西塔から四キロ北にあるそうです
(一人の男の子は、下宿なので、かえって困っていました)
横川について
横川を開いたのは円仁で、後に良源により整備されました
円仁は、15歳で最澄に弟子入り、二十年余の籠山ののち、関東に巡行し、再び叡山に戻りました
そのころ、円仁は体が衰弱し、死を予感したため、横川に隠棲して草庵を建てました
その後、お薬が劇的に効いて 、円仁は回復しました!
これを機に法華経写経を始め、一宇を建立しました これが、横川首楞厳院(しゅりょうごんいん)です
このお堂は円仁帰朝後、848年に開創されました
円仁が入唐の際に遭難しそうになった船中で観音を祈ったところ、毘沙門天が現れ嵐がおさまったので、帰朝後自作の聖観音を本尊にすえ、脇に毘沙門天を置いたそうです(円仁は、病気にも、嵐にも打ち勝つ、強運の持ち主なんですね)
後に良源が不動明王を加えたそうです
その後、建物は、信長の焼き討ちで焼失(信長ったらもう・・)
慶長年間に再建、昭和17年の雷で焼失、昭和46年に伝教大師1150年大遠忌を記念して復元されたそうです
建物は、創建当時の様式を踏襲し、屋根の形は遣唐使船の形になぞらえ、荒波に浮かぶ船形で、舞台造りです
円仁作といわれる本尊聖観音は、写真撮影できませんでしたが、腰を左に曲げて立つ、優美な観音様でした
この聖観音は戦火をまぬがれ、四季講堂に仮奉安されていましたが、昭和46年に横川中堂に戻されたそうです
お堂内部には、ミニ西国観音霊場もあり、篤く信仰されてきたお寺だけあって、雰囲気が濃い
さて次、
ここ恵心院は、源信が初めて念仏三昧行を修したお堂です
入口には、
恵心僧都について、各種の文章や、『往生要集』だけでなく
実際の恵心院を訪れたり、
源氏物語の中にもその名前を確認できるということは、
「その人が本当にその時代にこの場所にいたんだ」ということを実感して再確認することになり
こういうことが、学んでいることの喜びにつながるのだと思うのです!
恵心院のバイト?のおばあさんの話が意外にながくて、
時計を見ると15時50分!ひゃ~ 急げ急げ!
慈恵大師良源(元三大師)の住房、定心房と呼ばれていた場所です
良源についてはこちら
良源は毎年春夏秋冬ここで、大乗経典を講じ、横川の学徒をあつめて論議を行いました
そのため、ここは四季講堂と呼ばれました
始めは弥勒菩薩を本尊としていましたが、現在は元三大師を本尊にしているため、元三大師堂、「横川のお大師ささん」と呼ばれているそうです
良源は、角大師、おみくじ創始者として、知られています
角大師
これを、玄関の、外から見える場所に貼っておくと、いいそうですよ
(小さいサイズを一枚買いました)
角大師についてはこちら
このあたり、すっかり落葉の風景
そして、もう一息頑張る!
比叡山四大魔所の一つ
元三大師御廟(良源のお墓)
良源は霊力が強く、別名「降魔大師」というそうです
その良源のお墓は横川の一番奥にありました
ここは、鳥居があるんですよね~なんでだろう?
くぐりま~す
こわい~
すでに四時をまわっていましたが、 このあたりだけで
「ぐえっ、ぐえっ」という鳥の声が降ってきて
変な雰囲気・・・Σ(゚д゚;)
さすが、四大魔所と呼ばれるだけのことはあると
妙に納得してしまいました
急いで、駐車場に戻ります
横川駐車場で、日は暮れてしまいました
このあと、京都に戻る途中に見えた大津の町は明かりがちらほら
ここから、鎌倉まで帰るのは、私だけ
まるで、子供のころ、遠くの公園までいって日が暮れそうになって
あわてて家路についた時のような心持になりました
・・・・が、京都駅の新幹線乗り場はそんな郷愁をふっ飛ばす人出
お土産売り場もお弁当売り場も、見たことのないほどの長蛇の列
大きなカブまで並べて売られていました(買おうかと思ったけど、たいそうな荷物になってしまうのでやめました)
苦労して買ったお弁当はこれ↓
帰りの新幹線の中で、いただきましたよ
京都駅で買うお弁当は、楽しいですね
家には、定番「柿の葉寿司」を買いました
日帰りで参加した比叡山行きは
自力では回り切れないような盛りだくさんのコースでした
今まで、しり込みして行ったことがなかったのですが
思い切って参加して、大変に勉強になりました
特に、密教的な観点からというよりは
浄土教が起こる起点になった場所という意味で
私には感慨深いものでした
やっぱり、こってりした密教よりも、
あっさりした浄土教のほうが、好みかも!?
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