はなこの仏像大好きブログ

奈良、鎌倉、京都、古美術、そして、日常の生活などを取り上げて書いて行きたいと思っています。 よろしくお願いします。 主婦、母ですが、通信制大学院の学生でもある、アラフィフおばさんです。

奈良や古美術が好きな主婦のブログです。

アメブロ『奈良大好き主婦日記』
http://s.ameblo.jp/naranouchi/

と並行して書いています。

よろしくお願いします。

小説、詩歌など



最近、当ブログにて、
勝手にマイブーム で数回記事にした
立原正秋さんの小説について、

私よりもっと熱心に読み込んでいた方がいらっしゃいました!


そこで、その方と一緒に

「立原作品に沿って鎌倉歩こう!」

ということになりました!







一緒に鎌倉を回った方は、
アメブロで、私もよく読ませていただいている、ヒストリアさんです

ヒストリアさんのブログ
世界ヒストリア紀行


彼女はとても読書好きの方で、歴史の知識の豊富なママです

この日は、はるばる鎌倉までお越しくださいました


設定コースは、
立原正秋「残りの雪」に沿ったコースです






「残りの雪」の主人公里子さんは、30代前半、ダメ夫に蒸発され、幼稚園児の息子を伴い、北鎌倉の実家に戻ってきます

里子さんは、骨董屋にアルバイトに出ますが、そこで、40代半ばの、中堅製紙業の社長、坂西浩平と出会います

坂西は、趣味の骨董にうちこみ
(仕事は部下に丸投げして、自身は相当の金持ち という設定)、
風流で、骨董に目が利く「なんでも鑑定団」みたいな人

里子の美しさを、「少しいびつな白磁」にたとえて、骨董を愛するように里子を大切にします……


……この話、若い頃はともあれ、登場人物より歳をとってしまった今再び読み返すと、相当現実離れした理想世界に、
「現代の藤原氏か?」と笑っちゃいますが、
立原作品に流れる「美的世界」は、やはり魅力的なのです(ほんと、一日でいいから、あんな優雅に暮らしてみたいよ )





では、プチ旅のスタートです


1. まずは、北鎌倉駅に集合
北鎌倉駅から、鎌倉街道を大船方面に徒歩1分ほど戻り、「材木屋」の角を左折してしばらく歩く

……道は、梶原に抜ける細い道に入りますが、小説では、このあたりに、主人公里子さんの実家があったという設定
(里子さんのお父さんも、これまた社長でお金持ち……)


↓ 小説にも出てくる、この付近の小さな川ですが、ここは夏にホタルが出ます
写真はアレですが(^◇^;)、実際の水はきれいなのです



2. 鎌倉街道に戻り、鎌倉方向に徒歩3分、東慶寺

………里子さんが夫に逃げられて実家に戻ってから、東慶寺を訪れます
そのとき境内で見上げるとハクモクレンが満開


今回、小説とちょうど同じ季節でした

↓ 東慶寺入口の門



↓ 小さな石仏に迎えられ



↓ その背後に、大きなハクモクレン


↓ 里子さんも、この花を見上げた




↓ ついでに 、ここは、「花の寺」なのでお花の写真など、添えてみます











3. (小説には出てこなかったと思いますが、前を通りかかったので)
浄智寺に寄りました


大人気!浄智寺布袋尊


結構、腹が黒い↓



4. 亀ケ谷(かめがやつ)切通しを通り
(今年はウグイスの下手な歌はまだ確認できませんでした←お喋りに夢中で気づかなかったのかもしれない……)

この場所のウグイスの歌の下手さについては



5. 扇ヶ谷に降りて、大姫を祀る岩船地蔵堂を右折し、

(大姫に関しては、こちら↓)


横須賀線のガードをくぐり、やがて

6. 化粧坂(けわいざか)

(化粧坂については、


……里子さんは、小説の中で、何回かこの坂を上りますが、

里子さん、あなた、着物で登ったんすか? ( ̄O ̄;)

っていうくらいワイルドな坂ですよ

↓ 坂の始まり
ぬかるんでる〜〜


↓ 坂の真ん中にロープ張るなって!


↓ 神様の依り代になりそうな大岩!


ボッコボコの鎌倉石で、これじゃ合戦の時、うまく進めなかったろう……



↓ 化粧坂の終わりが見えてきた

小説では、この坂を、着物でサッサと上る里子さん、
あなた手弱女のフリして、

かくれアスリートですね⁉︎




7. 葛原が岡に行き、日野俊基の墓に寄る

中世史バッチリのヒストリアさんが、日野俊基墓の表示を見て、喜んでいらっしゃいました……よかったよかった(*^o^*)


お墓付近の椿の花が鮮やかです



日野俊基の墓




葛原が岡神社

最近、この神社は少し活気があるようです
日野俊基をお祀りしていますが、
どうやら「縁結びの神様」として、人が集まってくるみたい……






8. 葛原が岡から梶原に抜ける道
(富士山が真正面にあるはずなんですが、見えないね〜)
この道は、殆どジモティしか通らない道ですが、

……小説の中では、里子さんは実家に戻って間もない頃、お父さんと、山桜咲くこの道を逆に辿り、葛原が岡へ向かいます
その途中、この場所で、遠くに富士山が見え、手前には宅地造成のためにブルドーザーで切り開かれた山肌が見えると描かれています(今では年季の入った住宅地に成長したますが…)


9. そのブルドーザーで切り開かれた住宅地の一角にある、立原正秋の邸宅!

以前、電話帳で立原さんの住所を調べて、ご自宅を探したことがありました(軽いストーカーだわ(^。^))
その時は、わかりませんでした

ところが今回、
ヒストリアさんと一緒に探してみたら、
なんと見つけてしまいました‼︎(^O^)/


このご自宅は、立原さん関連の本には写真が公開されていて、それを見ればわかるのですが(超マニアック)、
住所、場所は、ここでは非公開ということにします ^ ^



10.「梶原バス停」

もうこれは、スーパーマニアの世界!

これは、私の通学路じゃ!




……小説では、2人の仲が坂西の奥様にばれてしまいます
里子さんは奥様と「もう坂西と会わない」という約束をします

坂西は里子さんとを諦めきれず、
会いたいと手紙を書きますが、
里子さんは彼に会う勇気がもはや持てず、
鎌倉八幡宮の近くの店から、先ほどの化粧坂を上りこの梶原まで歩いてきます(着物でだよ……やっぱりアスリートだ!)

そして、里子さんは梶原バス停の目の前にある喫茶店に入ります

そのあと、梶原バス停に、里子さんを追いかけて坂西が現れますが、
喫茶店の中から坂西を見る里子さんは立ち上がることができません

坂西は、仕方なく、鎌倉行きバスに乗ります……(T_T)




↓ 梶原バス停の前のお店
今は蕎麦屋が二軒並んでますが、ここに喫茶店がありました
里子さんが、バス停にいる坂西を見ていたという設定の喫茶店はここ

実に細かい場面設定ですが、私には土地勘がビリビリはたらくエリアです
(まあ、立原さんがご近所さんだということだわね)




ちょうど鎌倉行きの江ノ電バスが来たので、私たちもそのバスに乗り鎌倉駅に向かいました
(このバスは、大仏経由で鎌倉駅まで行きます)



11. 茅木家
鎌倉駅まで戻りました

八幡宮へ続く鎌倉段葛(もうすぐ改修工事終わります!)の入り口付近には、
両側に鰻屋がありましたが、一軒が数年前に廃業し、
現在はこの茅木家だけが残ります



……小説では、里子さんと、母、義姉の3人で、この茅木家に入ります
お母さんが、自分は鰻の小さいのでいいけど、若い2人は大きいのを食べなさいと言っていましたが、



……現実の私たちは、小さいのを頼みました

大きいほうは、鰻がどんぶりからはみ出すそうで、胸焼けしそうでしたよ……




12. 光明寺

鰻の昼食のあと、バスで光明寺へ

先日、特別公開で行きましたので、詳しいことは省略しますが、

その時撮りそびれた
善導さん


お顔アップ


似てる〜〜!
善導さん



最近の光明寺の記事


13. 材木座海岸
光明寺の目の前が材木座なので、出てみました

すごい引き潮で、和賀江島がよく見える(写真中央に移る島状のものが、鎌倉幕府と宋との貿易港跡、和賀江島)



14. 九品寺

帰り道、九品寺に寄りました




法然上人のお顔(見えますか?)

光明寺の法然さんとそっくりですよ


境内には木瓜が咲き始めていました



15. 妙本寺

帰り道すがら、妙本寺にも寄ってみました

今回の立原正秋さんの一連の記事のきっかけになったお寺です

妙本寺も最近行ったので、その時撮りそびれた写真を撮りました

一幡の墓


仙覚の石碑

最近の妙本寺の記事









今までに、万葉集を片手に奈良の明日香や山辺の道を歩くことはありましたが、

立原正秋を片手に鎌倉を歩くのは新鮮でした



ヒストリアさん、どうもありがとう





↓ このくらい、歩きましたよ(^O^)/





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最近、妙本寺を訪れたことから、立原正秋の世界を思い出しました

私が初めて立原の小説に出あったのは、高校を卒業した頃だったと思います。
それまで知らない作家でしたが、地元鎌倉在住(亡くなった頃だったかも)の作家で、おそらく地元の本屋(たぶん島森書店)でも目に付く場所に置いてあったのかもしれません

当時、すでに、私は奈良大好き病でした

この小説家の描く世界は、自分の足元の鎌倉と、大好きな奈良を舞台としていたために、一気に引き込まれてしまいました

彼の小説は、いわゆる通俗小説という面もあり(もしかしたら、そっちがメインなのかも)、その後本屋の本棚で見かけることもなくなり、なんとなく忘れていました

忘れていた途中、数年前に、こんな本↓ を見つけて買っていました


いい機会なので、とりあえず↑ この本の中から写真と文章を抜粋して、
立原ワールドを思い出してみたいと思います



表紙をめくると、立原さんの写真が出てきます


本はエリア別に編集されていますので、以下、途中までそれに沿って、適当に小説の文章を抜粋してみます

で、後半は、海とか逗子とか、少し私の興味が下がるので、まとめて「その他」にしちゃいますね(・∀・)




1 鶴岡八幡宮界隈
「鎌倉夫人
 
(写真、鎌倉段葛)

 若宮大路の段かつらの道では、桜の花が盛りで、花見の人々の往還がしきりであった。若宮大路は三本の道になっている。二本の舗装された車道にはさまれた中央に、かつら石を使って車道より一段高くつくられているのが段かつらで、道には、こまかく砕いた石が敷きつめてある。


(写真、鎌倉雪の下カトリック教会)


  この若宮大路に面したカトリック教会の庭の出入口で、四月一日から大道易者の店をはっている髭をはやした男がいた。
  易者は、渋い結城紬に仙台平の袴をつけ、黒いサングラスをかけていた。そして、易者には似合わない、海岸で被るような庇の広いパナマ帽を阿弥陀被りしていた。彼は、粗末な折りたたみ式の机をひろげて床几に腰かけ、算木を並べていた。机のわきには、そこら辺の社長クラスの月給では飲めないような緑色のブランデーの壜がおいてあり、彼はときどき壜をもちあげえは喇叭のみしていた。能勢広行だった。



「漆の花」

 
(写真、鎌倉彫博古堂)
 
  飛騨堂の六坪の店内は、正面出入口のほかに東側と西側の武者窓からあかりをとっているが、なかはうす暗く、ひんやりしている。出入口の右側では、木蓮、牡丹、芍薬が華麗さを競い、東側には鉄線蓮、あざみ、どくだみ、紫蘭、罌粟の花が咲きみだれ、店の中央のガラス棚のなかでは半夏生の花がひっそり咲いている。

  他の鎌倉彫の店をのぞいてから飛騨堂に入ってきたものなら、そこで作品の鮮やかさに必ず目をみはる。一本の線の浮きぼりにしても、余分なものは捨て上澄みだけをとったという感じをあたえる。荒い鑿の一彫りで、雄勁な彫法であった。もちろん店内には竜次郎の作品だけを並べてあるわけではない。店で使っている八人の職人が造る品が店の四分の三をしめて飾られている。八人の職人のうち、五人が彫師で、二人が塗師、一人が機械をうけもっている。

  店の工房には四季を問わず益子焼の鉢にレモンが十数個盛られている。かれは仕事をしながらこのレモンを求めてくる。レモンが好きなのは子供の頃からで、外出するときはもレモンを数個ポケットにしのばせていた。




「はましぎ」
(写真、鶴岡八幡宮の大イチョウ←今はもうありません) 

  鰻屋の前で六と別れた道太郎は、ぶらぶら歩いて鶴ヶ丘八幡宮の境内に入った。境内には源平池というのがあった。どっちが源氏池でどっちが平家池なのかはわからなかったが、入って右側の方の池にはボートがあり、冬だというのに漕いでいる男女がいた。

  「道太郎くんだな」
と背後から声をかけられた。久しくきいたことのない声だったが、それはまちがいなく妻の信子の父の声だった。
  道太郎はゆっくりたちあがり、躰の向きをかえ、うしろをみた。土方亮一がたっていた。大島紬の対に駱駝色の襟巻をしていた。





「花のいのち」

 
(写真、瑞泉寺)

  鎌倉でうまれ鎌倉でそだった窈子は、鵠沼の柚木家に輿入れしたときには、生家が近いことから、鎌倉を去る、という感情はなかったが、しかしいまはそれがあった。明日沼津に越したら、鵠沼から気楽に生家に遊びに帰れたころとはことなる身分になるはずであった。そんなころから瑞泉寺に行ってみようという気落ちになったのである。鎌倉で育ちながら、瑞泉寺には数えるほどしか足を運んでいなかった。
  最後に瑞泉寺に行ったのは、柚木家に去った年の夏の終りで、父のともで歌会に出席したときであった。細長い谷戸の入口に寺の山門があり、山門を入ると一本の道が向こうに抜け、道の両端には梅の老木が並んでいる。道の突きあたりは山路で、松林のなかに、不恰好に敷き詰めた石段がある。そこを登り尽くしたところに、北側の山を背にして寺があった。山門から谷戸を経て境内を眺めあげる風景といい、境内から谷戸を経て山門を見おろす点景といい、それは自然の利を考えて造られた寺で、そこに足を踏みいれた者は、浄土の幻想と結びついたやさしい調和を見出す。壮大な七堂伽藍とは縁のないひっそりした場所で浄土が現世に結びついている、といった寺であった。




2. 北鎌倉
 

↑ あら?私の後ろ姿、何時こっそり撮ったのかしら? (←絶対違いますから )



「やぶつばき」


   鎌倉駅から上りの横須賀線に乗り、北鎌倉でおりると、改札口の電気時計を見あげた。二時半だった。十分あれば間瀬の家まで行けた。
  ずいぶん酷な仕打ちだと思いながらも親の言いなりになってきたのは、自分のなかにもやはり家を守る気持ちがあったからだろうか、と近頃は歩いてきた道をふりかえる日があった。三十の声をきいてからは、秋の日が経ってゆくにつれ冬が見えてくるように、どうすることも出来ないこれからの自分がみえた。三十四際のいまの瑞江にみえるのは女のいのちだった。
  間瀬はいなかった。雑木林のなかの間瀬の家は四年前に建てられた二十坪の木造家屋で、偏在する自然のなかに人が一人棲んでいる、そんな感じのする建物だった。来ることがわかっているのになぜ留守にしたのだろう・・・・。瑞江は書斎の濡縁に腰かけ、避けたのだろうか、と考えてみた。落葉がつもった庭を山鳥が歩いていた。いまになって避けたとも思えなかった。留守なら茶会に終りまでおればよかった、といった思いは湧かなかった。雑木林はすでに秋をすぎていた。丈が三メートルほどある藪椿が庭の西はずれにあり、ここだけ緑が叢っていた。この藪椿は赤い一重で、喇叭状の花がひらききらないうちに落ちてゆく、と間瀬が話してくれたことがあった。人の手が加わっていないので椿は枝をのばしきっていた。足かけ四年ここに通いながら、この藪椿が咲いた頃に来たことがなかった。濡縁の前では山萩が散っており、紫色のはいった白い花弁が根本につもっていた。あわれにはかない花だった。





「冬のかたみに」

 
  (写真、円覚寺)

   建覚寺の春の座禅接心は三月二十八日からはじまり、私が二十七日の夕方居士林にはいったら、さきに来ている者が一人いた。井田です、とその男は名のり、名刺をくれた。東京のある私大の医局にいる男だった。私は名刺を持っていなかったので、籍をおいている私大の文学部と名を言った。
「文学部ですか。羨ましいですなあ。文学はいいですよ。僕も文学をやりたかったのですが、家がだいだい医者なので、家業を継がざるをえないんですよ。」
 

「お住まいはこの辺ですか」
私が久留米絣に下駄ばきなので井田はそう見たのだろう。
「この寺の山門の前に棲んでいます」
  山門の前は横須賀線が走っており、北鎌倉駅がちかかった。私が妊娠したばかりの妻をとおなって山門前のある家の離れを借りて越してきたのは前年の八月だった。 

  私が建覚寺の山門前に越してきたのは、建覚寺が臨済の寺であるからだった。無量寺に比べたら規模は三分の一の広さもなかったが、禅寺らしいその簡素なたたずまいが私の心を捉えたのであった。




「美しい城」
 
(写真、建長寺の木瓜)

「兄貴は京都から帰ってきたのか?」
下藤が席に戻りながら訊いた。
「いや、まだだ。京都で能を観て歩いているいのだろう。もしかしたら奈良を歩いているのかも知れない。」
「もう、じきに、桜がひらくな。鎌倉の桜はどうだ?」
「若宮大路で昨日枝を見あげたら、まだ蕾が固かったな」
  私は家に帰るのに、北鎌倉で降りればすぐだった。それなのに、わたしはこの頃よくひとつ手前の鎌倉で電車から降り、鶴岡八幡宮のわきを通り、坂道のトンネルをぬけて北鎌倉にでた。そして、途中、建長寺の山門を入り、もうすっかり陽が落ちて冷たい空気が張っている境内に、三十分も一時間もいることがあった。




「残りの雪」

 
(写真、 東慶寺の白木蓮)

  里子と牧子が買物に出たのは二時すぎだった。出がけに牧子が、
「里子さんと東慶寺の白木蓮を褒めてまいりたいのですが、よろしいでしょうか」
と明子にきいた。
「あら、あなた方だけで・・・・。わたしもつれていってください。幸江さんもつれて行きましょう。お祖父ちゃんに留守をたのむとしましょう。
  それから明子は羽織を着て玄関に出てきた。結局、家には弘資だけがのこり、みんなで東慶寺にでかけた。

 
(写真、東慶寺前、茶寮松ヶ岡←いまは、タケオ・クインディッチというイタリアンのお店になっています) 

  東慶寺は、山門を入ると左に鍾楼があり、右側に本堂と庫裏が塀に囲まれている。塀には出入口がついており、白木蓮は出入口を入ったすぐ右側にたっていた。ずいぶん大きな木で、たかい枝を伸ばし、六弁の花が空にむかって開いていた。花は満開だった。春の花はなぜこんなに空に溶けてしまうのだろう、と里子は午前の葛原ケ岡の桜をおもいかえしていた。みんなが自分をなぐさめようとしている気持はありがたかったが、かんがえてみてもこれはやはり自分だけの問題だった。
「白木蓮はやはりお寺の境内にある方が似合うのかしら」
 牧子がいった。
 里子は、さびしい花だと思った。空にぬけて行くような白さがさびしかった。
「花が多すぎるわ。春の花は、数輪ひらいた風情のようがよろしいでしょう」
  明子が言った。





3 源氏山から鎌倉山へ


 



「残りの雪」
 
(写真、葛原が岡の里桜)

  谷戸の両側の山の斜面に山桜が点在していたが、数は多くなかった。
「天園から獅子舞の辺に行ったことがあるかね」
弘資がきいた。
「むかしいっしょにいらしたではありませんか。山桜をみに」
「そうだったけね。あそこの山桜はいいねえ。ここもね、峠をこえると梶原だが、山桜が多い。あそこの峠から葛原ケ岡にぬけてみよう」
なにか話があるのだな、と里子は思った。


  しばらく行くと谷戸の道は登り坂になる。陽の光がのどかで風景が明るかった。苦しみを抱いて生家にかえってきて、父とこうして歩いていることにわずかななぐさめがあった。左側の山の斜面で鶯がないていた。
 峠から左に折れた。雑木林の斜面に幅二メートルに充たない道がついており、葛原ケ岡に通じている。その道を二百メートルほど行ったところで弘資はたちどまった。
「あれが切りひらかれた梶原の住宅地だ。ずいぶん家が建ってきたな」


  葛原ケ岡は人出でにぎわっていた。みんな桜をみにきた人達だった
「染井吉野もあるが山桜もあるな。花はいいものだ。」
  風がなく、淡い花の色が空にとけて行きそうな風景だった。



「埋火」
 
(写真、寿福寺)

  ある日の午後おそく、まちにおりて買物をすませ、寿福寺の墓地をぬけていたら、墓地の奥の方で紙を燃やしている女がいた。もう暮方で訪れる人とてない墓地だった。白っぽいスーツを着た女だった。近くまで行ってみたら、そこは、この春亡くなったある高名な小説家の墓の前だった。その墓地は石柱で柵がしてあり、かなり広い場所を占めていた。左側に小説家の父の墓があり、右に小説家の墓があった。父の墓の左手前に広い石の台があり、そこに黒い外套がのせてあった。墓のうしろは崖の下で、女は小説家の墓の右手前の石敷の上で手紙を燃やしていた。ふっくらした横顔は四十がらみだった。女は封筒から手紙をぬきだして火にくべ、次に封筒を火にくべていた。寒気が張りつめている暮方の墓地での目前の光景は、ここを通いなれている私にも思いがけなかった。すこし離れた場所から眺めている私には気づかず、女は何通かの手紙を燃やしおえると、水桶の水をかけた。それから小説家の墓に向かって合掌した。
  私はそこを離れ、墓地をぬけて階段をのぼり山道にかけあがった。生臭い現世を見た気がした。




「鎌倉夫人」

 
(写真、鎌倉山の雷亭)

  三叉路になっている終点の鎌倉山でバスを降り、噴水塔のわきをとおりぬけ、傾斜のゆるい坂道を登りつくした高台に、樹木に囲まれて古びたゴシック式の二階家が建っている。そのあたりは山桜の名所であった。広行の家の庭にも、かずかずの桜が植えてあった。その花見に来た年の張れた日、坂道を登りつくして出あった桜の見事さに、千鶴子は吸い込まれて行きそうな感じになったものであった。

また近くの山では、松の緑が深く沈み、山桜の白い花弁と葉の青が映えていたことも、千鶴子はよくおぼえていた。





その他の場所


「残りの雪」
 
(写真、長谷、光則寺)

  水は浅いが、山裾にあるかなりの広さの池の一隅に花菖蒲が叢がっており、ひらききった花、なかば開いた花、これから開こうとしている蕾が、紫と白に彩られ思いおもいの風姿で、まるで女が群れているように午後の陽光の下でにぶく輝いていた。目をあげると、疾うに花の散った青葉の海棠の向うに本堂が鎮まっており、本堂のうしろと左右は、新緑の山の斜面がこちらに向って流れている。せまい谷戸に浄福を思わせるような六月の午後が展がっていた。
「光則寺に花菖蒲があったとはしらなかったわ」
  里子は本堂の裏の新緑を眺めあげ、この境内を訪ねてきたのは何年ぶりだろう、と女になる前の季節を振りかえってみた。まいねん父と母といっしょに四月なかばに海棠のさかりを眺めにきた境内だった。
「花菖蒲って、年々ふえてくるのでしょう。あなたがいらした頃は、こんなになかったのよ。」
  栗田綾江が言った。

  綾江は、長谷の通りに古くからある骨董屋の一人娘で、きれいだとひとから言われながら縁がなかった。
「骨董屋の一人娘のところになど来る男はいないのよ」
と綾江は電車のなかで言っていた。言いかたが朗らかで自嘲のひびきがないのがそのときの里子にはありがたかった。






このネタ本は、講談社カルチャーブックス
「立原正秋の鎌倉」という本です↓

 

私が書き抜いたのはほんのごく一部なので、
興味のあるかたは、これをまず読んでから、
アマゾンとか図書館等で探してみるといいと思いますよ






読書のってのもいいわね
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