はなこの仏像大好きブログ

奈良、鎌倉、京都、古美術、そして、日常の生活などを取り上げて書いて行きたいと思っています。 よろしくお願いします。 主婦、母ですが、通信制大学院の学生でもある、アラフィフおばさんです。

奈良や古美術が好きな主婦のブログです。

アメブロ『奈良大好き主婦日記』
http://s.ameblo.jp/naranouchi/

と並行して書いています。

よろしくお願いします。

浄土教


今回は、(いつものように唐突ですが)常行堂についてまとめてみたいと思います

常行堂は多くの場合、ひっそりとした場所に法華堂と仲良くペアになって建てられています
(比叡山西塔では、廊下で結ばれた2つのお堂を「担い堂」という愛称で呼んでいます)


一般的な寺院の伽藍といえば、本尊を祀る金堂やお坊さんの勉強のための講堂、仏舎利を祀る五重塔などの建物を想像しますが、
常行堂はそんなに有名でもなく、世間にあまりなじみがないのではないかと思います

この常行堂というお堂は天台寺院に建てられるもので、
現存が確認されているもの、もしくは遺構となっているものの具体例は、比叡山西塔担い堂を筆頭に、日光輪王寺、毛越寺(現行の常行堂と遺構の常行堂法華堂)、鶴林寺、円教寺、立石寺等国内のいろいろなところにあります

↓比叡山西塔担い堂(常行堂と法華堂)
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↓日光輪王寺常行堂
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↓輪王寺常行堂阿弥陀如来と脇侍4体
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↓法華堂と結ぶ廊下
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↓法華堂
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↓毛越寺常行堂
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↓宝冠阿弥陀
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↓毛越寺常行堂跡と法華堂跡
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また、建物や遺構が現存しなくても、文献上で常行堂の存在が確かめられているものには、
比叡山東塔・横川、園城寺、多武峰妙楽寺、法住寺、法性寺、法成寺、広隆寺、勝尾寺などがあります
このように沢山の常行堂が存在したわけですが、その歴史は比叡山東塔・西塔・横川の三か所に建てられた常行堂から始まります




1 鑑真により 請来された『摩訶止観』

 浄土信仰・法華信仰は、最澄が建てた比叡山延暦寺を中心に平安時代後期以降にさかんになりました

最澄より遥か前、6世紀の中国では天台の祖智顗(ちぎ)が、いわゆる法華三大部(『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』)を説きました

この法華三大部は早い時期に日本に請来されていました
まず『法華玄義』は、初写年代から天平勝宝2年(750)以前に伝わっていたことがわかるそうです
これは、天平勝宝4年(752)東大寺大仏開眼供養より前ということになるので、個人的には少しビックリです

次いで『法華文句』『摩訶止観』は、天平勝宝6年(754)に鑑真が持ってきたんだそうです(『唐大和上東征伝』)
これもビックリ!

↓鑑真
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つまり…法華三大部は
・750より前に『法華玄義』

(752 東大寺大仏開眼供養をはさんで)

・754に『法華文句』『摩訶止観』(by鑑真)

という感じに日本に来たわけですね・・・(並べてどうする?)




2 最澄と法華三昧堂

最澄(一乗院)
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最澄(766/767-822)は、15歳の時に国分寺の僧侶となり、19歳で仏道修行のため比叡山に草庵を結び、日夜『法華経』などの経典 を読誦しました

最澄が籠ったこの草庵は一乗止観院、のちの比叡山根本中堂です

最澄は『法華三大部』をここで学び、和気広世らの帰依と尽力により入唐還学生となりました

延暦23年(804)には中国にわたり、台州龍興寺の道邃から『摩訶止観』の必要を授けられ、また仏隴寺の行満からは『法華疏』『涅槃疏』を受けました
さらに、翌年延暦24年(805)には越府龍興寺の順暁から灌頂を受け、図像等を授けられて帰国しました

最澄の在唐期間はわずか8か月余りと言うことになります
たった8か月の「短期留学」で日本の仏教に多大な影響を残す功績をあげたのだから、やはり最澄はすごいです!
(ふつう初めて海外に行ったら、マゴマゴしているうちに8か月くらいすぐに過ぎてしまうものね…)

最澄が帰朝した翌年の延暦25年(806)には、天台宗開建の勅許が下り、年分度者二人が割り当てられました
年分度者のうち一人は『摩訶止観 』を中心にした止観業(天台法門)、もう一人は遮那業(大日経を中心に密教)を修することが定められました

止観業の一人は毎年毎日法華、金光明、仁王等の大乗護国経を講読し、遮那業の一人は大日経、孔雀、不空羂索等の護国真言を念じることが日課として課されました
またこの2人は、12年の間籠山して就学しますが(ひぇ〜😱ざん)、12年の内訳は前期6年が聞慧を主とし思修を従に行う期間、後期6年が思修を主とし聞慧を従とし、止観業では​四種三昧を修習する期間に分けられていました

帰朝後4年経った大同5年(810)正月には年分者8人が度され、四種三昧(ししゅざんまい)を修する人数が整ったので、
弘仁3年(812)に最澄は法華三昧のための法華(三昧)堂を造立しました
この時の法華堂について詳しいことはよくわからないようですが、場所はおそらく講堂の北の根本法華院地であろうと考えられているようです(私はその場所自体どこなのかよくわかりませんが)


3 四種三昧について
ところで、上に出てきた​四種三昧とはいったい何でしょうか

四種三昧とは、はじめのほうに書いた智顗撰述の法華三大部の一つ『摩訶止観』に説かれる天台僧侶の修行の実践行法です
それは次の四つの行法、➊常坐三昧、❷常行三昧半行半坐三昧、❹非行非坐三昧から成り立ち、それぞれの内容は以下のようになります

➊常坐三昧:「文殊背説般若経」「文殊問般若経」を典拠とし、90日間静室独坐、一仏名号を称え加護を求める行法
常行三昧(仏立三昧):「般舟三昧経」の所説によるもので、浄土信仰に直接関係します
その内容は、つねに道場の周辺を饒旋し(ぐるぐる回る)、休むことなくひたすら行を実践、座らない
口ではつねに阿弥陀仏を称え、心に阿弥陀仏を念ずる
休息なし
❸半行半坐三昧:方等三昧または法華三昧ともいい、方等三昧は「方等三昧行法」により、法華三昧は「法華経」によるものをいう
37日間方等経または法華経によって行と坐を交互に行う
口に呪をとなえたり大乗経典を唱える
❹非行非坐三昧:請観音経により、行坐を定めず随自意に行う行法

最澄ははじめ❶から
❹の各三昧院の建立を意図しましたが、結果的には❸法華三昧のための法華堂だけを造立、他の3つのお堂を造ることはできませんでした
その理由は最澄が大乗戒壇の設立の方に重きを置いていたからです(有名な最澄の『顕戒論』三巻はこの大乗戒壇の設立のために著わされたものだそうです)

最澄は菩薩大戒をひろめるための大乗戒壇の設立を請いましたが、東大寺景深らの阻止にあって勅許を得ることができませんでした
そのため天台宗にて度を受けた者もある程度の人数がいましたが離散してしまいました

このような状態では法華堂以外の四種三昧を行うお堂を建てることももちろん出来ず、大乗戒壇設立の勅許ももらえず、弘仁13年6月4日に五十六歳で亡くなってしまいました
(皮肉なことに最澄が亡くなってからわずか七日後には大乗戒壇の設立の勅許がおりたそうです)




4 円仁、法照流の五会念仏と出会う
最澄没後は、弟子円仁(慈覚大師)の登場です

慈覚大師円仁は大同三年(808)に15歳で叡山に入り最澄に止観を学びました

↓円仁(兵庫・一乗寺、部分)
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https://ja.m.wikipedia.org/wiki/円仁


円仁は弘仁5年に21歳で官試に合格し沙弥戒や具足戒を受け、10年の間籠山しました


ところが40歳の時に病気になってしまったので、叡山北洞(のちの首楞厳院、横川)に草庵を結び死を待ちました🤒


すると、三年後に病が治りました🙄


その後承和五年(838)には遣唐使とともに入唐し、開元寺にて宗叡に梵書、全雅に灌頂を受け、たくさんの経論や曼荼羅、仏舎利などを携えて、唐の開成4年(839)に帰朝しようとしました
しかしこの時は帰朝に失敗してしまい🌊、中国の五台山に登りました

この時、五台山にて円仁は志遠から『摩訶止観』を受けました

また開成5年には五台山竹林寺の般舟道場をを訪れ、法照和尚が修する法照の念仏三昧と出会いました(円仁は、中国で密教も学んでおり、真言に負けないほど密教も重視していました…がそれはさておき)

円仁は法照流の念仏を日本に持ち帰っています

法照は白蓮社の慧遠を慕い廬山を訪ね、五会念仏の法を会得しました
その後法照は五台山に入り、インド王舎城の竹林精舎に擬して竹林寺を創建し念仏のため般舟道場を構えました
円仁はこの五台山竹林寺の般舟道場を訪れ、わずか二週間で法照流の五会念仏を会得したのです


円仁は承和14年に帰朝し、仁寿元年(851)には弟子たちに法照流の念仏を伝えています

この法照流の五会念仏は、慧遠(えおん、324-416)の流れを汲み、 善導の思想などを盛り込んだ浄土教的な念仏行法でした
その特徴は念仏の中心に『阿弥陀経』をすえ、音楽的な曲調
による引声念仏が基本でした


これは最澄が持ち帰った本来の『摩訶止観』所説の般舟三昧経による常行三昧(上記3❷)とは異なるものです(最澄の本来の常行三昧は阿弥陀を正念することに終始する天台の行法)


この経緯を見ると、天台宗から浄土信仰が生まれた ことのいきさつの一端がわかるようです
(歴史の教科書では、密教は天台宗と真言宗と 簡単に分けているけど←「てんさい、しんくう」って覚えるんだよね…しかし、そんなに綺麗さっぱり単純な話でもないってことだね…だって、天台宗って浄土教の始まりなんだから!)


ここまでをまとめると
   智顗によって説かれた摩訶止観は奈良時代に鑑真により日本に請来されていた
→最澄は比叡山で摩訶止観を研学したのち、入唐した
→最澄は、唐で摩訶止観の必要を授けられ、帰朝してからは天台宗を開き摩訶止観の四種三昧のうち法華三昧を行うための法華堂を開いた
→しかし、引き続き他の堂の建築をするよりも大乗戒壇の設立を優先したため、法華堂以外建てることができなかった
→最澄の弟子円仁は、最澄に学んだが病気になり横川で死にそうになった
→しかし病気が治ったので入唐 し、五台山竹林寺で法照流五会念仏を会得した
→法照流の念仏は善導の思想が入る浄土教的なもので、引声念仏である♩
→円仁は法照流の五会念仏を日本に持ち帰った


もし最澄が常行堂の建設までなしえていたとしたら、摩訶止観に基づく(3❷の)常行堂が完成したと思われますが、

実際は円仁が音律を特徴とする五会念仏を持ってきたために、歌声(?)の響く常行堂となったともいえるのでしょうね(むしろ円仁グッジョブだよね✨)


この五会念仏が浄土教の流れを引くことは述べましたが、だからと言ってすぐさま浄土信仰と直接結びつくかというと、そうでもないようです(ややこしくなってきた
…)




5 常行堂の成立

仁寿元年(851)に円仁は法照流の念仏を伝えましたが、ただちに常行堂が建てられたかどうかについては史料に乏しく詳細がわからないようです

初めて常行三昧堂が建てられた場所は虚空蔵尾(一乗止観院のあったところ)ですが(年不詳)、
この建物は、円仁の没後元慶七年(883)に円仁の遺命により弟子の相応講堂の北に移建しました

この移建については、いろいろ疑問があります

そもそも円仁が常行堂を仁寿元年ごろに建てたのかどうか

・なぜ虚空蔵尾の中心地ではダメで講堂北に移されたのか 、また、

・先に最澄が建てた法華堂との位置関係はどうなっているのかなど謎だと思いませんか?


このように様々な謎があるように思えますが、いずれにしても、(一番はじめに書いたように)比叡山以降の多くの天台寺院が「常行堂と法華堂」をセットにして建てたのは、比叡山から引き継がれた伽藍配置の伝統であるといえるようです




さてこの常行堂ですが、比叡山の中で東塔、西塔、横川の三塔全てにおいて建設されました
いずれの建物も「方五間の宝形造り」ですが、中に祀られた阿弥陀と脇侍の4尊の解釈をめぐりこいろいろめんどくさくかち面白い話が展開しますので、どうぞお付き合いください


まず、三塔に置かれた仏像構成について、2つの史料の記述をもとにまとめてみます
❶東塔常行三昧堂
これは上に記述した、元慶元年(883)相応により講堂北に移建された常行堂です
建物は現存しませんが、 『覚禅鈔』によれば内部には金剛界宝冠阿弥陀如来をまつり、阿弥陀の周りには四親近菩薩(金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛因菩薩、金剛語菩薩)を祀るお堂であったそうです(円仁請来金剛界八十一尊曼荼羅の西方諸尊を典拠とする密教尊)

他方、 『山門堂舎記』によれば、阿弥陀を囲んでいたのは、四摂菩薩(観音菩薩・勢至菩薩・地蔵菩薩・龍樹菩薩)であると記されていますが、一般的にはこの『山門堂舎記』の記述は誤り であると考えられています

金剛界八十一尊曼荼羅について

http://naranouchi.blog.jp/archives/49138489.html


❷西塔常行堂
寛平5年(893)、増命により建てられたもので、内部の阿弥陀如来はやはり金剛界宝冠阿弥陀如来、周囲を取り囲んでいたのは四親近で、❶と同じ構成です(『覚禅鈔』)


なお、現在西塔には「担い堂」として、常行堂と法華堂が仲良く並んで立っていますが、担い堂は当時この場所にあったかどうかも不明だそうで、現行の担い堂は信長の焼き討ちの後、文禄四年(1595)再建のものだそうです


❸横川常行堂
横川は円仁が天長10年(833)ごろ病気になって蟄居し草庵を結んだ場所であることは前の方に書きましたが、嘉祥元年(848)に首楞厳院、天暦8年(954)には楞厳三昧院(講堂・法華堂・常行堂)が九条師輔により建てられ、常行三昧・法華三昧は康保5年(968)に慈覚大師良源により始められています

『覚禅鈔』には、やはり❶❷と同様に、宝冠阿弥陀と四親近菩薩があったと記されていますが、他方『山門堂舎記』には、阿弥陀四摂菩薩(観音菩薩・勢至菩薩・地蔵菩薩・龍樹菩薩)が安置されたとあり(なぜか❸に限っては)『山門堂舎記』の記述を信用して、阿弥陀と四摂菩薩の組み合わせが横川で登場したと考えるようです


◉脇侍の変化と解釈

東塔・西塔  四親近菩薩(金剛界の法利因語)

               (『覚禅鈔』による)

       ↓

横川   四摂菩薩(観音勢至地蔵龍樹)

               (『山門堂舎記』による)


この組み合わせの変化の意味するところは、
横川常行堂において密教的五尊像から浄土教的五尊像への移行があったということです


たしかに時代的には、985年に恵心僧都源信が『往生要集』を著すなど世の中が浄土教信仰へ大きく傾く転換期にあり、比叡山三塔において同じ常行堂でも仏像構成や思想的背景が時代の流れとともに尊像構成が変化したと考えられるかもしれません



6 阿弥陀五尊をめぐる解釈

比叡山東塔・西塔と横川に常行堂が建てられた時代は、東塔・西塔の二つが9世紀末であるのに対し、横川は10世紀後半と時間に開きがあります

それぞれの時代背景を考慮すれば、東塔・西塔が密教的五尊構成であるのに対して、横川の時代には(とくに横川には首楞厳院があったり源信や慶滋保胤がいたりした…)浄土教的五尊構成になったという解釈はしっくりくるのです

しかし、そうすると何故東塔と西塔の二つについては『覚禅鈔』に書かれたことを信用して『山門堂舎記』の内容だけを間違いとしているのに対し、

横川に関する記述では正反対に『覚禅鈔』はダメで『山門堂舎記』が信用できてとなるのでしょうか?


史料の信用状況(◯は信用、×は信用しない)        

東塔   『覚禅鈔』 ◯、『山門堂舎記』×

西塔   『覚禅鈔』◯、『山門堂舎記』×

横川    『覚禅鈔』×、『山門堂舎記』◯

(書かれている内容はすべて同じで、阿弥陀五尊の脇侍4体は「四親近」とある)


これではまるで解釈が先にありきの御都合主義なのでは?と思うのは私だけでしょうか?


だって、上二つでは信用したという史料について(そう言った舌もまだ乾かないうちに)最後の一つについては「信用できん」っていう、手のひら返しの解釈ってどういうことよ?って思いませんか?




で、実は、この解釈については違う意見もあるのです
それは、この件につき『覚禅鈔』の記述を全部信用し、三塔とも

「中尊は宝冠阿弥陀如来、脇侍四菩薩は法利因語の四親近菩薩である」

と統一して解釈する意見です…こっちの方がよっぽど合理的で素直な読み方に思われます


でも、そのように解釈すると、今度は横川の時代には浄土教があんなにさかんなのに横川の仏像まで「密教尊の四親近菩薩」と画一的に解釈するのはどういうこと?天台浄土教はどうなるの?という反論が出そうです


🙄どうしましょう?

これについても解決策が準備されています

それは「あまり厳格に文献を解釈しなくてもいい」という方法です

どういうことかというと、一般的に横川の時代すなわち平安時代後期には、すでに「四菩薩の名称」が混乱して使われていることが、他の資料からわかるため、本件についてもコンランして書いちゃった…というように解釈するのだという方法です

(このようなコンランは鎌倉時代になってもあったそう)


だから『覚禅鈔』のワンパターンな記述(阿弥陀+法利因語)も、コンランして書いてあるだけだからオッケー👌ということになるようです


そしてこのような考え方をとる本を読み進めていくと、

従来説が横川常行堂をもって密教的から浄土教的な五尊像に変容したという説具体例として取り上げられる保安寺阿弥陀五尊像については、このように言っています(保安寺と奈良博で保管ですが、最近奈良博で五体揃ったのを見ましたね)


↓保安寺阿弥陀五尊像

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↑中尊は定印、螺髪、偏袒右肩
従来説では、周りに観音勢至、地蔵龍樹が取り囲んでいるのは、横川の常行堂形式によるというか 


この保安寺の五尊像について、上にあげた説をとる論者は、この五尊の作風が阿弥陀・勢至菩薩とその他三体には違いが認められるとから、当初からの組み合わせとは言いがたく従来説のいう阿弥陀+観音勢至地蔵龍樹とは考えられないということになるようです


また、『覚禅鈔』の記述については、信頼性が高いので、(横川とか保安寺とか言うまでもなく)そもそも横川流の「阿弥陀+観音勢至地蔵龍樹」なんて形式は存在しなかったということになります




ん?🧐ちょ待てよ…🤔🤔

平安時代後期には、脇侍の呼び方にコンランがあるのはわかりました

だから、たとえ覚禅鈔で「四親近」と書いてあっても、それはコンランした書き方だったからホントは四親近ではなく「四摂菩薩」すなわち観音勢至地蔵龍樹である!という解釈が成り立つ…ということではなかったの?


覚禅鈔が信用できるということだけ取り上げて、呼び方にコンランがあったことを途中で却下してしまったら、「横川も密教尊」ってことになっちゃうんじゃないのかしら?


😳💦 皆さん、ついてきてますか?




この問題は、さらに

「阿弥陀如来の五尊形式から三尊へ、そして独尊へ…という流れになるという問題」

それに絡めて

「阿弥陀の印相の変遷の問題(転法輪印から定印へという問題)」にも発展します

(あ、阿弥陀の印相について、まだ、「江戸より前の阿弥陀如来の印相も九品に分かれる」とか言ってる人がいるけど、それ間違いですからね!)


阿弥陀如来についてはごちゃごちゃした問題がいろいろあり、どうもスッキリしないので、また「いつか」考えてみたいと思います(「いつか」は、やって来るのだろうか?)


参考文献、図書
濱島正次『図説日本の仏教3 浄土教』新潮社
濱田隆  『極楽への憧憬 浄土教絵画の展開』 美術選書










   

密教の根本儀軌と言われる『無量寿如来観行供養儀軌(無量寿軌)』(大正蔵19、67b-72b)には、修法の際に様々な印を結んで真言を誦えることが説かれていて、その印がいろいろと面白かったので、以前の記事でその図を載せてみたりしました

↓ その時の記事『無量寿如来観行供養儀軌』の世界~印がいっぱい』 


 
ところで、この『無量寿軌』を読み進めていくと、面白いことに気づくのです

初めに書いたように、『無量寿軌』は密教の根本儀軌ですが、とーーっても、浄土教チック なのです

例えば、その序文の中で
「我為当来末法雑染世界悪行衆生。説無量寿仏陀羅尼。・・・・・・決定生於極楽世界上品上生
なーんて書いてあります

つまり、単語を取り出すと、この世は末法であり、無量寿仏(阿弥陀仏)の陀羅尼・・・極楽世界に上品上生(の往生)が決定する・・・・とあり、まるで浄土教側の単語を使ってるような印象を受けませんか? 

浄土三部経の一つである『観無量寿経』では九品往生を説きますが、ここでは往生する人に応じて上品上生から下品下生まで九段階も往生の仕方が分かれていて、生前相当頑張らないと(お坊さんにでもなって真面目にやらないと )上品の往生なんて無理無理~ って感じなのに、 
密教側の『無量寿軌』で、上品上生の極楽往生限定コースが説かれているのです

・・・えー、こっちのほうがいいじゃん  ってことになりますよね? (まあ、行者にならないとダメかもしれないけど…)


さらに、『無量寿軌』は大呪という真言を誦えることによってもたらされる効能については次のように説いています
「大呪を、一遍誦えると一切の業障は消滅し、一万遍誦えると菩提心が体の中に現れ、満月のように輝く。臨終の時には無量寿如来(阿弥陀如来)が菩薩とともに来迎して、行者を取り囲む。そして極楽世界に上品上生で即生まれる・・・・」
などと書いてあって、阿弥陀や菩薩衆に取り囲まれてあっという間に極楽に、上品上生で行ける!ってまた書いてありますよ

・・・こりゃ、たまりませんねえ



大呪があるなら小呪、ってのも『無量寿軌』中にあります

この小呪は、『無量寿軌』では、「一遍誦えると阿弥陀経一回誦えるのと同じ!十万遍となえると阿弥陀如来を見ることができ、臨終のときに極楽世界に行くことが決定!」
なんて言っていますが、
この小呪は、日本ではさらに展開していき、阿弥陀如来を前にした密教の修法として発展していきます

その話はおいておくとしても、上に取り上げたように、密教を説く『無量寿軌』の中にも、浄土教に説く九品往生が説かれ、しかも浄土教を上回る効能を説いている・・・・って、すごいことだと思いませんか?

   
じつは、『無量寿軌』に浄土教の要素が多く見いだされること、そのうち浄土三部経の一つ『観無量寿経』からは上品上生往生について言及されていることはすでに指摘されていることなのです(中御門敬教『「無量寿如来観行供養儀軌』の研究ー中国における阿弥陀仏信仰の密教的展開ー』)



つまり、これは、末法の世の中にあって、なんでもいいから最高級の往生ですぐに極楽に行きたい
と、ちゃっかり思っている人(藤原頼通さん、あなたですよ!)にとっては、スバラシイ経典だったと思うのです
       
藤原頼通さんは平等院鳳凰堂を造営するにあたり、この『無量寿軌』、絶対に参考にして建てたでしょ?
と、私は思うのです



だから、上に書いたように「阿弥陀や菩薩衆に取り囲まれて」 なんていう表現と、雲中供養菩薩像が鳳凰堂の内部を取り巻いて設置されていることも、関連があるかもしれませんね


いずれにしても、『無量寿軌』は末法の時代にその効能が期待され、鳳凰堂に関して学者さんの言葉を借りれば

鳳凰堂の堂内荘厳に際して『無量寿軌』が「密教がわから一役を担うには誠にふさわしい儀軌」   (金子啓明『鳳凰堂阿弥陀如来像と観想』)であった、ということになるのではないかと思います


追記
では、なぜ、平等院と『無量寿軌』の話が一緒に出てきたか?……というと、
鳳凰堂阿弥陀如来の胎内には、阿弥陀大呪、小呪を輪書した月輪が納入されているからです
以前の記事にその辺のことを書いていますので、よかったらどうぞ〜〜

2016/9/15 平等院阿弥陀如来の胎内月輪↓
http://naranouchi.blog.jp/archives/65803811.html






前回の続きです

今回は、壁と扉に描かれた九品来迎図についてです


2. 観経の表現と 鳳凰堂九品来迎図との「くいちがい 」

掲題のとおり、観経と鳳凰堂の九品来迎図は、内容に「くいちがい」があります 


その「くいちがい」を見る前に、観経に基づいて、くいちがい無く描かれている当麻曼荼羅を先に見てみます

(なお、
観無量寿経九品往生段の文書については
↓ こちら

観経と当麻曼荼羅

奈良県当麻寺にある当麻曼荼羅は、
奈良時代の観経変(観経に基づいた絵画)です
 

当麻曼荼羅図 (貞享本)
 



この当麻曼荼羅の下辺には観経の九品往生段に基づいてえがかれた、九品来迎図が描かれています


↓ 下辺の九品来迎図
 


部分的にアップ↓



当麻曼荼羅の九品来迎図では、観経の内容と同様に、往生の格が下がるにつれ、来迎の人数が減ってゆきます

上品上生の来迎では阿弥陀三尊とともに たくさんの菩薩  が来迎しますが
下品下生では誰も来ずに蓮台がゴロゴロ来るだけ ひぇ~

というシビアな展開になります(それでも極楽に行けるだけありがたいわけだ)

おもしろいので、観経の文と当麻曼荼羅を比較しながら見ていきますね


1.上品上生


観経
(抜粋しながら、少し現代語にします)
阿弥陀如来、観世音、大勢至、無数の化仏、百千の比丘・声聞の大衆、無数の諸天 が、七宝の宮殿とともに現前する。
観世音菩薩は、金剛の台 (うてな)を執り、大勢至とともに行者(往生する人)の前に至る。
阿弥陀如来は、大光明を放ち、行者の身を照らし、諸々の菩薩とともに、手を授けて迎接する(阿弥陀が往生する人の手をとって迎える)……」


当麻曼荼羅 
↓ 阿弥陀とともに観音勢至、たくさんの菩薩、化仏(上でふわふわしてる小さいやつ)が来迎



2.上品中生

観経

阿弥陀仏、観世音・大勢至・無数の大衆眷属とともに囲繞せられて(囲まれて)、紫金の台 (←この色でいいのかしら?)を持って、行者の前に至る。
「あなたを迎えに来た」と言われ、千の仏とともに、一時に手を行者に授けた…」


当麻曼荼羅
上品上生より少ない が、阿弥陀、観音・勢至とともに、菩薩たちが来迎



3.上品下生

観経

阿弥陀仏および観世音・大勢至、もろもろの眷属とともに、金蓮華  を持ち、五百の化仏を化作して来る。
五百の化仏が一時に手を授け、迎えに来たと言う……」


当麻曼荼羅
阿弥陀と観音・勢至、そして菩薩、化仏が来迎





4. 中品上生

観経

阿弥陀仏、もろもろの比丘とともに、眷属に囲繞せられ、金色の光を放って来る  」

当麻曼荼羅
ここは、阿弥陀、比丘二体来迎する様子と帰る様子(帰り来迎…こちらは観音勢至かな?)が同時に(異時同図法)描かれる



5. 中品中生

観経
阿弥陀仏、もろもろの眷属とともに金色の品を放って、七宝の蓮華を持って、行者の前に至る  」

当麻曼荼羅
阿弥陀、観音・勢至の帰り来迎





6. 品下生

観経 
ここは、少し様子が違う!
   来迎の記述がない!
のですよ
うーん、なぜだ?



当麻曼荼羅 
来迎、平常運転中⁉︎
観経には記述がらないのに、当麻曼荼羅では帰来迎が描かれてるのですよ……



7. 下品上生

観経
「仏が、化仏と化観音、化大勢至を遣わして、行者の前に至る」



当麻曼荼羅
阿弥陀が、化観音・化勢至と来ている(という絵の解釈でよいのかな?)
帰り来迎も描かれていますね




8. 下品中生

観経
「地獄の衆火が至るが、善知識が阿弥陀仏の威徳を説くのを聞いて、地獄の火が清涼の風となり、もろもろの天華を吹く
華の上に化仏、化菩薩がいて、迎える」

当麻曼荼羅
観経の「地獄の衆火」が、松の木の脇の炎




9. 下品下生

観経
「念ずることができなければ、無量寿仏(阿弥陀)の名を称えなさいと言われ、南無阿弥陀と称えると、金蓮華 が日輪のようにその人の前に来た」

当麻曼荼羅
誰も来迎しませんが、建物の中に、ゴロゴロと蓮華台だけが来ました(/TДT)/



以上、画像でとりあげた当麻曼荼羅は、貞享本で、奈良時代の原本ではないのですが、観経の内容を反映して来迎の聖衆の人数が減るのがよくわかりましたよね




観経と鳳凰堂九品来迎図

さて本題の、鳳凰堂の扉と壁の九品来迎図 です

ここは先述のとおり、観経の内容と  くいちがう絵が描かれています

くいちがい の内容は、九品の区別がないということです 
どのレベルの往生であれ、来迎の人数が減らず、全部、豪華フルメンバーによるお迎えが表現されているのです
(ほんとにもう、viva 頼通!)



以下、鳳凰堂の画像が入手困難なため、不完全ですが、可能な限り画像を集めてみました(統一感に欠けてしまいます )



上品上生
観経の内容のとおり、豪華メンバー

来迎部分アップ
ただしこれは、江戸時代1671年の図



上品下生図
豪華メンバー
(創建当初の図あり  ↓これはその模写)


こちらは書き起こし図
(田口栄一『鳳凰堂扉絵における来迎表現と観経九品往生観について』)
豪華メンバー表↓




中品上生
豪華メンバーキープ
復元模写、部分(この絵のオリジナルは、鎌倉前期のもの)

↑ 往生者に向って、阿弥陀のおでこからビームが出ている





下品上生図 
やっぱり豪華メンバー
復元模写左扉、部分(この絵のオリジナルは創建当初のもの)

書き起こし図

メンバー表↓




下品中生
見にくいけど…やっぱり豪華メンバー!
 
復元CG、オリジナルは室町期のもの


実は鳳凰堂の建築は、つねに不同沈下する軟弱な地盤の上に建てられていました
(北が固く、南が柔らかい地盤らしい)
そのため、つねに建物を補強する必要があり、鳳凰堂の歴史は修理の歴史でした

南北の側壁は、創建当初土壁だったものが後に板壁になる改変をうけ、
次の記事で取り上げる仏後壁は土壁から板壁にされたり、筋交いを入れられたりと、傷だらけ歴史を経てきたのです

つまり、現在残っている壁画の制作はそもそも一斉に行われたわけではなく、
時代をまたがる制作の結果です

そこに、制作当初の願主藤原頼通の意図がどのくらい残り、反映されているのか、考えると甚だ心もとない気もしますが、代々の修復をした人々が頼通の構想がキチンと継続したと考えます

その上で、
来迎図の各段階の来迎者数を調べてみますと
上品中生  20、 上品下生  21、 中品上生  21、 中品中生  20、 下品上生  21、下品中生  23

……だいたい同じじゃない?


観経や当麻曼荼羅では、来迎者は減っていました

しかし、鳳凰堂の場合、
来迎の「格」は違っても、来迎メンバーの人数に殆ど差が認められないのです


(`・д・´)うーーーむ


♪なんでだろ〜う、なんでだろ〜?
なんでだなんだだろ〜う?♪


あっ!(*゚∀゚)っ 

つまり、こういうこと? 

これ、九品来迎図じゃないんじゃないの?


  
そんなことはありません!

前回も書きましたが、これらの絵の上部には、色紙型に観経の九品往生段の文章が書き抜いてあります
だから、確かに九品来迎図なのです

色紙型の例
上品下生   「上品下生……」と観経の書き抜きがある
…他の絵も同様です
(中品下生だけは、絵自体がどこにあるかわからないので、色紙型もあるのかないのかすら不明)



九品来迎図と観経の条文が「かみあわない」(全部フルメンバーである)理由
 

平等院の創始者藤原頼通
お父さん道長の別荘を貰って平等院を建てたのですが

その際、浄土教に基づいて鳳凰堂を造った  というのが大方の理解ですよね

それなら何故、観経の記述に従わない来迎表現をしたのか



この点については、「こうだ! 」という定説はないのです



私は次のように考えています 

頼通の性格は、真面目人間だった父道長(病気になってしまったこともあって、大へん真面目にに造寺造仏に励んだ)に比べ、
やや「風流好み」の性格だったようです

お父さんの道長の切実な造寺造仏に比べれば、
頼通の造地造仏の態度は、信仰心よりも「見た目重視」だったのではないでしょうか


だから鳳凰堂の九品来迎図に関しても

「だんだん人数が減っていくより、見た目が豪華なほうが、いいじゃん!」

……的な美的センスで、このような表現をとったのではないか?と考えます



「だってほら、人数多い方が いけてるじゃん! 」↓ (頼通の声) 
東北面(格子なし)



みなさんはどう思いますか?








次は、阿弥陀如来の仏後壁に描かれたものは何か?について、ザザッと書いてみます
(これも全然解決されてないんだよね )







参考文献
田口栄一「鳳凰堂扉絵における来迎表現と観経九品往生観について」(美術史97.98、1976)

参考図書
『平等院大観』絵画編
『平安色彩美への旅〜よみがえる鳳凰堂の美〜』平等院
『浄土の美術  極楽往生への願いが生んだ救いの美』内田啓一 監修    東京美術






お父さんが、「この世をば〜わが世ととぞ思ふ〜」の道長さんなんだから、
そりゃ、頼通は大金持ちのボンボンだよね〜




一昨年、平成の大修理を終えたばかりの平等院鳳凰堂



鳳凰堂については、
過去にも、何回か記事にしていますが、

今回は、鳳凰堂の絵画関係———扉、壁の内側に描かれた九品来迎図と、中尊阿弥陀如来の背後の仏後壁 に描かれていた絵———について少しまとめてみます
(いつものことながら、唐突な話で申し訳ない)



↓九品来迎図の一枚



↓仏後壁のほんの一部



阿弥陀如来の来迎図は、美しい堂内荘厳であるとともに、わからない点もたくさんある悩ましい存在です
仏後壁も、そもそも何が描いてあるのかよくわからなく、百家争鳴状態のようです

どちらについても結論など出せませんが、どんなところが問題なのか、ご紹介しますね〜(^ー^)ノ



1. 概要 〜扉壁の九品来迎図と仏後壁の問題


①九品来迎図について

↓ この図は、鳳凰堂の平面図です
真ん中が、阿弥陀如来坐像の場所 
それを取り囲んで、扉や壁があります

この扉や壁に「九品来迎図」が描かれています


「九品来迎」については、過去に何回か書いてますが、
……往生者の生前の行いに比例して、阿弥陀如来の来迎に9段階の差があるという、
『観無量寿経(観経=かんぎょう)』にある話です


9種類は、上から順に
1上品上生、2上品中生、3上品下生、
4中品上生、5中品中生、6中品下生、
7下品上生、8下品中生、9下品下生

これが、鳳凰堂内部の扉壁画にそれぞれ描かれているのです

鳳凰堂内部でどのように配置されているか、わかりやすく図にすると

こうです(わかりにくかったら、上の平面図をどうぞ )
私たちが拝観する時には、阿弥陀如来と対面するように東側正面扉から中に入りますが、
その扉は、上品上生の扉です(両側から観音開きに開けてくださっています)

その扉の右隣が上品中生左隣が上品下生の来迎図です

北側(右手側)の側面については、手前が中品上生その奥は中品中生

南側(左手側)の側面では、手前がやはり下品上生、その奥は下品中生

このお堂は、左右対称性が強いので、来迎図の配置もわかりやすいと思います



↓ 上品中生図(現物)


↓上品下生図(現物)


こちらは、後世の復元模写図
下品上生図

上の図の
↓ 来迎の部分のアップ

画面の右下には、家屋の中に往生する人が座っています
そこに向かって、観音(蓮台)、勢至菩薩(きょう手)を先頭にして、
阿弥陀如来と菩薩達が来迎する来迎図です


絵のパターンはいろいろですが、
九品来迎図は基本的にこのような図柄です



問題点!
「あれ?」……ここで問題発生

問題点1  中品下生 下品下生の絵がない
(平面図で確認してくださいね)
平面図だけではわかりにくいのですが、お堂の奥は裳階になっているので、絵がないのです…(これ、現場で確かめるのが一番早いかも)
そのために、中品下生と下品下生図がない!

これは、仏後壁の問題に関連します(後で出てきます)


さらにもう一つ、問題点があります
問題点2  (今までの説明からはちょっとわからないかもしれませんが)九品来迎図に九品の区別がない

絵によって、来迎するメンバー構成に差があってしかるべき ところ、その差が見当たらないのです

この点についても、後で出てきます 




②仏後壁の問題

ここでいったん視点を変えて、
阿弥陀如来の背後にある仏後壁(ぶつごへき)を見ることにします


阿弥陀如来の背後に、仏像と同じくらいの幅で壁があります
↓ これが仏後壁です

 
(なんか怖いフォント↑だわ〜←わざと探しました(^◇^;)〜)

ちょうど上の写真の白い四角あたりが 仏後壁です


平面図…上から見ると↓ このようになってます(阿は、阿弥陀如来)
↑ この図のように、仏後壁には前面と背面それぞれに絵が描かれています


背面は、中世、筋交いを「X状」に入れた時代があり、その後、筋交いを外した時に「絵画を拭き取ろうとした痕跡」があるくらいなので、当然殆ど絵が残らない

↓ 仏後壁背面(上のほうの折り目は私の持ってるコピーの折り目 )

(『平等院大観』)
「X状」に筋交いの跡がうっすら見える・・




前面は、阿弥陀如来に守られる形で保存状態は良いようですが、阿弥陀が邪魔になって、普段は見えない!

今回は、平成の大修理で、阿弥陀如来が「外出」した時に漸く見ることができたそうです

↓前面の絵の一部

これがまあ、↓ 鳳凰堂にそっくり!

仏後壁前面全体の絵柄は↓
(冨島義幸『平等院鳳凰堂』)

↑ 手前に、鳳凰堂そっくりの建物があり(左下伽藍) 、滝とか山とか海が描かれた上方にもう一つ建物が描かれています(右上伽藍)



③九品来迎図と仏後壁の関係

ここで、上記①の最後に書いた
中品下生下品下生の絵がなかった」ことを思い出しておいて下さい


仏後壁の背面には、下品下生を示す短冊型があり、少なくとも下品下生は仏後壁背面に描かれていた ことがわかっています


残る中品下生が、背面、前面のどちらにあるか?については、説が分かれています


A説.下品下生と中品下生の両方仏後壁背面にあるとする説(通説)

背面は先ほど書いたように、殆ど絵が残らないため、よく見えないそうですが、下品下生はここにあったことがわかっています
研究者達が、必死に残った色彩などを見た結果  と、お堂の左右対称性という特徴 から、

背面の南側に下品下生 (確定)、北側に中品下生が半分ずつ描かれていたと考える説です
…これは、『平等院大観』というバイブル的な本に採用されているため、通説となっていると考えられます


ここでさらなる疑問が発生 (やめて)
・・・・このように背面に中品下生と下品下生両方が描かれてしまうと、
前面には果たして何が描いてあるのか?(つまり「仏後壁前面の主題」)という別の展開になるわけです

これについては、次の、次の、平等院記事で取り上げますね



もう一つの説
B説. 背面は下品下生だけで、前面が中品下生と考える説

……この説だと、前面の絵には建物が2種類(左下伽藍と右上伽藍)描いてあったけど、

中品下生だけが全然違うタイプの絵でいいのか?という疑問も湧きますね〜



うーん
A説が良いのか……そうとしたら、前面の絵の主題はどうなるのか、
それとも、
B説が良いのか……そうとしたら、なんで中品下生だけ絵のタイプが違うのか、

はてさて、どうしたものか?


わかりません……(; ̄ェ ̄)

学者さんの論争を見守りましょうかね(^。^)



○●○●○●○●○

次回、観無量寿経の九品来迎と、鳳凰堂九品来迎図の対応関係について、書いてみますね





平等院についての、過去記事
テーマ「平等院」




参考図書
『平等院大観』
『国宝平等院展 2000  図録』東博
『別冊太陽 平等院王朝の美』平凡社 2009
冨島義幸『平等院鳳凰堂 現世と浄土のあいだ』吉川弘文館 2010






この世界、案外「言ったもの勝ち」みたいな気もするなぁ……


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東寺講堂の四天王を書く予定なんですが、
それはちょっと置いてといて(得意技)

ダラっとしたお話を……(^◇^;)


いや、もうね

少し前に書いた、(私にとって)チョー難しい論文の読みに、またまた行き詰まり
これはまだ知識が足りないからだということで
「他の書物」にいろいろとあたってるのですが、
他の書物にあたると、またまた曖昧だったり、わからないことが出てきて、

「他の他の書物」にあたり……と、

理解不能のバケツリレー状態


が加速する今日この頃、皆さんお元気ですか??v( ̄∇ ̄)v




もっともっとちゃんと基本をビシッと押さえよう!
ということで、引っ張り出したのがこの本↓

浄土三部経(下)
私のブログでは、以前に何度も扱っているのですが
(そしてひとつとして、真面目に書いているものはないのですが ←ばかもーん!)


これ、浄土教を研究する時に必須の本です


浄土教には、基本の3つの経典があります

これを、浄土三部経と呼びます
1  無量寿経(大経)
2  観無量寿経(観経)
3  阿弥陀経(小経)



この中で、
一番ビジュアル化しやすいのが、2の観無量寿経(観経=かんぎょう)で、
浄土教美術のもとになっているだけでなく
話としても面白いのです

当麻曼荼羅は基本的に観経の内容を絵画にしたものです


以前のブログにも時々取り上げました
例えば、当麻曼荼羅の九品往生については
↓ ここ(前半はぶっ飛んでますが、後半やや真面目に書いてます)
http://s.ameblo.jp/naranouchi/entry-12001303469.html



『今回の「チョー難しい論文」を読むために読んだ論文』に引用されていたのが、
この観経の中の九品往生段でした

この『論文』の主題は「阿弥陀の印相について」だったのですが、それを理解するため、観経の中の、九品往生の部分を読み直しました 
(その『論文』には、「観経には阿弥陀の印相が書かれていない」ということが書かれています…たしかに、観経では印相については一切記述なしなんですよ(これについては、密教の図像集の方で書かれてたりするのですが、難しいので割愛!)……広く世に知られている「九品の印相」は誤りだということは、広く知られてなくて……ん?←これについては後日書きたいなと思っています 


……で、
九品往生段
生前の行いを、すごくえら〜い人から極悪人まで、9段階に分けて
えらい順に往生の仕方を分けて書いたもの です

9段階の内訳は、
まず3段階
すなわち上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)に分け


それぞれの段階の中でさらに3段階に分けるもので

上品上生、上品中生、上品下生
中品上生、中品中生、中品下生
下品上生、下品中生、下品下生

の9段階となるわけです
(浄土三部経の中で、1の『無量寿経』では、3段階にざっくり分けただけなんだけどね=三輩段)



観無量寿経の本をめくってみるよ

↓ たとえば、この部分は、上品上生 (チョー偉い人の往生について)
 
写真右下の丸で囲ったところに、上品上生とは……って、書いてあるよね
チョー偉い人はどんな人かいろいろ書いてあります
そして、亡くなったとき、「阿弥陀如来、観世音・大勢至、無数の化仏、百千の比丘・声聞の大衆、無数の諸天、七宝の宮殿」が、現前し、うんたらかんたら……と書いてある!




↓こちらは、下品下生 (極悪人の往生について)
 
↑ やっぱり丸で囲んだところに、下品下生とは・・と書いてある
どんな人かというと「五逆・十悪」をした人で、亡くなった時、南無阿弥陀と称えれば、(誰も来ないけど)金蓮華だけゴロゴロ来る、と書いてあります(寂しい往生だけど、金蓮華が来ただけでもよかったわけだ……)




こういうのが、9段階それぞれに書いてあって

・どういう人が、上品上生、上品中生……か?という定義からはじまり、

・亡くなるとき、極楽からどんなメンバーがお迎えに来るのか? (偉い人ほど、大勢でにぎやかに迎えにくる……最後は、蓮台だけ )

・極楽には、何に乗って行くのか? (極楽行きの乗り物=蓮台にも格があるのだよ)

・極楽にはすぐにつくのか?時間がかかるのか? (極悪人はさっさと極楽で蓮台から「下車」できないんだよね…)

……なあんてことが、段階別に書いてあるのです



これが真実なら、生きてるうちは、なるべく「いい人」で過ごした方がいいよ!ということになりそう

(でも逆に、下品のほうに書いてある、「結局は極楽に行ける!」ってところが、中世の庶民の強い心の支えになっていくのだよね〜〜)



この観無量寿経の九品往生段、
それぞれの段で、内容が違うのはもちろん、 
記述の長さも結構違うんです

そこで、この際、
・それぞれの長さの違いや、
・書いてある内容
をビジュアル化して簡単に比較できるようにしようと思い
パソコンに該当箇所をガシガシ打ち込み、印刷し、ハサミで切り、横に並べてノリで貼りました(絵に描いたような、アナログ手法だな )



それが、これ↓

大きいので、分けて撮ってみました
先ずTOP3(「上上」生の略・・・以下同じ)

↑ (ノリの跡がふにゃふにゃですがっ)         
上品上生が、この中では一番長いです



次、
4位(中品中生)から9位(下品下生)!
中品下生の短さよ!(どうした!)




そして、見にくいけど、1位から9位まで、横に全部並べた画像はこうなる↓

(画面、左より、上品上生、上品中生、・・・・と続き、一番右が下品下生です
それぞれの長さが分かるように、最後に赤い線を入れてみました)

こうやって見ると、上品上生から始まり、上品3つが長い ですが、
下品も負けちゃいない長さ


両側に比べて、中品は、短いね
生前の行いがほどほどで、平均点だから、短いんでしょうかね?

→学校でも、できる子は先生の受けがよく、逆に、授業聞かない子にも手がかかる……成績真ん中の子は目立たない
→3人きょうだいも、上の子は赤ん坊時代の写真どっさり、新しい服どっさり、逆に、末っ子はいつまでも可愛がられる……真ん中の子は、写真ないし、お古ばかり着せられるし、存在感がうすい

・・・・・というような感じで、中品の影が薄いってことかしら?

がんばれ、中品!


「切り貼り」したことで、分かりやすく視覚化されて、面白いことになりました  





………で、私の打ち込みにミスタッチがないかどうか、
私が原文を読んで、旦那にプリントアウトをチェックしてもらったのね

『観経』の文を初めて目にした旦那(普通は観経なんて読まないわよね )にとっては
内容が面白かったらしい


旦那は、

「まず自分は、九品のどのあたりにいるのか?」
と考えて

「どうせ、下品(げぼん)だろうから(←え、「げひん」と間違えてないかい?)
下品の記述が長いのは、一般人として、ホッとするものだ
という感想を持ったそうです


これは、つまり、旦那が一時的にでも信仰者の立場から、九品往生について考えたということで、

私にはびっくりぽん!でした

なぜなら、私は初めから、(観経に限らず)こういうものは、資料と見ているからです

だから、
記述の長さや内容を比較しようとか、
場合分けして整理しようとか、
早く最初の文章読みに戻ろう とか、 
そんなことばかり考えてるの

信仰者としてホッとする、なんてことはないのよね(信仰者じゃないもん )


旦那と私の、感じ方の違い、
これは、けっこう面白い違いだと思ったけど、

もし私に一時的にでも信仰心が湧くと、
客観的な判断ができなくなるんじゃないか?とも思ったりします (元々判断力なんてあーりませんけどね)

親しみの感情はあるけど、それは信仰心ではない……とでもいうのかしら?


こう考えると、宗教って難しいね

本来は、仏像だって信仰の対象なんだから、時代がどうの、材料がどうの、様式がどうの・・
って、そんなの関係ないはずだものね・・

逆にそんなことばかり気にするって、ある意味失礼かもしれないものね

だけど、仏像や仏教美術は、信仰心はなくても、私にとってとても身近な存在であることも確かだと思うのです


……な〜んて言っておきながら、

わが家の子ども達のこと考えると、

息子はカトリックの中高一貫校
娘はプロテスタントの中高一貫校

に、通わせたのでした・・・はははは(*´∇`*)


……わが家、やっぱり宗教的に節操ないな

という結論に私、今、改めて到達しました

これでは、下品の往生だわ〜〜 きゃーー
(お迎えの菩薩が一切来なくて、蓮台だけがゴロゴロ来るやつだわ~






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