東大寺と興福寺に行く際の参考資料として、2つの寺の仏像を中心にまとめてみました


人に説明するためのもので、ワードに打ち込んだものをコピペしたために、なんとなく読みづらくて、ブログ仕様に改めようとしましたが、うまくいかず、見苦しい場所が多々あるかと思いますが、少しでもご参考になればと思います




以下↓です



東大寺

◎歴史概要

天平13(741) 聖武天皇、仏教による鎮護国家を目指し全国に国分寺国分尼寺建立の詔を出す

天平15(743) 聖武天皇、大仏造立の詔

          東大寺と本尊盧舎那仏の造立開始

          近江紫香楽宮の近くに甲賀寺を開き大仏造立工事が始められる

天平16(744) 大仏の骨柱立てられる

天平17(745) 都を平常に戻すことに

      大仏造立工事も平城京   の外京東山に

この場所は神亀五年(728)夭折した基王(もといおう)の菩提を弔うた めに建てられた金鐘寺があり、大和国分寺(金光明寺)に定められていた   

⇒大仏造立の地となってからは、東大寺と称されるようになった

      8月  工事着手

天平勝宝4(752)開眼供養(まだ、大仏は鍍金の途中。大仏殿も未完成)

天平宝字元(757)頃、大仏完成

天平宝字4(760)頃まで、主要堂塔の造営終わる

治承4(1180) 平重衡の焼き討ちで堂塔の大部分を焼失、仏像もほとんど救出できず

養和元(1181) 俊乗坊重源、朝廷から造東大寺大勧進職に任ぜられる

           諸国を行脚し勧進。源頼朝の協力な支援を得て復興事業を推進

建治元(1275) 西塔造営(東大寺復興事業完了)

永禄10(1576)兵火で大きな被害

宝永6(1709) 公慶上人勧進、徳川幕府の助成と大衆の協力を得た復興により、

          大仏殿落慶供養

 

◎仏像について

南大門金剛力士像

国宝、南大門、木造、彩色、阿形836.3㎝、吽形842.3㎝、鎌倉時代

ヒノキの寄木造、彩色。瞳には鉛ガラスをはめ込む。

・一般的な配置と左右が逆になっている(法華堂内の金剛力士像と同じ配置)

(向かって右が吽(うん)形、左が阿(あ)形)

・当初は肉身を朱、頭髪を褐色に彩色し、目は胡粉の白眼に墨で瞳を入れ、目尻に朱をさし、裙衣は青系統の繧繝彩色。

 

・制作年代

 『東大寺別当次第』

   治承の兵火後、建仁三年(1203)、運慶と快慶ら20人の仏師により、

   7月24日から10月13日(開眼供養)までの、70日間で造られた。

・作者について

従来、制作者については、吽形がやや無理な姿勢ながら限られた空間に抵抗し、立体感に富んだ迫力のある造形から運慶と考えられ、阿形は限られた空間のなかに自然に収まり、細部まで整理されている造形から快慶の作であると考えられてきた。ところが、平成元年からの解体修理により新たな知見が加えられ、それによれば、吽形像の像内から発見された経巻の奥書に重源他の結縁者の名とともに、大仏師湛慶、定覚の名が記される。他方、阿形像は持物金剛杵内の銘記に「大仏師法眼運慶」、「アン(梵字)阿弥陀仏」(快慶)の名があり、従来の考えとは矛盾する。


 

 

従来の考え

(作風から)

像内銘記

(解体修理により発見)

阿形

快慶

運慶、快慶

吽形

運慶

湛慶、定覚


この矛盾に対して、新しく提唱された解釈

①運慶は惣大仏師として全体を監修、そのため阿形の制作は経験豊かな快慶にまかせた。

②吽形については、運慶が湛慶・定覚を指導した。

③そのため、阿形には快慶の作風が、吽形には運慶の作風が色濃く出た。

 

三月堂(法華堂)

1.執金剛神像(塑像)

1216日(良弁僧正の忌日)のみ公開。

国宝、塑像、彩色、170.4㎝、天平時代

1.制作年代

   ⑴ 耳の形の一致から、戒壇堂四天王像と同一作者と考えられるという説がある。

     これに対しては、「下絵の輪郭線の有無」と「尊格の高低」の矛盾から、同一作者ではなく同一工房の作であるという反対説がある。

   ⑵ 作風などの観点から、制作順は

和銅四年(711)法隆寺五重塔塑像⇒天平六年(734)興福寺十大弟子像・八部衆像

⇒執金剛神像(より細やかな写実表現⇒戒壇堂四天王像(より均斉と調和の取れた表現)

2.『日本霊異記』中巻二十一話との一致

    東大寺建立以前の聖武天皇の時代、奈良の東山に金鷲(こんしゅ)という名の優婆塞(下注)がおり、執金剛神の塑像を祀っていた。その像の脛につけた縄を引いて日夜修行を続けていると、脛から光が放たれて宮中に達し、天皇の知るところとなった。この霊異により、金鷲優婆塞は得度を許されて正式の僧侶となった。この優婆塞ゆかりの像が、今羂索堂(法華堂)の北戸に立つ執金剛神像であるという。

注;東大寺の寺伝によれば、この優婆塞は良弁僧正。本像は良弁の念持仏であるという。

⇒現在、本像の右ふくらはぎには塑土が欠けている箇所があり説話とのかかわりを想像させる。

3.『扶桑略記』などの霊異譚との一致

    平将門の乱(939)に際し、本像に朝敵の調伏を祈願すると、元結紐がたちまち大きな蜂になって、東を目指して飛び去った。その蜂は平将門の軍勢を刺して大敗させた。

   ⇒この伝説に基づき厨子の全面左右の柱火袋に蜂の姿をあしらった灯篭が懸けられている。

 

2.不空羂索観音菩薩立像

国宝、脱活乾漆像、漆箔、362.0㎝、天平時代

雑密経典『不空羂索経』の教説に従い、鹿皮衣(ろくひい)をまとい、三目八臂。

銀製宝冠。連弁型の放射光。六重の蓮華坐上に直立。

後世光背の支柱が切り縮められたため、頭光の中心が肩の位置に下がっている。当初は頭光と頭部が重なっていた。

 制作年代には諸説あり。いずれにしても天平盛期の代表的作例。

 宝冠は、阿弥陀化仏(銀製鍍金)、翡翠・琥珀・水晶・真珠を二万数千個も散りばめた豪華なもの。

 

3.梵天・帝釈天

国宝、脱活乾漆像、彩色、漆箔、梵天402.0㎝、帝釈天403.0㎝、天平時代

法華堂内の梵天・帝釈天・四天王・金剛力士像は、本尊不空羂索観音像に随侍する御法神立像。

梵天・帝釈天は古代インドのヴェーダ神話に登場する神で、のちに仏教に取り入れられ一対の守護神となった。

梵天  バラモン教における世界創造の原理「梵」を人格化した神 

帝釈天 アーリア人の理想の戦士で太陽神とも雷神ともいわれる武勇神。そのため、帝釈天は甲を付けることが多い(法華堂の二像は逆になっている)

どちらも宝冠をつけていたと思われる(頭髪に釘孔がある)

本尊よりも大きいため、本来の脇侍を疑う説もあるが、左右対称の構成や作風からみて一具のものとみて差し支えない。但し、制作時期は本尊よりやや遅れると思われる(大橋)。

4.四天王像

国宝、脱活乾漆、彩色、漆箔、300.0㎝~310.0㎝、天平時代

梵天・帝釈天と同じく、本尊と一具。

5.金剛力士立像

国宝、脱活乾漆、彩色、漆箔、阿形 326.4㎝、吽形 306.0㎝、天平時代

一般的な金剛力士像は上半身裸形で下半身に裳をつけた姿だが、法華堂像は鹿皮の甲をつけた武装形

阿吽が一般的な並びと逆(阿形が左、吽形が右)だが、視線方向からみて当初からこの並び

 

法華堂の本来の安置仏は、梵天、帝釈天、四天王像、金剛力士像の8体と不空羂索観音像とみられる。しかし不空羂索観音像には造形感覚の違いがみられ、制作時期や作者が違うと考えられている。

 

東大寺ミュージアム

伝日光・月光菩薩立像

国宝、旧法華堂所蔵、塑像、彩色、截金、伝日光207.2㎝、伝月光204.8㎝、

天平時代

法華堂では不空羂索観音像の左右に安置されていたが、東大寺ミュージアム建設に伴い移動された。

不空羂索観音像は脱活乾漆だが、伝日光・月光は塑像で材質が異なり、像高のつり合いもとれないことから、三月堂に安置されていた時代も、他堂から移されたものと考えられてきた。像容から、梵天・帝釈天の一対と考えられる。

戒壇堂四天王像と造形感覚が共通するため、同一工房の作品と考えられる(執金剛神像参照)。

 

八角灯籠火袋羽目板音声菩薩像

国宝、奈良時代(8世紀) 

大仏殿正面に立つ八角燈篭の火袋8面のうち4面には音声菩薩が浮き彫りで表現されている。

制作年代については、天平勝宝4年(752)大仏開眼当初とする説、天平宝字以降とする説がある。

東大寺ミュージアム所蔵の音声菩薩はかつて東北面に設置されていた1面であるが、昭和37年2月21日夜に盗難にあい、翌日、上下の縁と右上方を欠損した状態で発見された。

 

 

戒壇堂 

四天王立像

国宝、塑造、160.5㎝~169.9㎝、天平時代

戒壇堂四天王像は、法華堂の塑像(執金剛神像、伝日光・月光菩薩像(現、東大寺ミュージアム所蔵))と、丁寧な塑形、気品のある作風に共通した特徴があるため、同一工房の作かと考えられている(執金剛神像、伝日光・月光参照)。

 

戒壇堂は天平勝宝7年(755)に創建されたが、当初は銅造の四天王像が安置されていた。現在の堂宇は江戸時代の再建、当初の四天王像も失われている。

 

現在の四天王像は天平時代の最高傑作といわれる像であるが、江戸時代に他の堂から移されてきたもの。もとの場所、移された時期は不明。

 

1.配置

前方(南)に持国天、増長天、

後方(北)に広目天、多聞天


 

↑北

 

広目天    多聞天

 

 

   多宝塔

 

 

増長天    持国天

 

↓南

 

 

四天王の見分け方

 東から時計回りに

持国天(東)→増長天(南)→広目天(西)→多聞天(北)

「じ・ぞう・こう・た」とおぼえる。

広目天は巻物と筆を持つ

多聞天は塔を持つ

 多聞天は一体だけ独立すると「毘沙門天」となる。北方を守る。


2.対照表現

⑴体勢

  持国天・増長天  両手を低く構える

  増長天・多聞天  右手を高くかかげる

⑵目の表現

  持国天・増長天  瞋目決眦の忿怒相、持国天は緑色、増長天は黒褐色のガラスを入れる

  広目天・多聞天  眉根を寄せて目をひそめ遠くを見る、目頭切開したようなあり得ない目、

           ロンパリで広い視野を獲得

 ⑶着甲

  持国天・多聞天  花飾りのある丸紐を結ぶ

  増長天・広目天  結び目のある紐

 ⑷邪鬼の向き(左右たすきがけ)

  持国天・広目天  右向き

  増長天・多聞天  左向き

 

開山堂

良弁僧正坐像

 国宝、木造、彩色、92.4㎝、平安時代

 天平勝宝4年(752)大仏開眼供養

  初代東大寺別当

 宝亀4年(773)没 85

 

 ヒノキ、一木造り、内刳りなし

 如意は良弁遺愛の品と伝えられる

 

俊乗堂

重源上人坐像

 国宝、木造、彩色、82.5㎝、鎌倉時代

 南都焼き討ちにあった東大寺の復興のため、61歳で大勧進職についた。

 実際の造寺造仏にもあたり、南大門、大仏殿の建築に大仏様と呼ばれる宋の新様式を採用、

 大仏鋳造には宋の工人陳和卿、諸仏復興に運慶・快慶などの慶派仏師を登用した。

 

 『元亨釈書』に、「源(重源)没して遺像を寺に置く」と記される。鎌倉彫刻の中でも傑出した像は、運慶・快慶などの当代一流の仏師の手になると考えられる。


 

興福寺

◎歴史

興福寺は藤原氏の氏寺。

 

天智8(669) 藤原氏初代鎌足の妻鏡女王が鎌足の発願になる仏像を安置するために建立した山階寺に始まる⇒飛鳥にうつり厩坂寺と称される

和銅3(710) 平安遷都にともない、現在地に移り、興福寺と呼ばれるようになる。

         不比等は中金堂を中心とする伽藍中枢部の造営を行う。

養老4(720) 不比等没。その後、朝廷の力で、諸堂建立。

北円堂(721)、東金堂(726)

天平元(729) 不比等の娘光明子、聖武天皇の皇后となる。光明皇后を仲介に、興福寺と朝廷が強い繋がり。

五重塔(730)、西金堂(734)

藤原四家間の勢力争いを背景に、各家によって諸堂の造営が行われた

弘仁4(813) 南円堂

     ~初期造営、完了~

治承4(1180)平重衡の南都焼き討ちでほぼすべての堂宇を焼失

寛元年間(1243)に再興を終える

明治時代の廃仏毀釈で、鎌倉再建の食堂と細殿が壊され、五重塔(現国宝)も売却、焼かれる寸前。

明治13 公園となり、保存

 

◎仏像

国宝館

1.金剛力士立像

国宝、木造、彩色、阿形154.0㎝、吽形153.7㎝、鎌倉時代

西金堂に安置されていた像は、南都焼き討ちの際に焼失。現存は再興像。

ヒノキの寄木造、玉眼、塑土の上に彩色。慶派。

2.天燈鬼・龍燈鬼立像

国宝、木造、彩色、天燈鬼78.2㎝、龍燈鬼77.8㎝、鎌倉時代

南都焼き討ち後の復興期の作。

西金堂の仏前に置かれた一対。ヒノキの寄木造。内刳り。玉眼。

天燈鬼 肉身は朱、

 

龍燈鬼 肉身は緑。銅版の眉、水晶の牙。

    康弁作(運慶第三子)

3.板彫十二神将像

国宝、木造板彫、彩色、88.9㎝~100.3㎝、平安時代

   当初の場所不明。江戸時代には東金堂にあった。

4.仏頭

国宝、銅造、鍍金、98.3㎝、白鳳時代

旧山田寺仏頭

昭和12年、東金堂の解体修理の際に本尊薬師如来像の台座の下から発見された。

 

1180年の南都焼き討ちで東金堂は焼失したが、元暦2年(1185)に再建された。

   しかし本尊の制作がいっこうに始められなかったために、業を煮やした僧が、山田寺の薬師三尊像を強奪し、東金堂に安置した。山田寺は現在の奈良県桜井市にあった寺で、大化の改新で活躍した孝徳朝の右大臣蘇我倉山田石川麻呂の発願の寺。昭和58年に廻廊部分が発掘された。

石川麻呂は、皇太子(のちの天智天皇)暗殺を企てた罪で大化五年(649)に自殺に追い込まれた。無実の罪が明らかになってから後、寺の造営は天武7年(678)に石川麻呂の孫娘の持統天皇と夫の天武天皇によって継承され、講堂本尊は天武7年(678)鋳造開始、14年に開眼供養。

強奪され、東金堂に移されてのち、応永18年(1411)火災大破し、頭部だけが残り、東金堂再建の後は台座の下に置かれた。

5.十大弟子立像

国宝、脱活乾漆、彩色、天平時代、144.3㎝~152.7㎝

舎利弗・目犍連・須菩提・富楼那・迦旃延・羅睺羅の6体のみ

(西金堂参照)

6.千手観音立像

国宝、木造、漆箔、520.5㎝、鎌倉時代。

もと、食堂の本尊。南都焼き討ちで焼失した食堂の再建の際、1181年に千手観音像は成朝により制作されはじめたが、一時中断し、1217年再開。完成は1229年。

   ヒノキ、寄木造り、玉眼、漆箔。

7.八部衆立像

国宝、脱活乾漆、彩色、148㎝~155.4㎝、天平時代

(西金堂参照)

 

東金堂

神亀3年(726)に、聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒を願って創建。

本尊薬師如来。何度も火災にあい、現在の堂は室町時代の再興。

1.維摩居士・文殊菩薩坐像

国宝、木造、彩色、維摩88.1㎝、文殊94.0㎝、鎌倉時代。

『維摩経』 中インド毘舎離国に維摩と言う長者がいて、在俗の身ながら菩薩行を修め神通力をもっていた。維摩が病気で倒れた時、釈迦の命令で見舞いに来た文殊菩薩との間で、さまざまな法論が戦わされ、その場面を表したもの。

興福寺維摩会(延暦20年~)の本尊として祀られたらしく、弘仁年間(810~824)には東金堂に安置されていた。現在の像は、1196定慶作。

2.十二神将像

国宝、木造、彩色、113.0㎝~126.3㎝、鎌倉時代

かつて、東金堂には、もと新薬師寺にあった十二神将が安置されていたが、治承の兵火で焼失。その後、これを再興したのが現在の像。

3.日光・月光菩薩立像

現国宝館の旧山田寺仏頭と一具といわれるが、制作年代については仏頭より遅れるといわれる。

 

西金堂

  1.十大弟子像

天平5年(733)光明皇后の母橘三千代の菩提を弔うために造営された西金堂の像。

  『興福寺流記』によれば、一周忌にあたる天平6年(734)完成した西金堂内には、丈六釈迦如来像を中心に脇侍菩薩2体、羅漢10体、羅睺羅・梵天・帝釈天・八部神王・獅子形2体からなる釈迦集会像が安置された(このうち現存は、羅漢10体と、八部神王にあたる十大弟子、八部衆のみ)。

十大弟子は、興福寺では『維摩経』弟子品に登場する十弟子の名称にしたがう。

寺に伝わるのは、舎利弗・目犍連・須菩提・富楼那・迦旃延・羅睺羅の6体のみ(残り4体(摩訶迦葉・阿那律・優婆離・阿難)のうち二体は東芸大と某家所蔵、優婆離は焼失、一体は所在不明)。明治時代に10体そろった写真あり。

 

  2.八部衆立像

   十大弟子同様、天平6年(743)の西金堂完成当初から釈迦集会像を後世する仏像群の一部として安置されていたもの。  

様式技法は十大弟子とほぼ同じ。同じグループの仏師による制作。

寺伝(江戸時代)では、阿修羅・五部浄・沙羯羅・乾闥婆・迦楼羅・緊那羅・鳩槃荼・畢婆迦羅とするが、当初とは考えられない。『法華経』『金光明最勝王経』に登場する八部衆は、天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅迦の八尊であり、本来の名称と考えられる。

インド古来の神が仏教に取り入れられ、仏法守護神となったため、興福寺像も阿修羅以外はすべて甲冑をつけた神将像の形となる。

 

・再建された中金堂は、平成30年、落慶供養。

 

参考資料

大橋一章・森野勝『大和路のみ仏たち』グラフ社、2009、1500円

水野敬三郎監修『日本仏像史』美術出版社、2001、2500円