喜光寺外観
いつからそう呼ぶようになったのか、「ロータスロード」と呼ばれる
薬師寺、唐招提寺、喜光寺の3寺に、
今年も蓮を見に行きました
昨年は時間の制約があって行かれなかった喜光寺について、とりあえず記事にあげたいと思います
喜光寺は、養老5年(721)、行基菩薩によって開かれ、当初は菅原寺というお名前だったそうです
菅原の里は、菅原道真公の誕生の地で、合格祈願の寺としても信仰されているそうですよ
天平20年(748)、聖武天皇参詣の際に、ご本尊(今の本尊ではない)から光明が放たれたため、喜んだ聖武天皇により、喜光寺という寺号が贈られたんだそうです
東大寺の大仏開眼の少し前ですから、聖武天皇もさぞやお喜びだったんでしょうね
仏像もなかなか雰囲気の良い感じでした
本堂の建物については、後述しますが、本堂内に安置されている仏像についてまずとりあげてみます
阿弥陀如来坐像 (重文、平安時代)
丈六の寄木造りだそうです
お顔の部分のアップ
お顔の表情がよく見えませんが、穏やかな顔立ちでした
平等院の阿弥陀如来になんとなく似ているようです
定印を結んでいるところ、寄木造りであるところも、平等院と同じですね
定印を結んでいるところ、寄木造りであるところも、平等院と同じですね
脇侍2体
この脇侍は本尊とは時代が違い、南北朝時代のものだそうです
本尊の阿弥陀とどのようないきさつで三尊になったのか、調べてみないとわかりませんが、
それにしても実にかわいらしいお顔立ちなのです
この脇侍は本尊とは時代が違い、南北朝時代のものだそうです
本尊の阿弥陀とどのようないきさつで三尊になったのか、調べてみないとわかりませんが、
それにしても実にかわいらしいお顔立ちなのです
観音菩薩坐像
可愛いらしいお顔のアップ
(⌒▽⌒)
勢至菩薩坐像
こちらもお顔のアップ
(^∇^)
(^∇^)
おっとりした二人組という感じですよね
本堂裏手の弁天堂では、宇賀神が公開期間中でした
奥の白いヘビが宇賀神
手前が弁天様
本堂 (重文、室町時代、天文13年(1544))
行基菩薩が東大寺造営にあたり、喜光寺の本堂を参考にしたという伝承から、 「試みの大仏殿」として有名ですが、その本堂自体は明応8年(1499)に焼失、現在の本堂は天文13年に再建されたものです
二階建てではなくて、下の屋根に見えるものは裳階(もこし)です(薬師寺東塔・金堂とか、法隆寺金堂にもついてますね)
行基菩薩が東大寺造営にあたり、喜光寺の本堂を参考にしたという伝承から、 「試みの大仏殿」として有名ですが、その本堂自体は明応8年(1499)に焼失、現在の本堂は天文13年に再建されたものです
二階建てではなくて、下の屋根に見えるものは裳階(もこし)です(薬師寺東塔・金堂とか、法隆寺金堂にもついてますね)
この本堂の向かって左手にたくさんの蓮が、鉢植えで並べられています
この蓮の管理は比較的最近、始められたそうですが
管理が行き届いていて、とても綺麗な花が咲いていました
で、こんなふうに蓮と本堂を一緒に撮ろうと頑張っていましたが……
「気合いの入ったカメラマン」が多くて、私が彼らの風景にはいりこんでしまい、
思いっきり邪魔
をしていたようでしたので、後ろに回りカメラマンを込みで撮ってみました
蓮の葉に蓮の花がひらりと載っています
こちら↓、仏足石と釈尊転法輪像
光背脇のこのお像の姿勢に釘づけ
こちら、別の角度から撮った蓮もきれいです
この蓮の遠景に石仏がたくさん見えますよね
私はこういう石仏の群像を見るのが好きなので近寄ってみましたよ
すると、石仏たちは整然と並んでいました
互い違いに全員のお顔が見えるので、じっと見ているとそれぞれ面白いんです
ほら、つまらなそうなおのお方とか
びっくりしている不動明王
こちらもびっくり不動明王
ニヤけるお地蔵様
瞑想するお地蔵様
よそ見?
超よそ見!
喜光寺へのアクセスは、
近鉄線尼ヶ辻駅を降りる、もしくは、垂仁天皇陵脇の歴史の道から尼ヶ辻駅前の道に出て
西へ、こんな道標を見ながら直進
西へ、こんな道標を見ながら直進
三叉路を右折
菅原神社方向です
まっすぐ進む
高速道路が見えてきて(ここが苦手で喜光寺にはあまり行かないのだけど)
ほら、向こうに喜光寺が見えています
このお寺の立地は気の毒な気がしますね
まわりが殺風景なんだもん
でも、お寺についてしまえば、もうそこは別世界
あ!お寺でいただいたパンフを見たら地図がありました
喜光寺を訪ねたあと、西大寺駅を目指して北上を続けましたが、わりと普通の道でした
あそこも歴史の道なんだよね?
そうそう、それから
このブログ、少し前まで、ランキングに参加していたのですが、
パスワードを忘れてしまって、入れなくなってしまいましたので
現在参加できません
ま、べつにそれでもいいかななんて、思ってます