺のある「黒谷」はこれよりあと)


法然上人について
http://www.geocities.jp/j_houzenji/2hounen.html


金戒光明寺についての、私の以前の記事(短いけどね)

http://s.ameblo.jp/naranouchi/entry-11587115503.html?




さあて、出発します!(まだこの後の大変さをよく理解していないので、足取りは軽い)

車は原則入れないようですね
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クロスしている道は、西塔と横川を結ぶ東海自然歩道
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青龍寺はこっちだよ~ん
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「法然上人廿番霊場  黒谷青龍寺」・・よしよし、道はあってるぞ
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反対側の道しるべも「右くろ・・・(読めません)」



このあたりから、だらだらとした下り坂
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道がつづら折りになって・・・
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山あいをくねくねと道は下って行きました





そして、最後のこの階段!(ひぇ~ )


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もう、直滑降ですよ
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この急階段の下に目指す青龍寺があります(ひぇ~ )

法然はここで二十五年もこもって、悟りを得たというけど、
そりゃ、この坂道を登って下界(というか標高は上のほうだけど)に戻るのは
大変だわと思いました


(電波が立たなかったので)携帯は使えないかも?
あ、そもそもどこにも行かないなら要らないか、、、?

買い物はどこに行くんだ?

とりあえず、エスカレーターつけようか?

と、湧きあがり続ける雑念にまみれながらも



門の前に立つ

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こんな山深い谷底に、立派なお寺がありました



求道者真盛像
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真盛もここ、黒谷青龍寺に隠遁して、称名念仏を唱えたそうですが
この像はかわいいですね~




若き日の法然さま ・・こちらもあどけなくかわいい像
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長ずるとこうなる(⌒-⌒)
 





さて、お堂にずかずか入りますよ

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よっこらしょ・・・(´∀`*)

(学友は、下は二十歳から上は何歳なんだかわからない方々まで幅広い構成でした・・)




撮影禁止となっていなかったのでご本尊を撮らせていただきました

阿弥陀如来
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お堂内部は畳敷きでとても広く、窓から見える山の色が緑で(紅葉してたかな?)

まさに森閑とした雰囲気に包まれていました


法然は25年ここにいたわけです

私は結婚して26年?ひゃー、なんて長い期間なんでしょう・・・・



私も、レポートたまった時は3日くらい世俗を忘れてここでじっくり取り組みたいと思いました
(いえ、決して家事をさぼりたいと言っているわけではありません・・・だけど、家事3日サボれたらそんな世界は即極楽だと思うわ)

3日こもったら、半分くらい瞑想という名のお昼寝しちゃいそうだな・・・(´∀`*)やっぱり私には無理かも



このお寺の境内には、報恩蔵(図書館)があり、一切経(仏教の経典)5048巻が収められています

4
(先ほどのリンクより)

法然は、この経典を繰り返し読破したそうです


後世に名の残る偉人はやはり違いますね




青龍寺から上の駐車場のマイクロバスに戻る時、

私と学友(私よりも年上のおじさん)二人、計三人は一足先に先ほどの階段を上り始めました
なぜなら、若い人に追い越されて、遅れて、迷惑をかけたくなかったからです


境内をうろうろしていた若い衆は、私たちが階段をかなり上ったころにどやどやと階段を登り始めました

「これなら、迷惑かけないかも」

と思ったのもつかの間、階段であっという間に若い衆に追いつかれ、
そのあとの山道でどんどん抜かされて
おじさん2人も私を見捨てて先に行き


気づけば、私がビリになっていました

でも、若い衆のうち2人の男子(今年成人式)はとても優しくて、
ぜーぜーはーはー、のろのろ歩く私のすぐ前をずっと歩いていてくれたので

私一人、遭難することはありませんでした


でも、もう青龍寺には2度と行かないぞ!と固く決心したのでした
(命がけすぎる! )






次回は、マイクロバスで横川にスイスイ~
(青龍寺まで、エレベーターが無理なら、道路通してよ!)






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新しく始めたブログですが、写真の貼り方がいまいち良くわからない状態です
写真に本文が回り込まない設定にしているんだけど、アイフォンでみると、写真と文章の間に大きな隙間がはいるんだよね・・
逆にアイフォンで詰めて書くと、パソコンのレイアウトが崩れているっていう・・・・

なんか最近パソコンで資料作る時も、写真がぬるぬる逃げて、捕まえるのが大変だったのを思い出した(自分で何言ってんだか、よくわからないわ・・・)


しばらく、読みづらい所があるかもしれませんが、ご容赦くださいね






つづきです



時間はちょうどお昼 なんですが


私たちは、東塔を出て

西塔へ向かいます



マイクロバスで西塔の駐車場に移動
























駐車場から坂を下がって行きます














↑ 写真の下半分に、学友の微妙な後頭部が写っていて 、そこをカットしたので
下り坂がわからない写真になってしまっています



常行堂  v( ̄∇ ̄)v  (←ちょっとうれしい)












常行堂の建物は、1595年のものですが、もとは寛平5年(893)創建で、
阿弥陀を本尊とし、その周りを阿弥陀の四親近菩薩が囲んでいました(前の記事に書いた内容です!)


ここでは、念仏三昧の一つ常行三昧が行われていました

この、常行堂の仏像構成について、私はとても関心があったので、たとえ仏像が残ってなくても、建物が後の世のものであっても、その場に行けて嬉しかったですよ


・・・にしても、比叡山を焼いた信長とか、南都を焼いた重衡とか

「あんたたち、いい加減にせい!  ばかもーーん!

と私は言いたいね!


常行堂は、法華堂と廊下でつながっています


右側が法華堂












法華堂は、普賢菩薩をまつり、法華三昧の修法を行いました


有名な話ですが、
この両堂が渡り廊下でつながれている様子を弁慶が見て
渡り廊下を天秤にして担いだという伝説(いくらなんでもそんなバカな)があるため
「にない堂」と呼ばれています


もう一回!

こちら、常行堂
































そして、こちらが、法華堂






























で、この時、先ほど述べたように、お昼どきなんです



で、みんなそれぞれに昼食を持参していました


私も、新幹線の京都駅売店でさんざん迷った挙句


おにぎり2個(平凡なオチ)を持っていました





釈迦堂(転法輪堂)

さて、お昼ごはんだ(は?)
 


















お堂の説明をまずさっさとすると、
延暦寺現存の建物では最古の建造物で
元は三井寺の金堂だそうです(三井寺に行ったことがないな)

秀吉が1596年に、ここに移築したそうです

鎌倉初期の建造物で、東塔根本中堂同様、最澄自作の秘仏釈迦如来(清凉寺式)を本尊とします(見てみたいものです) 内陣が低い土間で、外陣が高い板敷になっているのも、東塔中堂と似ています



それでね、この広場のぐるりには、ベンチが数台おいてあったので
お参りしたあと、ベンチに座り、おにぎりを食べました




あまり時間に余裕がないので、すぐさま駐車場にもどり、マイクロバスに再び乗り込みます













バスの車窓から、紅葉(ちょっと乾いている感じだね)





<次回予告>


さてさて、次は、横川に行くまえに

黒谷青龍寺に行きますよ Σ('◇'*)エェッ!?

 

























法然上人が25年間修業された場所なんですが


坂道の果てに、




こんな下り階段を下りていくの

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帰り道、心臓が止まるかと思いました


救急車も来られないだろうと思い、心臓に我慢させました



もう、あそこは2度と無理!!! 。゚(゚´Д`゚)゜。ウァァァン



続きます


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比叡山延暦寺に行った話を書いています
延暦寺HP


昨日書いた東塔の後、西塔、青龍寺、横川と1日で回ったのですが、
西塔の記事の前に、
常行堂  阿弥陀仏  について書きたいと思います
(現存しない昔の話なんですが、私が浄土教美術を学んでいるので、ここはふれたいところなのです)


延暦寺は、前述のとおり、東塔・西塔・横川(よかわ) の三つから成り立っていますが、昔々、この3ヶ所にはそれぞれに常行堂 があり、阿弥陀とその他の菩薩が安置されていました

この常行堂の仏像構成には、
時代とともに微妙な変化があったようなの です

その変化は、当時の信仰が密教から浄土教へ移り変わった流れを映すものだと考えられます

それはどういうことか具体的に見てみます

1 最澄の法華三昧堂

最澄





























最澄は、天台行法の一環(魔訶止観)の四種三昧(常座三昧、常行三昧、半行半坐三昧、非行非坐三昧)を中国からもたらしました
 帰朝後、彼は四種それぞれの行法のために、四つのお堂を建てることなく法華三昧堂のみを建てたところで没してしまいました


2 円仁の常行堂

円仁

























最澄の弟子円仁(慈覚大師)は、入唐している間に五台山竹林寺というところで、法照流の五会念仏(具体的な内容はよくわかってないらしい)に出会い、日本に持ち帰りました

これは、最澄の持ち帰った天台行法とは少し異なり、善導の思想などを盛り込んだ浄土教的な念仏行法だったらしいです(善導については、アメブロ時代の記事、当麻寺のところで言及しています

→ 2015/4/18当麻寺のまとめ~二上山と中将姫物語 )



善導

















円仁は承和15年(848)に比叡山上に常行三昧堂を営みました
そして、仁寿元年(851)には、常行三昧をはじめました




3 東塔常行三昧堂

円仁の没後、元慶元年(883)に、弟子の相応(831~918)は、常行堂を講堂の北に移建しました

これが、比叡山東塔常行三昧堂です

常行三昧で、お堂の内部中央の阿弥陀の周りをぐるぐると回るため、その造りは方五間の宝形造で、内部には宝冠の阿弥陀如来と、四親近菩薩が安置されました(『覚禅鈔』)
なお、『山門堂舎記』には、阿弥陀を取り囲むのは「四摂菩薩」とありますが、これは間違いと考えられています

この四親近菩薩というのは、密教の金剛界曼荼羅成身会(じょうしんね)で中央の大日如来を囲む四仏(阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就)を囲む四体のことです
四仏それぞれ
に四体が取り囲み、計16体となります


具体的に見ると

金剛界曼荼羅(現図曼荼羅のうちの金剛界)























上の絵の
各部屋はこうなってます




















一番真ん中の部屋が、成身会


では、成身会を拡大すると……




中央の大日如来を、阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就が囲んでいます
この5体が、五仏

方角は、図の上が西となり、西にいらっしゃるのが阿弥陀(西方浄土)


その阿弥陀を取り囲む、法、利、因、語が、阿弥陀の四親近

 







四親近×四仏=16体の親近菩薩ですよね
(大日を囲む4体だけは、四波羅蜜と呼ばれる)

東塔常行堂には、この阿弥陀と四親近が安置されていたと考えられます              



東塔の阿弥陀は螺髪ではなく、宝冠を被った阿弥陀で、これは、円仁請来曼荼羅(根津美術館本)と同じ形式です


円仁請来阿弥陀八十一尊曼荼羅(成身会の部分だけから成る曼荼羅)
























阿弥陀は、宝冠をかぶっています













 








こちらは、現図曼荼羅金剛界成身会の阿弥陀如来〜螺髪です




















曼荼羅と、根津美術館本については、アメブロの過去記事

●壁の話


東塔常行堂の四方の壁には九品の浄土と大師像が描かれていたそうです



4 西塔常行堂
西塔常行堂は、増命(841~927)によって、寛平5年(893)によって建てられました

同じように正方形の平面を持つ宝形造り で、同じ構成の仏像が安置されていたようです

延長5年(927)には、増命によって4面壁や柱に極楽浄土の絵が描かれたそうです
(丁度、増命の没年は意味があるのか?)



西塔では、現在は、常行堂と法華堂が並んで建ち、
にない堂とよばれています










建物は後の時代のものです



5 横川常行三昧堂


横川の注目点は、阿弥陀を取り囲む仏像の構成が変わる ことです

康保5年(968)ころ、慈慧大師良源(912~985)が横川に常行三昧堂を営みました

良源















http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/0905.html



ここに、東塔西塔横川の三塔の常行堂が完成しました

横川常行堂の特長は、阿弥陀を囲む四体が、四親近ではなく観音、勢至、地蔵、龍樹となったことです(「山門堂舎記」)
これは、仏像 の構成が浄土教的に移行したということを意味します


平安時代は、大きく前期と後期に分けられ、
前期に盛んに信仰された仏教は、密教
後期になると、末法到来(1052)にむけて、浄土教信仰がさかんになります

 
比叡山三塔での、阿弥陀を囲む仏たちの構成の変化は、密教的な五尊像から浄土教的な五尊像へ移行した  ことを意味すると考えられています

この傾向は、比叡山だけでなく、ほかの寺でもみられるんですよ
                                                                   



以上、常行堂と阿弥陀についての記事でした



次回こそ、西塔の記事にしますね









私は鎌倉に住んでいますが、過日、学友たちがマイクロバスで比叡山に行くという話を聞いて、

日帰り参加することにしました



新幹線は予想通りに混んでいて、偶然キャンセルが出た早朝の「のぞみ」の指定券をゲットし、
京都に向けて出発!

某所に集合し、初めて比叡山に行きました




予想よりも気温は高かった
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比叡山の文字が見えた時は感動しました!!






















午前中ですが、幻想的な風景です























琵琶湖と大津?の町が見える


















比叡山には、東塔・西塔・横川の三塔があります

今回のツアーはこの三塔および、青龍寺に行くツアーです(この青龍寺が予想以上に大変すぎた )



まずは

東塔に到着し、歩き始めました


































東塔は、
延暦寺発祥の地で、根本中堂を中心に、大講堂、法華総持院、戒壇院などの建物があります



一隅を照らそう  ・・ 比叡山を開いた最澄の著書『山家学生式』に書かれた言葉だそうです
(「一隅を照らす此れ即ち国宝なり」と書いてあるそう)






























天台宗では、「一隅を照らす運動」というものがあるようですよ
こちらをどうぞ↓(天台宗「一隅を照らす運動」)
http://ichigu.net/person/



まず、
大講堂に来ました











建物は、昭和の建築ですが、本尊は胎蔵界大日如来、比叡山で修業した法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など(みんなここで修行したんだね~)の各宗祖師の木像が奉安されています


そもそもの創建は、天長元年(824)、初代座主義真が戒壇院付属勅使宿所として創建、のち大講堂として僧侶の学問研鑚の本道場として発展し、慈恵大師良源が始めた「法華大会広学竪義」「天台法華十講」などの論議が行われる場所となりました

竪義がおこなわれるため、須弥壇の左右に大きな椅子が左右に置かれていますよ

広学竪義の様子





さて、根本中堂にやってきました




















根本中堂は、
「東塔の中心であるだけでなく、比叡山第一の総本堂でもある。伝教大師最澄は、延暦7年(788)に一乗止観院(現在の根本中堂)を創建し、自ら刻んだ薬師如来像を安置して比叡山寺と号した。これが延暦寺のはじまりである。」
(お寺発行の有料パンフレットより)

本尊薬師は、最澄が一刀三礼しながら(どんだけ時間がかかるものやら)、彫りあげたもので、秘仏です 

最澄は、「明らけく のちの仏の御代までも 光り伝えよ 法のともしび」と祈ったそうです 

この秘仏の前には、開創以来の「不滅の法灯」が1200年の時を超えて輝き続けています(春日大社の灯篭みたいな形でしたよ) 



現在の建物は、江戸時代1642年のものだそうです


内部はコの字型になっていて、この時は内部の廊下に上手なお習字がたくさん張られていました

コの字の奥に須弥壇のある内陣(3メートルも低い)と中陣(高い)があり、参拝者は中陣から内陣を覗きこむ形になります


このお堂は以下のような変遷を辿ったそうです(図は学友作成)




























 













↑ 現在はこのようになっていて、内陣の部分が低くて暗く(もちろんろうそくの火もあって見えますけど)、 
こちら側からは覗きこむ感じです 


具体的な配置は、↓ このようになっているようです(全部見えるというわけでもありません) 
















次、 
文殊楼院 に、階段をのぼります 

































急な階段です 


昔、メキシコのカンクンで上ったピラミッドを思い出しました(あまりに急な石段で、上るのはいいけど降りられなかったわ) 



これは昇るのも大変なのに、階段の途中で「新内閣」みたいに集合写真をとるという「あらわざ」までしましたよ 































これが、文殊楼院 

























比叡山の総門の役割をはたしているそうです 

写真の通路右側から内部に入ると、はしごみたいな急な階段があり(木製の滑り止めが足つぼマッサージみたいでした)、2階部分に文殊菩薩がいらっしゃいました 


この文殊菩薩は、慈覚大師円仁が唐の五台山で出会った文殊菩薩を、これまた一刀三礼して彫りあげたものを祀っているそうです 

実際に目にすると、文殊菩薩は等身大より小さめ、面長の金色のお顔をした像でした 
文殊の乗る獅子は玉眼入りの愛嬌のある面貌で、その足は五台山の土を踏みしめているそうです 

反対側の階段から下に降りる時、結構怖かったですよ 


東塔へつながる道には、最澄の生涯を描いた絵や 





























































法然上人の絵


















などが、設置されていました 



次は、西塔へ行きますね~ 




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