はなこの仏像大好きブログ

奈良、鎌倉、京都、古美術、そして、日常の生活などを取り上げて書いて行きたいと思っています。 よろしくお願いします。 主婦、母ですが、通信制大学院の学生でもある、アラフィフおばさんです。

奈良や古美術が好きな主婦のブログです。

アメブロ『奈良大好き主婦日記』
http://s.ameblo.jp/naranouchi/

と並行して書いています。

よろしくお願いします。

円仁


今回は、(いつものように唐突ですが)常行堂についてまとめてみたいと思います

常行堂は多くの場合、ひっそりとした場所に法華堂と仲良くペアになって建てられています
(比叡山西塔では、廊下で結ばれた2つのお堂を「担い堂」という愛称で呼んでいます)


一般的な寺院の伽藍といえば、本尊を祀る金堂やお坊さんの勉強のための講堂、仏舎利を祀る五重塔などの建物を想像しますが、
常行堂はそんなに有名でもなく、世間にあまりなじみがないのではないかと思います

この常行堂というお堂は天台寺院に建てられるもので、
現存が確認されているもの、もしくは遺構となっているものの具体例は、比叡山西塔担い堂を筆頭に、日光輪王寺、毛越寺(現行の常行堂と遺構の常行堂法華堂)、鶴林寺、円教寺、立石寺等国内のいろいろなところにあります

↓比叡山西塔担い堂(常行堂と法華堂)
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↓日光輪王寺常行堂
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↓輪王寺常行堂阿弥陀如来と脇侍4体
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↓法華堂と結ぶ廊下
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↓法華堂
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↓毛越寺常行堂
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↓宝冠阿弥陀
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↓毛越寺常行堂跡と法華堂跡
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また、建物や遺構が現存しなくても、文献上で常行堂の存在が確かめられているものには、
比叡山東塔・横川、園城寺、多武峰妙楽寺、法住寺、法性寺、法成寺、広隆寺、勝尾寺などがあります
このように沢山の常行堂が存在したわけですが、その歴史は比叡山東塔・西塔・横川の三か所に建てられた常行堂から始まります




1 鑑真により 請来された『摩訶止観』

 浄土信仰・法華信仰は、最澄が建てた比叡山延暦寺を中心に平安時代後期以降にさかんになりました

最澄より遥か前、6世紀の中国では天台の祖智顗(ちぎ)が、いわゆる法華三大部(『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』)を説きました

この法華三大部は早い時期に日本に請来されていました
まず『法華玄義』は、初写年代から天平勝宝2年(750)以前に伝わっていたことがわかるそうです
これは、天平勝宝4年(752)東大寺大仏開眼供養より前ということになるので、個人的には少しビックリです

次いで『法華文句』『摩訶止観』は、天平勝宝6年(754)に鑑真が持ってきたんだそうです(『唐大和上東征伝』)
これもビックリ!

↓鑑真
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つまり…法華三大部は
・750より前に『法華玄義』

(752 東大寺大仏開眼供養をはさんで)

・754に『法華文句』『摩訶止観』(by鑑真)

という感じに日本に来たわけですね・・・(並べてどうする?)




2 最澄と法華三昧堂

最澄(一乗院)
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最澄(766/767-822)は、15歳の時に国分寺の僧侶となり、19歳で仏道修行のため比叡山に草庵を結び、日夜『法華経』などの経典 を読誦しました

最澄が籠ったこの草庵は一乗止観院、のちの比叡山根本中堂です

最澄は『法華三大部』をここで学び、和気広世らの帰依と尽力により入唐還学生となりました

延暦23年(804)には中国にわたり、台州龍興寺の道邃から『摩訶止観』の必要を授けられ、また仏隴寺の行満からは『法華疏』『涅槃疏』を受けました
さらに、翌年延暦24年(805)には越府龍興寺の順暁から灌頂を受け、図像等を授けられて帰国しました

最澄の在唐期間はわずか8か月余りと言うことになります
たった8か月の「短期留学」で日本の仏教に多大な影響を残す功績をあげたのだから、やはり最澄はすごいです!
(ふつう初めて海外に行ったら、マゴマゴしているうちに8か月くらいすぐに過ぎてしまうものね…)

最澄が帰朝した翌年の延暦25年(806)には、天台宗開建の勅許が下り、年分度者二人が割り当てられました
年分度者のうち一人は『摩訶止観 』を中心にした止観業(天台法門)、もう一人は遮那業(大日経を中心に密教)を修することが定められました

止観業の一人は毎年毎日法華、金光明、仁王等の大乗護国経を講読し、遮那業の一人は大日経、孔雀、不空羂索等の護国真言を念じることが日課として課されました
またこの2人は、12年の間籠山して就学しますが(ひぇ〜😱ざん)、12年の内訳は前期6年が聞慧を主とし思修を従に行う期間、後期6年が思修を主とし聞慧を従とし、止観業では​四種三昧を修習する期間に分けられていました

帰朝後4年経った大同5年(810)正月には年分者8人が度され、四種三昧(ししゅざんまい)を修する人数が整ったので、
弘仁3年(812)に最澄は法華三昧のための法華(三昧)堂を造立しました
この時の法華堂について詳しいことはよくわからないようですが、場所はおそらく講堂の北の根本法華院地であろうと考えられているようです(私はその場所自体どこなのかよくわかりませんが)


3 四種三昧について
ところで、上に出てきた​四種三昧とはいったい何でしょうか

四種三昧とは、はじめのほうに書いた智顗撰述の法華三大部の一つ『摩訶止観』に説かれる天台僧侶の修行の実践行法です
それは次の四つの行法、➊常坐三昧、❷常行三昧半行半坐三昧、❹非行非坐三昧から成り立ち、それぞれの内容は以下のようになります

➊常坐三昧:「文殊背説般若経」「文殊問般若経」を典拠とし、90日間静室独坐、一仏名号を称え加護を求める行法
常行三昧(仏立三昧):「般舟三昧経」の所説によるもので、浄土信仰に直接関係します
その内容は、つねに道場の周辺を饒旋し(ぐるぐる回る)、休むことなくひたすら行を実践、座らない
口ではつねに阿弥陀仏を称え、心に阿弥陀仏を念ずる
休息なし
❸半行半坐三昧:方等三昧または法華三昧ともいい、方等三昧は「方等三昧行法」により、法華三昧は「法華経」によるものをいう
37日間方等経または法華経によって行と坐を交互に行う
口に呪をとなえたり大乗経典を唱える
❹非行非坐三昧:請観音経により、行坐を定めず随自意に行う行法

最澄ははじめ❶から
❹の各三昧院の建立を意図しましたが、結果的には❸法華三昧のための法華堂だけを造立、他の3つのお堂を造ることはできませんでした
その理由は最澄が大乗戒壇の設立の方に重きを置いていたからです(有名な最澄の『顕戒論』三巻はこの大乗戒壇の設立のために著わされたものだそうです)

最澄は菩薩大戒をひろめるための大乗戒壇の設立を請いましたが、東大寺景深らの阻止にあって勅許を得ることができませんでした
そのため天台宗にて度を受けた者もある程度の人数がいましたが離散してしまいました

このような状態では法華堂以外の四種三昧を行うお堂を建てることももちろん出来ず、大乗戒壇設立の勅許ももらえず、弘仁13年6月4日に五十六歳で亡くなってしまいました
(皮肉なことに最澄が亡くなってからわずか七日後には大乗戒壇の設立の勅許がおりたそうです)




4 円仁、法照流の五会念仏と出会う
最澄没後は、弟子円仁(慈覚大師)の登場です

慈覚大師円仁は大同三年(808)に15歳で叡山に入り最澄に止観を学びました

↓円仁(兵庫・一乗寺、部分)
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https://ja.m.wikipedia.org/wiki/円仁


円仁は弘仁5年に21歳で官試に合格し沙弥戒や具足戒を受け、10年の間籠山しました


ところが40歳の時に病気になってしまったので、叡山北洞(のちの首楞厳院、横川)に草庵を結び死を待ちました🤒


すると、三年後に病が治りました🙄


その後承和五年(838)には遣唐使とともに入唐し、開元寺にて宗叡に梵書、全雅に灌頂を受け、たくさんの経論や曼荼羅、仏舎利などを携えて、唐の開成4年(839)に帰朝しようとしました
しかしこの時は帰朝に失敗してしまい🌊、中国の五台山に登りました

この時、五台山にて円仁は志遠から『摩訶止観』を受けました

また開成5年には五台山竹林寺の般舟道場をを訪れ、法照和尚が修する法照の念仏三昧と出会いました(円仁は、中国で密教も学んでおり、真言に負けないほど密教も重視していました…がそれはさておき)

円仁は法照流の念仏を日本に持ち帰っています

法照は白蓮社の慧遠を慕い廬山を訪ね、五会念仏の法を会得しました
その後法照は五台山に入り、インド王舎城の竹林精舎に擬して竹林寺を創建し念仏のため般舟道場を構えました
円仁はこの五台山竹林寺の般舟道場を訪れ、わずか二週間で法照流の五会念仏を会得したのです


円仁は承和14年に帰朝し、仁寿元年(851)には弟子たちに法照流の念仏を伝えています

この法照流の五会念仏は、慧遠(えおん、324-416)の流れを汲み、 善導の思想などを盛り込んだ浄土教的な念仏行法でした
その特徴は念仏の中心に『阿弥陀経』をすえ、音楽的な曲調
による引声念仏が基本でした


これは最澄が持ち帰った本来の『摩訶止観』所説の般舟三昧経による常行三昧(上記3❷)とは異なるものです(最澄の本来の常行三昧は阿弥陀を正念することに終始する天台の行法)


この経緯を見ると、天台宗から浄土信仰が生まれた ことのいきさつの一端がわかるようです
(歴史の教科書では、密教は天台宗と真言宗と 簡単に分けているけど←「てんさい、しんくう」って覚えるんだよね…しかし、そんなに綺麗さっぱり単純な話でもないってことだね…だって、天台宗って浄土教の始まりなんだから!)


ここまでをまとめると
   智顗によって説かれた摩訶止観は奈良時代に鑑真により日本に請来されていた
→最澄は比叡山で摩訶止観を研学したのち、入唐した
→最澄は、唐で摩訶止観の必要を授けられ、帰朝してからは天台宗を開き摩訶止観の四種三昧のうち法華三昧を行うための法華堂を開いた
→しかし、引き続き他の堂の建築をするよりも大乗戒壇の設立を優先したため、法華堂以外建てることができなかった
→最澄の弟子円仁は、最澄に学んだが病気になり横川で死にそうになった
→しかし病気が治ったので入唐 し、五台山竹林寺で法照流五会念仏を会得した
→法照流の念仏は善導の思想が入る浄土教的なもので、引声念仏である♩
→円仁は法照流の五会念仏を日本に持ち帰った


もし最澄が常行堂の建設までなしえていたとしたら、摩訶止観に基づく(3❷の)常行堂が完成したと思われますが、

実際は円仁が音律を特徴とする五会念仏を持ってきたために、歌声(?)の響く常行堂となったともいえるのでしょうね(むしろ円仁グッジョブだよね✨)


この五会念仏が浄土教の流れを引くことは述べましたが、だからと言ってすぐさま浄土信仰と直接結びつくかというと、そうでもないようです(ややこしくなってきた
…)




5 常行堂の成立

仁寿元年(851)に円仁は法照流の念仏を伝えましたが、ただちに常行堂が建てられたかどうかについては史料に乏しく詳細がわからないようです

初めて常行三昧堂が建てられた場所は虚空蔵尾(一乗止観院のあったところ)ですが(年不詳)、
この建物は、円仁の没後元慶七年(883)に円仁の遺命により弟子の相応講堂の北に移建しました

この移建については、いろいろ疑問があります

そもそも円仁が常行堂を仁寿元年ごろに建てたのかどうか

・なぜ虚空蔵尾の中心地ではダメで講堂北に移されたのか 、また、

・先に最澄が建てた法華堂との位置関係はどうなっているのかなど謎だと思いませんか?


このように様々な謎があるように思えますが、いずれにしても、(一番はじめに書いたように)比叡山以降の多くの天台寺院が「常行堂と法華堂」をセットにして建てたのは、比叡山から引き継がれた伽藍配置の伝統であるといえるようです




さてこの常行堂ですが、比叡山の中で東塔、西塔、横川の三塔全てにおいて建設されました
いずれの建物も「方五間の宝形造り」ですが、中に祀られた阿弥陀と脇侍の4尊の解釈をめぐりこいろいろめんどくさくかち面白い話が展開しますので、どうぞお付き合いください


まず、三塔に置かれた仏像構成について、2つの史料の記述をもとにまとめてみます
❶東塔常行三昧堂
これは上に記述した、元慶元年(883)相応により講堂北に移建された常行堂です
建物は現存しませんが、 『覚禅鈔』によれば内部には金剛界宝冠阿弥陀如来をまつり、阿弥陀の周りには四親近菩薩(金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛因菩薩、金剛語菩薩)を祀るお堂であったそうです(円仁請来金剛界八十一尊曼荼羅の西方諸尊を典拠とする密教尊)

他方、 『山門堂舎記』によれば、阿弥陀を囲んでいたのは、四摂菩薩(観音菩薩・勢至菩薩・地蔵菩薩・龍樹菩薩)であると記されていますが、一般的にはこの『山門堂舎記』の記述は誤り であると考えられています

金剛界八十一尊曼荼羅について

http://naranouchi.blog.jp/archives/49138489.html


❷西塔常行堂
寛平5年(893)、増命により建てられたもので、内部の阿弥陀如来はやはり金剛界宝冠阿弥陀如来、周囲を取り囲んでいたのは四親近で、❶と同じ構成です(『覚禅鈔』)


なお、現在西塔には「担い堂」として、常行堂と法華堂が仲良く並んで立っていますが、担い堂は当時この場所にあったかどうかも不明だそうで、現行の担い堂は信長の焼き討ちの後、文禄四年(1595)再建のものだそうです


❸横川常行堂
横川は円仁が天長10年(833)ごろ病気になって蟄居し草庵を結んだ場所であることは前の方に書きましたが、嘉祥元年(848)に首楞厳院、天暦8年(954)には楞厳三昧院(講堂・法華堂・常行堂)が九条師輔により建てられ、常行三昧・法華三昧は康保5年(968)に慈覚大師良源により始められています

『覚禅鈔』には、やはり❶❷と同様に、宝冠阿弥陀と四親近菩薩があったと記されていますが、他方『山門堂舎記』には、阿弥陀四摂菩薩(観音菩薩・勢至菩薩・地蔵菩薩・龍樹菩薩)が安置されたとあり(なぜか❸に限っては)『山門堂舎記』の記述を信用して、阿弥陀と四摂菩薩の組み合わせが横川で登場したと考えるようです


◉脇侍の変化と解釈

東塔・西塔  四親近菩薩(金剛界の法利因語)

               (『覚禅鈔』による)

       ↓

横川   四摂菩薩(観音勢至地蔵龍樹)

               (『山門堂舎記』による)


この組み合わせの変化の意味するところは、
横川常行堂において密教的五尊像から浄土教的五尊像への移行があったということです


たしかに時代的には、985年に恵心僧都源信が『往生要集』を著すなど世の中が浄土教信仰へ大きく傾く転換期にあり、比叡山三塔において同じ常行堂でも仏像構成や思想的背景が時代の流れとともに尊像構成が変化したと考えられるかもしれません



6 阿弥陀五尊をめぐる解釈

比叡山東塔・西塔と横川に常行堂が建てられた時代は、東塔・西塔の二つが9世紀末であるのに対し、横川は10世紀後半と時間に開きがあります

それぞれの時代背景を考慮すれば、東塔・西塔が密教的五尊構成であるのに対して、横川の時代には(とくに横川には首楞厳院があったり源信や慶滋保胤がいたりした…)浄土教的五尊構成になったという解釈はしっくりくるのです

しかし、そうすると何故東塔と西塔の二つについては『覚禅鈔』に書かれたことを信用して『山門堂舎記』の内容だけを間違いとしているのに対し、

横川に関する記述では正反対に『覚禅鈔』はダメで『山門堂舎記』が信用できてとなるのでしょうか?


史料の信用状況(◯は信用、×は信用しない)        

東塔   『覚禅鈔』 ◯、『山門堂舎記』×

西塔   『覚禅鈔』◯、『山門堂舎記』×

横川    『覚禅鈔』×、『山門堂舎記』◯

(書かれている内容はすべて同じで、阿弥陀五尊の脇侍4体は「四親近」とある)


これではまるで解釈が先にありきの御都合主義なのでは?と思うのは私だけでしょうか?


だって、上二つでは信用したという史料について(そう言った舌もまだ乾かないうちに)最後の一つについては「信用できん」っていう、手のひら返しの解釈ってどういうことよ?って思いませんか?




で、実は、この解釈については違う意見もあるのです
それは、この件につき『覚禅鈔』の記述を全部信用し、三塔とも

「中尊は宝冠阿弥陀如来、脇侍四菩薩は法利因語の四親近菩薩である」

と統一して解釈する意見です…こっちの方がよっぽど合理的で素直な読み方に思われます


でも、そのように解釈すると、今度は横川の時代には浄土教があんなにさかんなのに横川の仏像まで「密教尊の四親近菩薩」と画一的に解釈するのはどういうこと?天台浄土教はどうなるの?という反論が出そうです


🙄どうしましょう?

これについても解決策が準備されています

それは「あまり厳格に文献を解釈しなくてもいい」という方法です

どういうことかというと、一般的に横川の時代すなわち平安時代後期には、すでに「四菩薩の名称」が混乱して使われていることが、他の資料からわかるため、本件についてもコンランして書いちゃった…というように解釈するのだという方法です

(このようなコンランは鎌倉時代になってもあったそう)


だから『覚禅鈔』のワンパターンな記述(阿弥陀+法利因語)も、コンランして書いてあるだけだからオッケー👌ということになるようです


そしてこのような考え方をとる本を読み進めていくと、

従来説が横川常行堂をもって密教的から浄土教的な五尊像に変容したという説具体例として取り上げられる保安寺阿弥陀五尊像については、このように言っています(保安寺と奈良博で保管ですが、最近奈良博で五体揃ったのを見ましたね)


↓保安寺阿弥陀五尊像

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↑中尊は定印、螺髪、偏袒右肩
従来説では、周りに観音勢至、地蔵龍樹が取り囲んでいるのは、横川の常行堂形式によるというか 


この保安寺の五尊像について、上にあげた説をとる論者は、この五尊の作風が阿弥陀・勢至菩薩とその他三体には違いが認められるとから、当初からの組み合わせとは言いがたく従来説のいう阿弥陀+観音勢至地蔵龍樹とは考えられないということになるようです


また、『覚禅鈔』の記述については、信頼性が高いので、(横川とか保安寺とか言うまでもなく)そもそも横川流の「阿弥陀+観音勢至地蔵龍樹」なんて形式は存在しなかったということになります




ん?🧐ちょ待てよ…🤔🤔

平安時代後期には、脇侍の呼び方にコンランがあるのはわかりました

だから、たとえ覚禅鈔で「四親近」と書いてあっても、それはコンランした書き方だったからホントは四親近ではなく「四摂菩薩」すなわち観音勢至地蔵龍樹である!という解釈が成り立つ…ということではなかったの?


覚禅鈔が信用できるということだけ取り上げて、呼び方にコンランがあったことを途中で却下してしまったら、「横川も密教尊」ってことになっちゃうんじゃないのかしら?


😳💦 皆さん、ついてきてますか?




この問題は、さらに

「阿弥陀如来の五尊形式から三尊へ、そして独尊へ…という流れになるという問題」

それに絡めて

「阿弥陀の印相の変遷の問題(転法輪印から定印へという問題)」にも発展します

(あ、阿弥陀の印相について、まだ、「江戸より前の阿弥陀如来の印相も九品に分かれる」とか言ってる人がいるけど、それ間違いですからね!)


阿弥陀如来についてはごちゃごちゃした問題がいろいろあり、どうもスッキリしないので、また「いつか」考えてみたいと思います(「いつか」は、やって来るのだろうか?)


参考文献、図書
濱島正次『図説日本の仏教3 浄土教』新潮社
濱田隆  『極楽への憧憬 浄土教絵画の展開』 美術選書











テレビで厚切りなんとか言う人が言ってたんだけど……
「七転び八起き」って、よく考えたら、
「七転び」したら「七起き」で足りるって!

ホントだ!目からウロコ!
どうして、今まで気づかなかったんだろう?






比叡山の東塔西塔、そして青龍寺に行ったところまで書きましたが

ようやく横川です

もう、この、横川って響きが好きで、ここまで絶対辿り着きたかったんです

西塔から四キロ北にあるそうです


青龍寺で時間を消費していたので、
急ぎたい!急いでみなさん!


……と思ってたのに、みんな、横川入り口で お祭り に引っかかっちゃった……(^◇^;)
みんな、クジ引きに並び始めちゃった……

関西に住むみなさんは、いつでも来られるけど、鎌倉から初めて比叡山に来ている私は三塔全部1日で全部見たい!先に進みたい!クジ引きはどーでもよい!


と、ここで、おじさんズもせっかちのようで、また私と3人で、若い衆をおいて先行します
ちなみに、クジ引きでは、苗木を当てた人が2名もいました!
(一人の男の子は、下宿なので、かえって困っていました)




冬期はお寺は4時閉門が多いですよね


この時すでに、3時20分くらいだったと思うんです

気分は焦る!



横川について

横川を開いたのは円仁で、後に良源により整備されました

円仁は、15歳で最澄に弟子入り、二十年余の籠山ののち、関東に巡行し、再び叡山に戻りました

そのころ、円仁は体が衰弱し、死を予感したため、横川に隠棲して草庵を建てました

その後、お薬が劇的に効いて 、円仁は回復しました!

これを機に法華経写経を始め、一宇を建立しました これが、横川首楞厳院(しゅりょうごんいん)です

その後、円仁は、入唐します(どんだけ、回復したんだか!)






横川中堂~荒波に浮かぶ遣唐使船の形
 


このお堂は円仁帰朝後、848年に開創されました

円仁が入唐の際に遭難しそうになった船中で観音を祈ったところ、毘沙門天が現れ嵐がおさまったので、帰朝後自作の聖観音を本尊にすえ、脇に毘沙門天を置いたそうです(円仁は、病気にも、嵐にも打ち勝つ、強運の持ち主なんですね)

後に良源が不動明王を加えたそうです



その後、建物は、信長の焼き討ちで焼失(信長ったらもう・・)
慶長年間に再建、昭和17年の雷で焼失、昭和46年に伝教大師1150年大遠忌を記念して復元されたそうです



建物は、創建当時の様式を踏襲し、屋根の形は遣唐使船の形になぞらえ、荒波に浮かぶ船形で、舞台造りです


円仁作といわれる本尊聖観音は、写真撮影できませんでしたが、腰を左に曲げて立つ、優美な観音様でした

この聖観音は戦火をまぬがれ、四季講堂に仮奉安されていましたが、昭和46年に横川中堂に戻されたそうです




お堂内部には、ミニ西国観音霊場もあり、篤く信仰されてきたお寺だけあって、雰囲気が濃い






さて次、

恵心院(華台院)~拝観可能になっていました!(o^∇^o)ノ(うれしい)

 

↑説明板を抜き書きすると・・
「恵心僧都の旧跡で、藤原兼家が元三慈恵大師(良源)のために建立した寺です。……
恵心僧都は恵心院に篭り、仏道修行と多くの著述に専念され、有名な「往生要集」や「二十五三昧式」……を著し、浄土教の基礎を築かれました。……」

と、あります



そうです!
恵心院といえば、恵心僧都源信
 


源信については



ここ恵心院は、源信が初めて念仏三昧行を修したお堂です


入口には、
南無阿弥陀仏 の石柱        ➡︎こっちだよの看板も
石柱には、「南無阿弥陀仏」の六字名号と、側面には源信の命日「六月十日」が刻まれているそうです(ピントがあまくて良く見えないのが残念)




簡素なお堂が見えてきました



中には阿弥陀如来立像
よっこらしょ (´∀`*)


お堂公開期間中は、バイト?のおばあさんが中を守っておられました

堂内のスペースが狭くて、みんな入るとギュウギュウになりました



そういえば、源氏物語にも、横川僧都という名前は時々出てきましたよね


恵心僧都について、各種の文章や、『往生要集』だけでなく
実際の恵心院を訪れたり、
源氏物語の中にもその名前を確認できるということは、

「その人が本当にその時代にこの場所にいたんだ」ということを実感して再確認することになり

こういうことが、学んでいることの喜びにつながるのだと思うのです!




恵心院のバイト?のおばあさんの話が意外にながくて、

時計を見ると15時50分!ひゃ~ 急げ急げ!




四季講堂
 

慈恵大師良源(元三大師)の住房、定心房と呼ばれていた場所です

良源についてはこちら

良源は毎年春夏秋冬ここで、大乗経典を講じ、横川の学徒をあつめて論議を行いました
そのため、ここは四季講堂と呼ばれました

始めは弥勒菩薩を本尊としていましたが、現在は元三大師を本尊にしているため、元三大師堂、「横川のお大師ささん」と呼ばれているそうです

良源は、角大師、おみくじ創始者として、知られています


角大師
 
これを、玄関の、外から見える場所に貼っておくと、いいそうですよ
(小さいサイズを一枚買いました)

角大師についてはこちら





このあたり、すっかり落葉の風景
なんとなく、心寂しい感じがしますね







そして、もう一息頑張る!


比叡山四大魔所の一つ

元三大師御廟(良源のお墓)
良源は霊力が強く、別名「降魔大師」というそうです

その良源のお墓は横川の一番奥にありました

ここは、鳥居があるんですよね~なんでだろう?



くぐりま~す




こわい~




すでに四時をまわっていましたが、 このあたりだけで
「ぐえっ、ぐえっ」という鳥の声が降ってきて
変な雰囲気・・・Σ(゚д゚;)


さすが、四大魔所と呼ばれるだけのことはあると
妙に納得してしまいました





急いで、駐車場に戻ります







横川駐車場で、日は暮れてしまいました



このあと、京都に戻る途中に見えた大津の町は明かりがちらほら


ここから、鎌倉まで帰るのは、私だけ


まるで、子供のころ、遠くの公園までいって日が暮れそうになって
あわてて家路についた時のような心持になりました





・・・・が、京都駅の新幹線乗り場はそんな郷愁をふっ飛ばす人出


お土産売り場もお弁当売り場も、見たことのないほどの長蛇の列


大きなカブまで並べて売られていました(買おうかと思ったけど、たいそうな荷物になってしまうのでやめました)






苦労して買ったお弁当はこれ↓



 

帰りの新幹線の中で、いただきましたよ




京都駅で買うお弁当は、楽しいですね

家には、定番「柿の葉寿司」を買いました



日帰りで参加した比叡山行きは
自力では回り切れないような盛りだくさんのコースでした


今まで、しり込みして行ったことがなかったのですが
思い切って参加して、大変に勉強になりました


特に、密教的な観点からというよりは
浄土教が起こる起点になった場所という意味で
私には感慨深いものでした

やっぱり、こってりした密教よりも、
あっさりした浄土教のほうが、好みかも!?






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比叡山延暦寺に行った話を書いています
延暦寺HP


昨日書いた東塔の後、西塔、青龍寺、横川と1日で回ったのですが、
西塔の記事の前に、
常行堂  阿弥陀仏  について書きたいと思います
(現存しない昔の話なんですが、私が浄土教美術を学んでいるので、ここはふれたいところなのです)


延暦寺は、前述のとおり、東塔・西塔・横川(よかわ) の三つから成り立っていますが、昔々、この3ヶ所にはそれぞれに常行堂 があり、阿弥陀とその他の菩薩が安置されていました

この常行堂の仏像構成には、
時代とともに微妙な変化があったようなの です

その変化は、当時の信仰が密教から浄土教へ移り変わった流れを映すものだと考えられます

それはどういうことか具体的に見てみます

1 最澄の法華三昧堂

最澄





























最澄は、天台行法の一環(魔訶止観)の四種三昧(常座三昧、常行三昧、半行半坐三昧、非行非坐三昧)を中国からもたらしました
 帰朝後、彼は四種それぞれの行法のために、四つのお堂を建てることなく法華三昧堂のみを建てたところで没してしまいました


2 円仁の常行堂

円仁

























最澄の弟子円仁(慈覚大師)は、入唐している間に五台山竹林寺というところで、法照流の五会念仏(具体的な内容はよくわかってないらしい)に出会い、日本に持ち帰りました

これは、最澄の持ち帰った天台行法とは少し異なり、善導の思想などを盛り込んだ浄土教的な念仏行法だったらしいです(善導については、アメブロ時代の記事、当麻寺のところで言及しています

→ 2015/4/18当麻寺のまとめ~二上山と中将姫物語 )



善導

















円仁は承和15年(848)に比叡山上に常行三昧堂を営みました
そして、仁寿元年(851)には、常行三昧をはじめました




3 東塔常行三昧堂

円仁の没後、元慶元年(883)に、弟子の相応(831~918)は、常行堂を講堂の北に移建しました

これが、比叡山東塔常行三昧堂です

常行三昧で、お堂の内部中央の阿弥陀の周りをぐるぐると回るため、その造りは方五間の宝形造で、内部には宝冠の阿弥陀如来と、四親近菩薩が安置されました(『覚禅鈔』)
なお、『山門堂舎記』には、阿弥陀を取り囲むのは「四摂菩薩」とありますが、これは間違いと考えられています

この四親近菩薩というのは、密教の金剛界曼荼羅成身会(じょうしんね)で中央の大日如来を囲む四仏(阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就)を囲む四体のことです
四仏それぞれ
に四体が取り囲み、計16体となります


具体的に見ると

金剛界曼荼羅(現図曼荼羅のうちの金剛界)























上の絵の
各部屋はこうなってます




















一番真ん中の部屋が、成身会


では、成身会を拡大すると……




中央の大日如来を、阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就が囲んでいます
この5体が、五仏

方角は、図の上が西となり、西にいらっしゃるのが阿弥陀(西方浄土)


その阿弥陀を取り囲む、法、利、因、語が、阿弥陀の四親近

 







四親近×四仏=16体の親近菩薩ですよね
(大日を囲む4体だけは、四波羅蜜と呼ばれる)

東塔常行堂には、この阿弥陀と四親近が安置されていたと考えられます              



東塔の阿弥陀は螺髪ではなく、宝冠を被った阿弥陀で、これは、円仁請来曼荼羅(根津美術館本)と同じ形式です


円仁請来阿弥陀八十一尊曼荼羅(成身会の部分だけから成る曼荼羅)
























阿弥陀は、宝冠をかぶっています













 








こちらは、現図曼荼羅金剛界成身会の阿弥陀如来〜螺髪です




















曼荼羅と、根津美術館本については、アメブロの過去記事

●壁の話


東塔常行堂の四方の壁には九品の浄土と大師像が描かれていたそうです



4 西塔常行堂
西塔常行堂は、増命(841~927)によって、寛平5年(893)によって建てられました

同じように正方形の平面を持つ宝形造り で、同じ構成の仏像が安置されていたようです

延長5年(927)には、増命によって4面壁や柱に極楽浄土の絵が描かれたそうです
(丁度、増命の没年は意味があるのか?)



西塔では、現在は、常行堂と法華堂が並んで建ち、
にない堂とよばれています










建物は後の時代のものです



5 横川常行三昧堂


横川の注目点は、阿弥陀を取り囲む仏像の構成が変わる ことです

康保5年(968)ころ、慈慧大師良源(912~985)が横川に常行三昧堂を営みました

良源















http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/0905.html



ここに、東塔西塔横川の三塔の常行堂が完成しました

横川常行堂の特長は、阿弥陀を囲む四体が、四親近ではなく観音、勢至、地蔵、龍樹となったことです(「山門堂舎記」)
これは、仏像 の構成が浄土教的に移行したということを意味します


平安時代は、大きく前期と後期に分けられ、
前期に盛んに信仰された仏教は、密教
後期になると、末法到来(1052)にむけて、浄土教信仰がさかんになります

 
比叡山三塔での、阿弥陀を囲む仏たちの構成の変化は、密教的な五尊像から浄土教的な五尊像へ移行した  ことを意味すると考えられています

この傾向は、比叡山だけでなく、ほかの寺でもみられるんですよ
                                                                   



以上、常行堂と阿弥陀についての記事でした



次回こそ、西塔の記事にしますね









私は鎌倉に住んでいますが、過日、学友たちがマイクロバスで比叡山に行くという話を聞いて、

日帰り参加することにしました



新幹線は予想通りに混んでいて、偶然キャンセルが出た早朝の「のぞみ」の指定券をゲットし、
京都に向けて出発!

某所に集合し、初めて比叡山に行きました




予想よりも気温は高かった
image




比叡山の文字が見えた時は感動しました!!






















午前中ですが、幻想的な風景です























琵琶湖と大津?の町が見える


















比叡山には、東塔・西塔・横川の三塔があります

今回のツアーはこの三塔および、青龍寺に行くツアーです(この青龍寺が予想以上に大変すぎた )



まずは

東塔に到着し、歩き始めました


































東塔は、
延暦寺発祥の地で、根本中堂を中心に、大講堂、法華総持院、戒壇院などの建物があります



一隅を照らそう  ・・ 比叡山を開いた最澄の著書『山家学生式』に書かれた言葉だそうです
(「一隅を照らす此れ即ち国宝なり」と書いてあるそう)






























天台宗では、「一隅を照らす運動」というものがあるようですよ
こちらをどうぞ↓(天台宗「一隅を照らす運動」)
http://ichigu.net/person/



まず、
大講堂に来ました











建物は、昭和の建築ですが、本尊は胎蔵界大日如来、比叡山で修業した法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など(みんなここで修行したんだね~)の各宗祖師の木像が奉安されています


そもそもの創建は、天長元年(824)、初代座主義真が戒壇院付属勅使宿所として創建、のち大講堂として僧侶の学問研鑚の本道場として発展し、慈恵大師良源が始めた「法華大会広学竪義」「天台法華十講」などの論議が行われる場所となりました

竪義がおこなわれるため、須弥壇の左右に大きな椅子が左右に置かれていますよ

広学竪義の様子





さて、根本中堂にやってきました




















根本中堂は、
「東塔の中心であるだけでなく、比叡山第一の総本堂でもある。伝教大師最澄は、延暦7年(788)に一乗止観院(現在の根本中堂)を創建し、自ら刻んだ薬師如来像を安置して比叡山寺と号した。これが延暦寺のはじまりである。」
(お寺発行の有料パンフレットより)

本尊薬師は、最澄が一刀三礼しながら(どんだけ時間がかかるものやら)、彫りあげたもので、秘仏です 

最澄は、「明らけく のちの仏の御代までも 光り伝えよ 法のともしび」と祈ったそうです 

この秘仏の前には、開創以来の「不滅の法灯」が1200年の時を超えて輝き続けています(春日大社の灯篭みたいな形でしたよ) 



現在の建物は、江戸時代1642年のものだそうです


内部はコの字型になっていて、この時は内部の廊下に上手なお習字がたくさん張られていました

コの字の奥に須弥壇のある内陣(3メートルも低い)と中陣(高い)があり、参拝者は中陣から内陣を覗きこむ形になります


このお堂は以下のような変遷を辿ったそうです(図は学友作成)




























 













↑ 現在はこのようになっていて、内陣の部分が低くて暗く(もちろんろうそくの火もあって見えますけど)、 
こちら側からは覗きこむ感じです 


具体的な配置は、↓ このようになっているようです(全部見えるというわけでもありません) 
















次、 
文殊楼院 に、階段をのぼります 

































急な階段です 


昔、メキシコのカンクンで上ったピラミッドを思い出しました(あまりに急な石段で、上るのはいいけど降りられなかったわ) 



これは昇るのも大変なのに、階段の途中で「新内閣」みたいに集合写真をとるという「あらわざ」までしましたよ 































これが、文殊楼院 

























比叡山の総門の役割をはたしているそうです 

写真の通路右側から内部に入ると、はしごみたいな急な階段があり(木製の滑り止めが足つぼマッサージみたいでした)、2階部分に文殊菩薩がいらっしゃいました 


この文殊菩薩は、慈覚大師円仁が唐の五台山で出会った文殊菩薩を、これまた一刀三礼して彫りあげたものを祀っているそうです 

実際に目にすると、文殊菩薩は等身大より小さめ、面長の金色のお顔をした像でした 
文殊の乗る獅子は玉眼入りの愛嬌のある面貌で、その足は五台山の土を踏みしめているそうです 

反対側の階段から下に降りる時、結構怖かったですよ 


東塔へつながる道には、最澄の生涯を描いた絵や 





























































法然上人の絵


















などが、設置されていました 



次は、西塔へ行きますね~ 




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