はなこの仏像大好きブログ

奈良、鎌倉、京都、古美術、そして、日常の生活などを取り上げて書いて行きたいと思っています。 よろしくお願いします。 主婦、母ですが、通信制大学院の学生でもある、アラフィフおばさんです。

奈良や古美術が好きな主婦のブログです。

アメブロ『奈良大好き主婦日記』
http://s.ameblo.jp/naranouchi/

と並行して書いています。

よろしくお願いします。

東大寺


東大寺と興福寺に行く際の参考資料として、2つの寺の仏像を中心にまとめてみました


人に説明するためのもので、ワードに打ち込んだものをコピペしたために、なんとなく読みづらくて、ブログ仕様に改めようとしましたが、うまくいかず、見苦しい場所が多々あるかと思いますが、少しでもご参考になればと思います




以下↓です



東大寺

◎歴史概要

天平13(741) 聖武天皇、仏教による鎮護国家を目指し全国に国分寺国分尼寺建立の詔を出す

天平15(743) 聖武天皇、大仏造立の詔

          東大寺と本尊盧舎那仏の造立開始

          近江紫香楽宮の近くに甲賀寺を開き大仏造立工事が始められる

天平16(744) 大仏の骨柱立てられる

天平17(745) 都を平常に戻すことに

      大仏造立工事も平城京   の外京東山に

この場所は神亀五年(728)夭折した基王(もといおう)の菩提を弔うた めに建てられた金鐘寺があり、大和国分寺(金光明寺)に定められていた   

⇒大仏造立の地となってからは、東大寺と称されるようになった

      8月  工事着手

天平勝宝4(752)開眼供養(まだ、大仏は鍍金の途中。大仏殿も未完成)

天平宝字元(757)頃、大仏完成

天平宝字4(760)頃まで、主要堂塔の造営終わる

治承4(1180) 平重衡の焼き討ちで堂塔の大部分を焼失、仏像もほとんど救出できず

養和元(1181) 俊乗坊重源、朝廷から造東大寺大勧進職に任ぜられる

           諸国を行脚し勧進。源頼朝の協力な支援を得て復興事業を推進

建治元(1275) 西塔造営(東大寺復興事業完了)

永禄10(1576)兵火で大きな被害

宝永6(1709) 公慶上人勧進、徳川幕府の助成と大衆の協力を得た復興により、

          大仏殿落慶供養

 

◎仏像について

南大門金剛力士像

国宝、南大門、木造、彩色、阿形836.3㎝、吽形842.3㎝、鎌倉時代

ヒノキの寄木造、彩色。瞳には鉛ガラスをはめ込む。

・一般的な配置と左右が逆になっている(法華堂内の金剛力士像と同じ配置)

(向かって右が吽(うん)形、左が阿(あ)形)

・当初は肉身を朱、頭髪を褐色に彩色し、目は胡粉の白眼に墨で瞳を入れ、目尻に朱をさし、裙衣は青系統の繧繝彩色。

 

・制作年代

 『東大寺別当次第』

   治承の兵火後、建仁三年(1203)、運慶と快慶ら20人の仏師により、

   7月24日から10月13日(開眼供養)までの、70日間で造られた。

・作者について

従来、制作者については、吽形がやや無理な姿勢ながら限られた空間に抵抗し、立体感に富んだ迫力のある造形から運慶と考えられ、阿形は限られた空間のなかに自然に収まり、細部まで整理されている造形から快慶の作であると考えられてきた。ところが、平成元年からの解体修理により新たな知見が加えられ、それによれば、吽形像の像内から発見された経巻の奥書に重源他の結縁者の名とともに、大仏師湛慶、定覚の名が記される。他方、阿形像は持物金剛杵内の銘記に「大仏師法眼運慶」、「アン(梵字)阿弥陀仏」(快慶)の名があり、従来の考えとは矛盾する。


 

 

従来の考え

(作風から)

像内銘記

(解体修理により発見)

阿形

快慶

運慶、快慶

吽形

運慶

湛慶、定覚


この矛盾に対して、新しく提唱された解釈

①運慶は惣大仏師として全体を監修、そのため阿形の制作は経験豊かな快慶にまかせた。

②吽形については、運慶が湛慶・定覚を指導した。

③そのため、阿形には快慶の作風が、吽形には運慶の作風が色濃く出た。

 

三月堂(法華堂)

1.執金剛神像(塑像)

1216日(良弁僧正の忌日)のみ公開。

国宝、塑像、彩色、170.4㎝、天平時代

1.制作年代

   ⑴ 耳の形の一致から、戒壇堂四天王像と同一作者と考えられるという説がある。

     これに対しては、「下絵の輪郭線の有無」と「尊格の高低」の矛盾から、同一作者ではなく同一工房の作であるという反対説がある。

   ⑵ 作風などの観点から、制作順は

和銅四年(711)法隆寺五重塔塑像⇒天平六年(734)興福寺十大弟子像・八部衆像

⇒執金剛神像(より細やかな写実表現⇒戒壇堂四天王像(より均斉と調和の取れた表現)

2.『日本霊異記』中巻二十一話との一致

    東大寺建立以前の聖武天皇の時代、奈良の東山に金鷲(こんしゅ)という名の優婆塞(下注)がおり、執金剛神の塑像を祀っていた。その像の脛につけた縄を引いて日夜修行を続けていると、脛から光が放たれて宮中に達し、天皇の知るところとなった。この霊異により、金鷲優婆塞は得度を許されて正式の僧侶となった。この優婆塞ゆかりの像が、今羂索堂(法華堂)の北戸に立つ執金剛神像であるという。

注;東大寺の寺伝によれば、この優婆塞は良弁僧正。本像は良弁の念持仏であるという。

⇒現在、本像の右ふくらはぎには塑土が欠けている箇所があり説話とのかかわりを想像させる。

3.『扶桑略記』などの霊異譚との一致

    平将門の乱(939)に際し、本像に朝敵の調伏を祈願すると、元結紐がたちまち大きな蜂になって、東を目指して飛び去った。その蜂は平将門の軍勢を刺して大敗させた。

   ⇒この伝説に基づき厨子の全面左右の柱火袋に蜂の姿をあしらった灯篭が懸けられている。

 

2.不空羂索観音菩薩立像

国宝、脱活乾漆像、漆箔、362.0㎝、天平時代

雑密経典『不空羂索経』の教説に従い、鹿皮衣(ろくひい)をまとい、三目八臂。

銀製宝冠。連弁型の放射光。六重の蓮華坐上に直立。

後世光背の支柱が切り縮められたため、頭光の中心が肩の位置に下がっている。当初は頭光と頭部が重なっていた。

 制作年代には諸説あり。いずれにしても天平盛期の代表的作例。

 宝冠は、阿弥陀化仏(銀製鍍金)、翡翠・琥珀・水晶・真珠を二万数千個も散りばめた豪華なもの。

 

3.梵天・帝釈天

国宝、脱活乾漆像、彩色、漆箔、梵天402.0㎝、帝釈天403.0㎝、天平時代

法華堂内の梵天・帝釈天・四天王・金剛力士像は、本尊不空羂索観音像に随侍する御法神立像。

梵天・帝釈天は古代インドのヴェーダ神話に登場する神で、のちに仏教に取り入れられ一対の守護神となった。

梵天  バラモン教における世界創造の原理「梵」を人格化した神 

帝釈天 アーリア人の理想の戦士で太陽神とも雷神ともいわれる武勇神。そのため、帝釈天は甲を付けることが多い(法華堂の二像は逆になっている)

どちらも宝冠をつけていたと思われる(頭髪に釘孔がある)

本尊よりも大きいため、本来の脇侍を疑う説もあるが、左右対称の構成や作風からみて一具のものとみて差し支えない。但し、制作時期は本尊よりやや遅れると思われる(大橋)。

4.四天王像

国宝、脱活乾漆、彩色、漆箔、300.0㎝~310.0㎝、天平時代

梵天・帝釈天と同じく、本尊と一具。

5.金剛力士立像

国宝、脱活乾漆、彩色、漆箔、阿形 326.4㎝、吽形 306.0㎝、天平時代

一般的な金剛力士像は上半身裸形で下半身に裳をつけた姿だが、法華堂像は鹿皮の甲をつけた武装形

阿吽が一般的な並びと逆(阿形が左、吽形が右)だが、視線方向からみて当初からこの並び

 

法華堂の本来の安置仏は、梵天、帝釈天、四天王像、金剛力士像の8体と不空羂索観音像とみられる。しかし不空羂索観音像には造形感覚の違いがみられ、制作時期や作者が違うと考えられている。

 

東大寺ミュージアム

伝日光・月光菩薩立像

国宝、旧法華堂所蔵、塑像、彩色、截金、伝日光207.2㎝、伝月光204.8㎝、

天平時代

法華堂では不空羂索観音像の左右に安置されていたが、東大寺ミュージアム建設に伴い移動された。

不空羂索観音像は脱活乾漆だが、伝日光・月光は塑像で材質が異なり、像高のつり合いもとれないことから、三月堂に安置されていた時代も、他堂から移されたものと考えられてきた。像容から、梵天・帝釈天の一対と考えられる。

戒壇堂四天王像と造形感覚が共通するため、同一工房の作品と考えられる(執金剛神像参照)。

 

八角灯籠火袋羽目板音声菩薩像

国宝、奈良時代(8世紀) 

大仏殿正面に立つ八角燈篭の火袋8面のうち4面には音声菩薩が浮き彫りで表現されている。

制作年代については、天平勝宝4年(752)大仏開眼当初とする説、天平宝字以降とする説がある。

東大寺ミュージアム所蔵の音声菩薩はかつて東北面に設置されていた1面であるが、昭和37年2月21日夜に盗難にあい、翌日、上下の縁と右上方を欠損した状態で発見された。

 

 

戒壇堂 

四天王立像

国宝、塑造、160.5㎝~169.9㎝、天平時代

戒壇堂四天王像は、法華堂の塑像(執金剛神像、伝日光・月光菩薩像(現、東大寺ミュージアム所蔵))と、丁寧な塑形、気品のある作風に共通した特徴があるため、同一工房の作かと考えられている(執金剛神像、伝日光・月光参照)。

 

戒壇堂は天平勝宝7年(755)に創建されたが、当初は銅造の四天王像が安置されていた。現在の堂宇は江戸時代の再建、当初の四天王像も失われている。

 

現在の四天王像は天平時代の最高傑作といわれる像であるが、江戸時代に他の堂から移されてきたもの。もとの場所、移された時期は不明。

 

1.配置

前方(南)に持国天、増長天、

後方(北)に広目天、多聞天


 

↑北

 

広目天    多聞天

 

 

   多宝塔

 

 

増長天    持国天

 

↓南

 

 

四天王の見分け方

 東から時計回りに

持国天(東)→増長天(南)→広目天(西)→多聞天(北)

「じ・ぞう・こう・た」とおぼえる。

広目天は巻物と筆を持つ

多聞天は塔を持つ

 多聞天は一体だけ独立すると「毘沙門天」となる。北方を守る。


2.対照表現

⑴体勢

  持国天・増長天  両手を低く構える

  増長天・多聞天  右手を高くかかげる

⑵目の表現

  持国天・増長天  瞋目決眦の忿怒相、持国天は緑色、増長天は黒褐色のガラスを入れる

  広目天・多聞天  眉根を寄せて目をひそめ遠くを見る、目頭切開したようなあり得ない目、

           ロンパリで広い視野を獲得

 ⑶着甲

  持国天・多聞天  花飾りのある丸紐を結ぶ

  増長天・広目天  結び目のある紐

 ⑷邪鬼の向き(左右たすきがけ)

  持国天・広目天  右向き

  増長天・多聞天  左向き

 

開山堂

良弁僧正坐像

 国宝、木造、彩色、92.4㎝、平安時代

 天平勝宝4年(752)大仏開眼供養

  初代東大寺別当

 宝亀4年(773)没 85

 

 ヒノキ、一木造り、内刳りなし

 如意は良弁遺愛の品と伝えられる

 

俊乗堂

重源上人坐像

 国宝、木造、彩色、82.5㎝、鎌倉時代

 南都焼き討ちにあった東大寺の復興のため、61歳で大勧進職についた。

 実際の造寺造仏にもあたり、南大門、大仏殿の建築に大仏様と呼ばれる宋の新様式を採用、

 大仏鋳造には宋の工人陳和卿、諸仏復興に運慶・快慶などの慶派仏師を登用した。

 

 『元亨釈書』に、「源(重源)没して遺像を寺に置く」と記される。鎌倉彫刻の中でも傑出した像は、運慶・快慶などの当代一流の仏師の手になると考えられる。


 

興福寺

◎歴史

興福寺は藤原氏の氏寺。

 

天智8(669) 藤原氏初代鎌足の妻鏡女王が鎌足の発願になる仏像を安置するために建立した山階寺に始まる⇒飛鳥にうつり厩坂寺と称される

和銅3(710) 平安遷都にともない、現在地に移り、興福寺と呼ばれるようになる。

         不比等は中金堂を中心とする伽藍中枢部の造営を行う。

養老4(720) 不比等没。その後、朝廷の力で、諸堂建立。

北円堂(721)、東金堂(726)

天平元(729) 不比等の娘光明子、聖武天皇の皇后となる。光明皇后を仲介に、興福寺と朝廷が強い繋がり。

五重塔(730)、西金堂(734)

藤原四家間の勢力争いを背景に、各家によって諸堂の造営が行われた

弘仁4(813) 南円堂

     ~初期造営、完了~

治承4(1180)平重衡の南都焼き討ちでほぼすべての堂宇を焼失

寛元年間(1243)に再興を終える

明治時代の廃仏毀釈で、鎌倉再建の食堂と細殿が壊され、五重塔(現国宝)も売却、焼かれる寸前。

明治13 公園となり、保存

 

◎仏像

国宝館

1.金剛力士立像

国宝、木造、彩色、阿形154.0㎝、吽形153.7㎝、鎌倉時代

西金堂に安置されていた像は、南都焼き討ちの際に焼失。現存は再興像。

ヒノキの寄木造、玉眼、塑土の上に彩色。慶派。

2.天燈鬼・龍燈鬼立像

国宝、木造、彩色、天燈鬼78.2㎝、龍燈鬼77.8㎝、鎌倉時代

南都焼き討ち後の復興期の作。

西金堂の仏前に置かれた一対。ヒノキの寄木造。内刳り。玉眼。

天燈鬼 肉身は朱、

 

龍燈鬼 肉身は緑。銅版の眉、水晶の牙。

    康弁作(運慶第三子)

3.板彫十二神将像

国宝、木造板彫、彩色、88.9㎝~100.3㎝、平安時代

   当初の場所不明。江戸時代には東金堂にあった。

4.仏頭

国宝、銅造、鍍金、98.3㎝、白鳳時代

旧山田寺仏頭

昭和12年、東金堂の解体修理の際に本尊薬師如来像の台座の下から発見された。

 

1180年の南都焼き討ちで東金堂は焼失したが、元暦2年(1185)に再建された。

   しかし本尊の制作がいっこうに始められなかったために、業を煮やした僧が、山田寺の薬師三尊像を強奪し、東金堂に安置した。山田寺は現在の奈良県桜井市にあった寺で、大化の改新で活躍した孝徳朝の右大臣蘇我倉山田石川麻呂の発願の寺。昭和58年に廻廊部分が発掘された。

石川麻呂は、皇太子(のちの天智天皇)暗殺を企てた罪で大化五年(649)に自殺に追い込まれた。無実の罪が明らかになってから後、寺の造営は天武7年(678)に石川麻呂の孫娘の持統天皇と夫の天武天皇によって継承され、講堂本尊は天武7年(678)鋳造開始、14年に開眼供養。

強奪され、東金堂に移されてのち、応永18年(1411)火災大破し、頭部だけが残り、東金堂再建の後は台座の下に置かれた。

5.十大弟子立像

国宝、脱活乾漆、彩色、天平時代、144.3㎝~152.7㎝

舎利弗・目犍連・須菩提・富楼那・迦旃延・羅睺羅の6体のみ

(西金堂参照)

6.千手観音立像

国宝、木造、漆箔、520.5㎝、鎌倉時代。

もと、食堂の本尊。南都焼き討ちで焼失した食堂の再建の際、1181年に千手観音像は成朝により制作されはじめたが、一時中断し、1217年再開。完成は1229年。

   ヒノキ、寄木造り、玉眼、漆箔。

7.八部衆立像

国宝、脱活乾漆、彩色、148㎝~155.4㎝、天平時代

(西金堂参照)

 

東金堂

神亀3年(726)に、聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒を願って創建。

本尊薬師如来。何度も火災にあい、現在の堂は室町時代の再興。

1.維摩居士・文殊菩薩坐像

国宝、木造、彩色、維摩88.1㎝、文殊94.0㎝、鎌倉時代。

『維摩経』 中インド毘舎離国に維摩と言う長者がいて、在俗の身ながら菩薩行を修め神通力をもっていた。維摩が病気で倒れた時、釈迦の命令で見舞いに来た文殊菩薩との間で、さまざまな法論が戦わされ、その場面を表したもの。

興福寺維摩会(延暦20年~)の本尊として祀られたらしく、弘仁年間(810~824)には東金堂に安置されていた。現在の像は、1196定慶作。

2.十二神将像

国宝、木造、彩色、113.0㎝~126.3㎝、鎌倉時代

かつて、東金堂には、もと新薬師寺にあった十二神将が安置されていたが、治承の兵火で焼失。その後、これを再興したのが現在の像。

3.日光・月光菩薩立像

現国宝館の旧山田寺仏頭と一具といわれるが、制作年代については仏頭より遅れるといわれる。

 

西金堂

  1.十大弟子像

天平5年(733)光明皇后の母橘三千代の菩提を弔うために造営された西金堂の像。

  『興福寺流記』によれば、一周忌にあたる天平6年(734)完成した西金堂内には、丈六釈迦如来像を中心に脇侍菩薩2体、羅漢10体、羅睺羅・梵天・帝釈天・八部神王・獅子形2体からなる釈迦集会像が安置された(このうち現存は、羅漢10体と、八部神王にあたる十大弟子、八部衆のみ)。

十大弟子は、興福寺では『維摩経』弟子品に登場する十弟子の名称にしたがう。

寺に伝わるのは、舎利弗・目犍連・須菩提・富楼那・迦旃延・羅睺羅の6体のみ(残り4体(摩訶迦葉・阿那律・優婆離・阿難)のうち二体は東芸大と某家所蔵、優婆離は焼失、一体は所在不明)。明治時代に10体そろった写真あり。

 

  2.八部衆立像

   十大弟子同様、天平6年(743)の西金堂完成当初から釈迦集会像を後世する仏像群の一部として安置されていたもの。  

様式技法は十大弟子とほぼ同じ。同じグループの仏師による制作。

寺伝(江戸時代)では、阿修羅・五部浄・沙羯羅・乾闥婆・迦楼羅・緊那羅・鳩槃荼・畢婆迦羅とするが、当初とは考えられない。『法華経』『金光明最勝王経』に登場する八部衆は、天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅迦の八尊であり、本来の名称と考えられる。

インド古来の神が仏教に取り入れられ、仏法守護神となったため、興福寺像も阿修羅以外はすべて甲冑をつけた神将像の形となる。

 

・再建された中金堂は、平成30年、落慶供養。

 

参考資料

大橋一章・森野勝『大和路のみ仏たち』グラフ社、2009、1500円

水野敬三郎監修『日本仏像史』美術出版社、2001、2500円

 




はてさてもういつのことだったか 
私生活ばたばたしまくり、
…なかなか書けずにいましたが、

前回の続きの記事です






「エプロンじゃないよ、ヨダレかけだよ〜」という
こんなお地蔵さんを見つけた話です







それは当麻寺練供養の次の日でした



学友と私は、

午前中に、奈良市内二月堂付近の散策から、なら仏像館に行き、→  午後は藤原京の遺跡発掘現場の説明会から藤原京ぐるっと一周、というルートを周りました 


で、今回はその午前中の記録です



名付けて、


東大寺奥地大探検!   


「♪行け行け〜!かっわぐちひろし、どんと〜い〜け〜♪」の歌が、聞こえてきそうですねっ!( ̄ー ̄)……



おそらく、ジモティなら、「あー、あんなところに行ったのかい?」というルートだと思うのですが、
なにしろ、私たちには初めての体験で、プチ川口浩な気分(そもそも、「川口浩」がわかるかな?)でした






早朝、新大宮の東◯インをチェックアウトしたものの

伊勢志摩サミット直前で奈良市内のコインロッカーが使えない状況にでくわす


近鉄奈良駅近くの駐車場で臨時に預かって貰えるということで、荷物を預け、ふと見ると、


「青山団地」行きのバスが目の前に止まった


「このバス、県庁のところで左折するよね?

でも、まあ乗っちゃおうか?」

……と軽い気分で、乗ってしまいましたよ





バスが左折してすぐのところで降りました(バス停の名前、なんだっけ?)



道路に鹿の絵が描いてある脇をスタスタ北に歩いてます


すぐに転害門 につきました

午前中だったせいか、この後「朝日がスーッと入る 」写真がたくさん出てきますよ
(もしかすると、天使が下りてきていたのかもしれません……いやいや、もしかしたら、お迎えが来た……のに気づかないのかもしれません)




ここで、すでにバス停ひとつ分歩きました



ひとつ分歩いた先のバス停は
手貝町

転害門の「てがい」と、手貝町は、音が同じですね
どちらが先なのかな?



その転害門はこちら…



ほら、お迎えの光が


転害門をぐるっと周り、裏側に行きます



門の横には説明板がありましたよ…↓よかったら読んでね




野良猫に餌をやらないで!というお願いもありました↓
野良猫ちゃんが転害門で爪研ぎするから、エサをやらないで!
文化財は大切にしましょう!

ってことですね?




その転害門の裏手には、鹿がくつろいでいます


野良猫はダメだけど、
鹿は爪研ぎしないし

神鹿は大切に護らないと!



護られている鹿はゆっくりとくつろぐ



見て見て!くつろぎながら、アタマをなめてる!




野良猫は、

きっとこう思うだろうね





「なめんなよ  」

これが言いたかっただけです…すみません





この先、右折したらすぐに東大寺大仏殿裏に行ってしまうので、
敢えて行った記憶のない北方向に、左折してみました

道は、北向きから東に、
正倉院の敷地をぐるっとまわり、

上り坂になってきた↓

うーん、戻ろうか、進もうか…


ちょっと迷ったけど、


こんな時、学友と私の行動の傾向は



「行ってみよう!」(いかりや長介風に)

……になっちゃうのよね〜





しばらく行くと


奈良奥山ドライブウエーヽ(;▽;)ノ なんですと??


今度こそ、お迎えの光がっ!   



このあたり、全然馴染みのない場所です

少しビビってます





でも、こんな道標を見つけました
「←正倉院 」 と書いてあります


おーーー、このまま東大寺の中に入れるわ!


今来た道を戻りたくなかったので、
嬉しかった〜( ´ ▽ ` )ノ




よし、東大寺の中へ!



と歩き出すと…



左手に、何やら階段が!
お迎えの光 も、強烈(ほんとに阿弥陀のビームではないかしら)↓



この階段の先が何だかわかっていませんが、見にいくことにしました




頭上には、お花
↓ごめんなさい、何の花ですか?(5月です)





門がありました
この築地塀の佇まいが、亀井勝一郎が喜びそうな、滅びの美の情感たっぷり



ここは、

知足院 です




門をくぐると、また階段…








ここに、「ナラノヤエザクラ」があるそうです
 
↑この写真の引用元
(知足院のナラノヤエザクラについては、こちらに詳しい記事があります)





知足院からまた先ほどの、正倉院脇の道に戻ります



私たち何故こんなことをしているかというと、

なら仏像館の開館時間までの間、せっかく奈良にいるのだから、時間を惜しんで、奈良を満喫しようというケチな奈良愛に満ちた気持ちから、探検しているわけです
道の右側に正倉院がありますが、よく見えませんでした


「右 二月堂    左  ??」の道標




このあたりは、東大寺の講堂跡です



礎石が規則正しく並んでいます



大仏殿の真裏にあった講堂は、
礎石の大きさや多さからも、相当大きなお堂だったことが実感できますね






今は、鹿の溜まり場的な感じで、
「夢の跡」のような場所です





奈良の神鹿は、東大寺講堂が出来るよりも前から奈良にいたわけで、聖武天皇の大仏殿開眼供養も、東大寺講堂の焼失も見てきたわけだよね
ねっ?




偉いぞ、鹿さん!
せっかく褒めてるのに、


なにその首?





と、こんな注意が!

イノシシに注意!!DANGER!!


なんと!

もし、ここに蝶々が飛んでいたら

猪鹿蝶じゃないですか( ´ ▽ ` )ノ?
〜なんて、思いましたが、





学友も、このあたりでウリ坊を見たというし、
気をつけないと!






ここから、二月堂を目指します

大好きなこの道を、いつもと逆に歩いてます


本当に風情のある場所だなぁ




二月堂は目の前!


(゚o゚;;!!

…と、

いつもと逆に歩いていたので、気になったのかもしれません


この道標↓

左に細い道があるんですよね


なんちゃら地蔵尊と書いてある


この細い道、以前から、気にはなっていたのです


「どうする?」

と、一瞬顔を見合わせましたが、



そりゃ、行くよね〜( ´ ▽ ` )ノ




ちょっとだけ、ほんのそこまで、行ってみよう!




青紅葉が綺麗でした




小さな祠がありました



ここ、二月堂のほんの脇のはず



また、小さな祠がありました



「ちょっとだけ、ほんのそこまで」
と言っていた地点に着いてしまった

でも、まだ、奥があるよ……どうする?



……行くよねえ( ´ ▽ ` )ノ




「朝の光」に導かれ、お地蔵さんに導かれ、ずんずん進みます




「歴史的風土特別保存地区」
私の自宅まわりも、これですよ(^◇^;)

このあと、細い登り道はつきあたり、そこに民家が一軒!



つきあたり右手の小川を渡ると、
まんなおし地蔵尊


地元の方のお話では、間が悪いのを直してくれるお地蔵さんだそうですよ



お地蔵さまの顔が線刻してあるのがわかりますか?


真ん中に顔、円光背も見えますね

ニヤリ
(このお地蔵さん、体はどうなってるんだろう?)





道は、ヘアピン状に戻り、急な上り坂になります




もう、迷いはありません
どんどん登る


ここは、東大寺だもの! こわくなんかないわ



まもなく、石仏の祠が見えてきました



二月堂裏手の山です 



ここまで来ると、東大寺のお坊さんがお掃除をしていました




この二月堂の裏山には、小さな石仏かたくさんあり、
どうやら、ミニチュアの西国三十三所観音巡りのようでした
この石仏群、今回、初めて気づきました



もう、場所がわかるので安心です




遠敷神社







おー、二月堂だ!



ここで、9時前、
この時点で、一万歩越えてしまい、残る1日の行程がこわい……(^◇^;)



二月堂の細い脇道から降りてみます


こちらにも、模様のついた石段がありました






竜王の滝



こちらも、初めて入りました


こんなところに不動明王が!

二月堂あたり、いつも同じような道筋を行くので、
視点を変えて歩いてみると、新たな発見の連続!
たのしかったわぁo(^▽^)o






ねえ、鹿くん

そだね




鹿も、


視点を変えて見ると


面白いことするんだね!( ̄▽ ̄)



首ぬーん

(((o(*゚▽゚*)o)))









先日、義母と電話で話していた時、義父は床屋さんに行っているところでした

義母いわく
「お父さんたら、襟足が伸びちゃって、輪ゴムでくくってやろうかと思うくらいで、床屋に行けといっても、自分で鏡で見える頭の前は薄い(←ここ、太字にする鬼嫁)もんだから、なかなか行かなくて…(^◇^;)」
それで、ようやく行ったところだそうで、

私、思わず
「だったら、その襟足の伸びた毛を薄い頭の前に植毛したらいかがでしょう?」と、言いそうになったけど、

言わなかったよ
(あとが恐ろしいもん……)



なんていう、義父の前頭葉の薄さの話は置いておいて(言うなよ)




髪の毛と言えば、

五劫思惟像


ですよねー?



……と、かなり強引に話題に入りますが(^◇^;)




五劫思惟像ってどんなのかというと


東大寺 五劫思惟像
(『奈良の古寺と仏像』)


五劫院 五劫思惟像


こんな感じの像です



上の2体は、奈良の中でも、地理的にも近いところにあるためか、しばしば混同されてしまいますが、


顔の可愛さが全然違うのです



私は、養子にするなら絶対に
東大寺の子をもらいたい
 
つまり、東大寺の方がぽっちゃりしていてかわいい!

養子にしたら、すぐさま、床屋に行かせる!





ところで、京都の黒谷、金戒光明寺には、珍しい石像の、五劫思惟像があります
 
黒谷 金戒光明寺 五劫思惟像


材料がなんであれ、
どれも、髪の毛がすごいことになってる!(義父にあげたい)

髪の毛すごいのに、本人達は知らん顔して、寝ているようなお顔





この五劫思惟像とは何なのか?

あの髪の毛はどうした?

と思いませんか……?



彼ら、どうやら考え事をしているうちに髪の毛が伸びてしまったようです(いったい、どんなイケナイことを考えていたのでしょう?)




金戒光明寺HPに、五劫思惟像の説明がありましたので、とりあえず、貼りますね

↓(以下引用)

「五劫思惟(ごこうしゆい)の阿弥陀仏は、通常の阿弥陀仏と違い頭髪(螺髪(らほつ))がかぶさるような非常に大きな髪型が特徴です。

「無量寿経」によりますと、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時、もろもろの衆生を救わんと五劫の間ただひたすら思惟をこらし四十八願をたて、修行をされ阿弥陀仏となられたとあり、五劫思惟された時のお姿をあらわしたものです。」(いったん引用終わり)


「五劫」の間ひたすら思惟をこらす……(って、寝てたんでしょ?と思った方、それはあなたのことですよ(^◇^;)…いや、私のことか……←図星)


「五劫」ってどのくらいの間なんでしょょうか?

この点について、また続きを引用します

「五劫とは時の長さで一劫が五つということです。一劫とは「四十里立方(約160km)の大岩に天女が三年(百年という説もある)に一度舞い降りて羽衣で撫で、その岩が無くなるまでの長い時間」のことで、五劫はさらにその5倍ということになります。そのような気の遠くなるような長い時間、思惟をこらし修行をされた結果、髪の毛が伸びて渦高く螺髪を積み重ねた頭となられた様子を表したのが五劫思惟阿弥陀仏で、全国でも16体ほどしかみられないという珍しいお姿です。
落語の「寿限無寿限無、五劫のすり切れ」はここからきています。

金戒光明寺の五劫思惟阿弥陀仏は、特にめずらしく石で彫刻された石仏で、江戸時代中頃の制作と思われます。」(引用終わり)

http://www.kurodani.jp/recommend/gokoh.html





いいですか?

天女が3年だか100年だかに一回おりてきて(数字の振れ幅大きすぎでしょ)、羽衣で岩を撫でて、岩が(擦り切れて)なくなるまでの間が一劫  × 5回分??

はい?


……話が宇宙開闢レベルにわからないんですけど



でも、そんな気の遠くなるような長い間、髪の毛を切らなかったにしては、髪の毛の伸びが遅すぎ じゃない?


私の感覚じゃ、せいぜい半年か一年くらいの放置じゃないかと思いますけどね……(うちの息子の髪の伸びるスピードの場合)






ところで、最近のニュースで、

東大寺大仏の螺髪の数が当初の半分くらいだったことがわかりましたよね?

宇宙までロケットの飛ぶ時代、人工衛星の軌道の微妙な修正のできる時代、スーパーカミオカンデでなんとか線を捉えることのできる時代(あやふや)


なんで、すぐそこにある、大きな大仏の螺髪くらい、今まで数えられなかったんだよぅ?



東大寺HPの説明では、↓このように、「昔の資料では966個と書いてあった」とあります





でも、大仏はそのあと戦禍(戦火?)にあったり、頭が落ちたり、いろいろあって、今の頭は江戸時代のものです


だったら、当然、966ではないよね

東大寺HPの続き↓


 



それで、東大生産技術研究所(東大寺だから東大?(ダジャレ)というわけではないだろうけど)の先生が、大仏頭部をいくつかの部分に分けて数えて、合計したら

492個

であるという結論になったらしい



当初の半分じゃん?

螺髪が大きくなったのか、大仏頭部が小さくなったのか?昔の資料がいい加減だったのか?


……それにしても、宇宙にロケットが行く時代(しつこいよ)に、

ミクロの世界でもない大きい大仏の螺髪くらい、お身拭いの時とか、周りをお掃除してる時とかに、いち、に、……と数えられなかったものなんでしょうかね?
http://www.todaiji.or.jp/contents/qa/qa.html




だって、966と492って違いすぎでしょ?

そうそう、五劫思惟の螺髪はもっと多いのかなぁ?長いだけかしら?




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東大寺戒壇堂の四天王像は、天平期の塑像の最高傑作として
とても有名で、大変に人気のあるお像ですよね



和辻󠄀哲郎『古寺巡礼』

 


例えば、今たまたま手元にある和辻󠄀哲郎『古寺巡礼』でその部分を読んでみると

戒壇院の埃っぽさに文句を言うところからはじまっていますが
「四天王は僕の注意を強く捕えた。特にその写実と類型化との優れた成功は、様々の暗示を与えてくれた。・・・・・」
と、熱弁をふるっておられます




町田甲一『大和古寺巡歴』

 



また、町田甲一さんは、 『大和古寺巡歴』のなかで、四天王の配置についてこのように語られています

「現在四天王は、壇上の中央に置かれた多宝塔━なかに鑑真将来と伝える八世紀の釈迦・多宝の小さな銅像を安置している━を囲んで、四隅から内に向かって安置されているが、本来はその像容から察して、通例の四天王のごとく、等しく南面していたものであろう。 ・・・ 」(引用終わり)

この後の部分にも、四天王についての考察が続いています


町田さんの記述を元にして、四天王について考えたいと思います
(以前アメブロで、四天王について取り扱っていますが、今回は再構成というよりも、もう少し踏み込んで、書き直しに近くなると思います)



1  四天王の配置について


東大寺戒壇堂の四天王の配置については、私が大学生だった30年位前には、
拝観者が壇上にまで上がることが出来、内側に向いて立つ四天王を眼前に観ることができました


(イメージ図)
30年前
↓ 四天王が、壇上に上った のほうを向いていた
↑「こっち向いてた」とは、壇上の私の方向を向いていた、という意味です(^◇^;)





ところが・・・

現在では、壇上に拝観者は上がることができず、前を向いた四天王4体を段の下のぐるりから拝するのみ です

(イメージ図)
現在 (いつ変わったのかは私にはわかりませんが・・)

四天王は全員南を向いていて、私は段の周りの低い所をぐるっと一周して、見上げて拝観する



昔の、眼前で正面からお像を配することができたことを記憶している人にとって、
現在の拝観方法は、

「四天王ったら、よそよそしくなっちゃって・・・ 人気が出ると、こうだからね!

と思われがちですが(私だけ?)


このことについては、最近、某所で貴重なお話を聞きました

・・・・こんな経緯があるようです

(そもそも四天王が、いつから内側を向いていたかわかりませんが、30年前の配置について)
当時、唐招提寺長老だった(←ほかの寺では住職と呼び、引退してから長老となるところを、唐招提寺のみ現役から長老と呼ぶ)森本孝順さんが、「戒壇に俗人を上げるとは何事か!」とおっしゃったそうです



つまり、あのマボロシの真ん中に向いた配置は、一時期だけのことで、
現在も、四天王塑像作成時も、同じように4体全部が南面していたということだと思います


これを踏まえた上で、4体の絶妙のコラボレーションについて述べます



まず四体のお姿を、画像で出してみます 



 
東大寺戒壇堂の中で四天王は
南側入り口正面から見ると

↓このように並んでいます

後ろ側に、広目天、多聞天

前には、増長天、持国天



 
ちなみに四天王の配置は、守る方向により決まっています

南から、時計回りに「じ、ぞう、こう、た」と覚えます
持国天、増長天、広目天、多聞天です

方向を見ればわかるのですが、方向が分からない時は

北方を守護する多聞天(独立すると毘沙門天)は塔を掌に乗せていることが多く

広目天は筆を持ってることが多いので
一つわかれば、「じぞうこうた」すればいいわけ!



多聞天は塔を持つ(これ、あとの引用で「宝塔」と書いてある所がありますが、それではおかしくて、「仏塔」というほうが適当のようです)

広目天は筆を持つ

戒壇堂の四天王も、チャンとこの順番に並んでいます

そしてこの並び方に合わせて、戒壇堂四天王の4体は実に有機的な連関を以て作成されています



1  姿勢
(私の精一杯の描きおろしの絵です )

4体の姿勢については、私の絵をご覧になりながら、町田甲一さん『大和古寺巡歴』の文章をお読みください
(以下引用)
「堂の正面よりみて、前方の右手に両手を低く構える東方天・持国天を置き、左手に刮目開口の南方天・増長天が右手を高くあげて長槍をとり、後方の右には北方天の多聞天が右手に高く宝塔を捧げ、逆に左手に立つ西方天の広目天が筆と巻子を執って両手を低く構えている。つまり一方の手を高くあげている像と両手を低く構える像とを、互いに対角に配し、さらに四体ともに、内側の一脚を立脚とし、外側の脚を遊脚(シュルビーバイン)として膝を幽かに曲げ、腰を少しく内方にひねって立っている。」(引用終わり)

ま、私の絵も、そんな感じに描けてるでしょ? (御意見受け付けておりません )




2 目と表情について

持国天

増長天

広目天


多聞天



それぞれの目に注目してみます
(↓これは、目の絵ですよ)
こんな感じでしょ?(^◇^;)


目と表情について、
また、町田甲一さんの文章を引用します
(以下引用)
「前列の二像(持国、増長を瞋目決眦の忿怒相につくり、後列の二像(広目、多聞)は眉根をかすかによせ、両眼をひそめて遥か前方をみつめて沈痛な表情を示している。」(引用終わり)
と言っておられます


この前列二像の目は、現実にはあり得ない目です(目頭切開しすぎの目)

そのありえない目の瞳には、ロンパリにガラスの瞳を入れて、広い視野を獲得しています
ガラスの瞳の色は、持国天は緑色増長天は黒褐色
おしゃれ!
(ちなみに、執金剛神も黒曜石ではなく、鉛ガラス、新薬師寺もいろんな色のガラスを嵌めてるそうです)




3 着甲について

(よろい)についてもみてみますね
 

向かって右2人は甲に花飾りのある丸紐 を結ぶ
 
持国天

多聞天 
上の写真の二人、おっかない顔して、かわいい紐(///∇//)



向かって左の2人組は、結び目のある紐
増長天 


広目天・・・「俺は結び目がふたぁつあるんだぜい(ドヤ)」

甲については、右側、左側で2パターンにわかれますね


 
4 邪鬼について

本体だけでなく、邪鬼にも2パターンあります

邪鬼だけ、拡大してみます
これも、考えた構成ですね



邪鬼の向きの左右は、斜めたすき掛けの構図をとっています


5 人間的感情(表情)の表出

四天王をめぐるこのような様々の配慮の意味を、町田甲一さんは以下のように分析しています

「如上の配慮のごときは、飛鳥白鳳の時代には期待できなかった新しい意識のあらわれではないかと思われるが、それとともに新しい性格をもってあらわれてきたものとして注目すべきことは、これらの像の相貌の表現において人間的感情(表情)の表出である。これらの四天王の動きにとんだ姿態の表現も、法隆寺中門の力士像や食堂の塑像などとともに、新しい時代の性格を示すものであり、また美しい古典的調和を保ったプロポーションに、あるいは周到な立体把握などにも、天平の新しい性格が示されているが、とくに注目すべき点は、法隆寺塔本の塑像とともに、これらの作品において、作家の興味関心が、はじめて人間的感情の表出に積極的に向けられたということではないだろうか。忿怒相の持国天や増長天の、複雑に起伏し凹凸する顔面の状態や、怒張する血管や緊張する筋肉の状態を見事に表現した写実力にも瞠目するが、むしろ内なる激情を圧えるような深刻な表情を示す多聞天、広目天の感情表出の方に一層注意がひかれよう。」(以下省略)



時代により、仏像の表情の表現には確かに違いがありますね

どの時代が好きか、人により好みは分かれるのでしょうが、私は天平期も好きだけど、その前の飛鳥白鳳期の仏像の、初々しさ、素朴さにもとても惹かれるものがあると思うのです

もちろん、戒壇堂の四天王像も素晴らしいと思いますし、世間の評価、とくに広目天人気は存じておりますが、
まあ、お付き合いするのなら、できれば、イケメン顔の仏像のほうがいいかなあ?(なんだそれ)



写真引用 
週刊朝日百科『国宝の美   東大寺戒壇堂四天王立像 』





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今日は、東大寺三月堂執金剛神の開帳日ですね……

執金剛神像


「がお〜〜〜!」

暮れのこんな時期に開帳されても、主婦は行けな〜い!(T_T)のだ……

……ですが、執金剛神について、以前のアメブロ記事からの再構成して、お届けします

東大寺三月堂の執金剛神、月光菩薩それから東大寺戒壇堂の四天王ついて考えてみます

論点は、これらの作者が同一人物かどうか?ということです

1.耳の形について
仏像研究の第一人者水野敬三郎さんは、
かつて、仏像の「耳の形」には、仏師の個性が出ると指摘なさいました

同一作者による作品かどうかの判断の一つの方法として、耳の形が比較されることがあります

上記に取り上げたお像の耳の形を見てみます

戒壇堂の四天王
増長天

広目天

多聞天



そして、
持国天
 
(……「いけねっ! ぎくっ  俺、帽子 かぶってきちゃった! 汗」……耳、見えないじゃん)

三月堂
執金剛神


月光菩薩

 

(反転した写真) 

これらを、 耳の上側で比較します

ご参照 (私のノートで悪しからず)

↑あの部分が似ています

並べて見てみます
(執金剛神、増長天、月光)
 
 こうやって、見てみると、確かに、耳の形はよく似ていますが、この点だけを見て、作者は同一人物と言って良いのか?……というと、話はそんなに簡単でもないようです 


2 切金模様 
昔、「戒壇堂」を「戒壇院」と呼んでいたころ、
一般の参拝者でもあの四角い須弥壇の上にまで上ることができました
今と違って四天王は内側を向いていて、その真ん中に立って、つぶさに4体を見ることができました
(もう、それはできないし、今考える と「あれはマボロシだったのか?」とすら思えてしまう)

上には登れないけれど、
今でも、周りをぐるっとまわることで
四天王の有様を見上げることはできますよね 

この戒壇堂の四天王の向きについては、次の記事で書きますね

四天王には、彩色がよく残っています
下から見上げるほうが、かえってよく見えたりしますね

彩色だけでなく、切金の模様も残っています(現地で覗きこんでみてください)

例えば、↓ 広目天の袴の部分
  
 きれいな緑地のところに、切金模様

これは、奈良時代の本格的 な切金としては早い例だそうです

多聞天

これは、団花紋で、切金があるはず?(ちょっとよくわからないけど 汗)

三月堂の執金剛神はどうでしょうか?
執金剛神の左袖
 
さすが、鮮やかな色彩です

で、赤い地に切金は………ない んです          
(但し、丸紐で鎧をしめる部分に、チラッと切金があるそうですが… 汗)


つまり、こうなります
・戒壇堂の四天王     →切金あり  
・三月堂の執金剛神 → 切金なし  

3.線刻の有無 
次に線刻の有無についてです
ここでいう線刻とは、塑像の粘土の表面に比較的深く刻まれた下書きの輪郭線のことです(模様がハゲてしまったところを観察するとわかるらしいです)

線刻について↓
線刻があるということは、下図があるということを示します

つまり、下図を利用して、その下にカーボンのようなものをはさみ、上からヘラので塑土に刻線がつくように下図を写し取り、粘土上に刻まれた刻線に沿って輪郭線を描き、模様を描いていく

だから、出来上がりはキッチリした絵となるそうです


戒壇堂四天王の表面の模様には 
深い線刻があるそうです 


これに対し、執金剛神刻線がない そうです(→両者は違うやり方)
しかし、線刻はなくても、やはりまず粘土上に輪郭線(フリーハンド)のびのび描くところから始まるそうです

執金剛神の袖の下拡大
この写真の(袖の下の)お花の真ん中のところを簡単 に描くと↓
 
 
 お花の模様がのびのびと描かれています

以上、まとめると、こうなります
戒壇堂の四天王    → 切金あり、刻線あり  
三月堂の執金剛神 →切金なし、刻線なし


さてさて、
執金剛神が、随分不利な展開になりました!
しかし、執金剛神のすばらしさは、決して切金や線刻がないことなんかで 左右されるものではありません


4.  では、偉いのはどっちだ?
これはねえ、もうこうです
執金剛神>四天王

執金剛神のほうが四天王より偉いです(執金剛神には切金も刻線もないけど……)

この、「矛盾」から導き出される結論は、
「これらの像は(耳の形が似ていても)同一作者ではなく、一具同時=同時期の1セットである」

5 使用された絵の具について 
東大寺のこれらの仏像がいかに大切なものだったのか、絵の具の成分を見てもあきらかなようです
つまり、これらの像の絵の具はものすごく純度の高いもので 
新薬師寺の十二神将に使われた絵の具など比較にならないそうです

造東大寺司のチカラですね〜


6 『日本霊異記』にも登場! 
それに、執金剛神は『日本霊異記』にも
リアルに登場しますね
これは、タイムスリップしたような感覚に陥らせてくれますね


また、元結が欠失した話も有名ですね


元結欠失?うーん、よく見えないけど……

東大寺の中でもとりわけ大切にされてきた執金剛神

私もいつか、「この日」に奈良に行きたーい!(年末の主婦には難しい話だー!)

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